緑を抱いて少女は





 貴石を砕いたかのような痛み、後悔、そして陶酔。
 酷く高慢なアポトーシス。



*     *     *



 硝子が嵌め込まれた扉を開くと、白檀の香がふわりと鼻腔を擽った。まず目を引くのが、正面に飾ってある梅の水墨絵。艶やかというよりも豪壮を感じるその意匠は、この国らしいと言うべきか。眼差しをずらせば、ローチェストの上に青磁の壺がてらてらと光っている。店内のいたるところに飾られている美術品の数々に、韋藍(ウェイ・ラン)は感嘆した。
(ここが、少女屋か。)
 看板があるわけでもなく、また外から覗いても何を売っている店なのか判断できる材料はない。韋藍はこの店を、悪友の一人に紹介されたのだった。
 少女屋は名前の通り、少女を商う。現実の娘を売る奴隷商とは違う。彼らが売る少女は、女の腹から生まれた人間ではない。少女師と呼ばれる者たちによって人工的につくられた生き物である。
 名家に生まれ、放蕩の限りをつくしている彼であったが、「少女」という存在は未知の領域である。興味は少なからずあったため、知識は持っている。だが訳の分からぬ技術への拒否感が、好奇心を超えていたため、今まで手を出すことがなかったのだ。
 しかし今、彼の周囲では「少女」を傍に置くということが、知的遊戯として流行っている。
 少女師によって「少女」として生まれ、「少女」として死んでいくものたち。少女を贖う人々は、その刹那さを愛でるのだという。少女を購入するということに対する人々の感覚は、愛玩動物を買うことと、美しい人形を買うこととの間くらいに位置していた。
「――いらっしゃいませ」
 店内の奥から声がして、韋藍は視線を遣った。
 そこには、年代物と思わせる異国風の机に座り、書き物をしている青年がいた。彼が店主――少女屋だろう。平凡な国民服を纏っているものの、物腰は至極穏やかで、育ちの良さを伺わせる。歳は二十代後半ぐらいだろうか。彼自身とそう年齢は変わらないだろう。
 その傍らには、秀麗な顔立ちの少年がいた。まだ、十代半ばかそれ以下だろう。硝子球のように大きな眸と、短く刈られた癖のある髪が印象的である。年齢からしてとても客には思えなかったので、少女屋の親類かとも考えたが、少年はどこか異国の香りがする。容姿は、自分たちと同じ民族であることは間違いないのだが。深緑の長袍に、同じく深い赤の束帶をしている。
 懐古的な店内、そして昔めいた少年の服装――韋藍はふと時代を遡ってしまったかのような心地になる。韋藍自身は、少女屋と同じく国民服である。ただし材質は藍の絹であり、緻密な刺繍が施されている。
 少女屋は立ち上がり、近づいてきた。
「お客さまにおかれましては、どのような少女をお求めで?」
「とりあえず、全ての少女が見たい。俺は、今まで少女を買っ――傍に置いたことがないんだ」
 買う、と直接的に言うことが躊躇われて、韋藍はそのような言い回しをした。
 少女屋は全てを心得たように頷いた。その表情は酷く老成しており、韋藍は自分と彼が同い年ぐらいだろうという当初の予想に自信がなくなってきた。
「分かりました。そうですね、それでは少女という存在をお客さまに知っていただくことが先決のようです」
 そう言って、少女屋は部屋の奥にいる少年を呼んだ。
「おいで。お客さまに挨拶するんだ」
 少女屋のその言葉に、韋藍は口の中で「えっ」と呟いていた。
 韋藍の戸惑いを他所に、少年は近づき淡く微笑んだ。
「――はじめまして」
 外見の年齢以上に、理知的な色を纏った黒の眸に、韋藍は言葉を失った。
 姿かたちから、勝手に利発な少年だと思っていたものが少女――それも、つくられた存在だったというのか。
「この者が、少女だと?」
「ええ、それ以外の何に見えると?」
 逆に問い返され、韋藍は返す言葉がなかった。かわりに、男装の理由を問う。
「髪はなぜこのように短くしているのだ」
「それがこの子に一番似合うからです」
 なるほど、よく見れば少女に見えぬこともない。これぐらいの歳の子供が、中性的であることはよくあることだ。だがそれはただの、正真正銘の本物の少女に限った話である。少女師につくられる少女の価値は、まさに「何よりも少女らしいもの」ではないのか。
 韋藍の無言の眼差しの意味を理解したのだろう。少女屋はふわりと手を振り上げ、そっと少女の頬に手を添わせた。
「この娘は、私の知りうる限り最高の少女師につくられた、最高の少女のひとりですよ。現時点では、ね」
 するすると白磁の頬を撫で、首筋を辿る。その手つきの性的な意味合いに韋藍が強張る前に、少女はぴしゃりと少女師の手を撥ね付けた。
「私に無礼を働くな」
 硬い声、硬い表情。
 漆黒の眸が、緑なす黒に見えたとき、韋藍はこの少年めいた少女が酷く気に入った。
「よし、君の名前は今日からフェイチュイだ」
 少女屋が、先ほどと変わらぬ笑みを浮かべていた。



*     *     *



 韋藍は、女性の客人用の部屋をフェイチュイにあてがった。
 彼の屋敷は異国風である。海を隔てた別大陸の建築士の設計によるもので、木造二階建である。国政の要人を招いて晩餐会が出来るように大広間がある。ときには箸ではなくナイフとフォークを使って食事をし、またときには家族でソファに座り、蓄音機の前で耳を澄ませるのだった。
 近年、この国は海を隔てた別大陸の文化が急激に流れてきており、今は過渡期といえた。人々は伝統的な文化を誇りをもって頑固に続ける一方、他国の文化を過剰に追い求めているのだった。
 自宅に少女を連れ帰った韋藍に、両親は何も言わなかった。彼らの息子は、よくこういう酔狂をするのだ。いい年をして妻を持つこともなく遊び惚ける息子に、両親は呆れながらも、今は見逃してくれている。韋藍はそれに甘え、身を固めることなど全然考えていなかった。しかし、両親が言うように、歳をとるにつれ、独身では生きにくくなっているのも確かだったが。
 韋藍は飽いていた。
 いつからこうであったのかもう分からない。
 彼には野心はなく、少なからぬ虚栄心はあったが、それは至尊に連なる名家に生まれた為、望むまでもなく充分に満たされていたと言える。また、韋藍は頭もよかった。学府で最高の成績を修めて卒業し、現在は官吏となり、出世頭である。そして容姿も特に優れてはいなかったが、それなりに端整である。
 今の韋藍にとって、楽しみと言えば悪友たちと益体もない話をしながら酌み交わす酒だけである。「だけ」とは言いながらも、無論贅沢である。それでも――韋藍は思うのだ。俺は、若くして充分に人生に飽いてしまった、と。
「おいでフェイチュイ。ここが君の部屋だ」
 フェイチュイは少し首を傾げ、それから他人行儀な物言いで「ありがとうございます」と言った。彼女は、少女と主人の関係というものがよく飲み込めていないように韋藍の目には見えた。そしてそれは、無論韋藍自身も同じだった。
 だが、少女は人間にはない幾つもの本能を持つという。そのひとつが、名前を与えた主人――マスターを愛するというものだった。彼女たちは希薄な感情しか持たぬが、それだけは確固たるものであると。
 ならばフェイチュイは俺を愛するのだろうか?
 フェイチュイが部屋の中に入ったのを見届けてから自室に一度引き上げた韋藍は、寝台に寝転びながら少し想像してみる。だが、どうも上手くいかない。そもそも、あの少女が一般的な「少女」と言えるのだろうか? 今まで数度目にしたことがあるどの少女とも似つかない。悪友に言わせれば、彼女たちは「実際の少女以上に少女性を持つ」らしい。だが、フェイチュイは少女らしいとはいいがたかった。
 少女屋で交わした言葉を反芻してみた。
『この者が、少女だと?』
『ええ、それ以外の何に見えると?』
 少年に見える。
 そういう反駁を、あのときの少女屋に対して行うことが出来なかった。それは、あの少女屋が心底そう思っていることが分かったからである。――あの少女屋をして「現時点での最高」と言わしめたフェイチュイの、どこがそんなにも少女らしいと言うのだろうか。韋藍には分からなかった。そしてそのようなことは実際のところどうでも良かった。



*     *     *



 少女を傍に置く人間のことを、この国では単に主人と呼ぶ。だが韋藍は、フェイチュイに自分を主人とは呼ばせなかった。屋敷に住み込む召使いたちと彼女は一線を画すべきだと思ったからだ。
 少女を迎え入れた韋家は、しかし嫡男の韋藍を除いて、一切彼女を黙殺した。両親たちはともかく、召使いたちにとっては、少女という存在自体が理解不能だったのだろう。
 一緒に暮らしてみて分かったことだが、フェイチュイは酷く頭が良かった。韋藍が読む小難しい本を、むしろ好んで彼女は手にとる。広い屋敷の中で少女を探そうと思えば、まず書庫を覗くのが倣いとなるほどに、彼女は本が好きだった。韋藍が仕事に出ている間、彼女は日がな本ばかり読んでいるのだという。そんな姿を見ると、韋藍は彼女が生まれて一年も経たぬ存在ということを信じられなくなる。
 人間は、本能以外の何も持たぬまっさらな状態で生まれてくる。だが少女たちは違うのだ。本能も理性も常識も基礎知識も、多くのものを持って彼女たちは誕生する。少女のつくりかたは少女師の秘中の秘であるため、殆ど知ることは出来ない。しかし聞くところによると、彼女たちは赤ん坊から成長するのではなく、生まれながらに少女であるのだという。
 また、少女は少女として死ぬ。女になる前に、少女として老いてしまう前に、主人によって廃棄されるのだ。――少女が少女でなくなることは、老いと同様であり、それは本物の少女が成長して女になるのとは異なり、ただ醜悪なのだと彼らは言う。
「フェイチュイ、君はどうやって生まれたんだい」
 ある日、韋藍がそう問うと、フェイチュイは手にしていた書物から視線を剥がし、こう答えた。
「ヒトをかたちづくるとても小さいものから、私たちは生まれるんだ」
 書庫にある古びた革張りの椅子に座っているフェイチュイは、韋藍よりも誰よりも、この場所に似合う存在だった。韋藍はフェイチュイの漆黒の瞳が、またあの日のように美しい色を見せないだろうかと期待しながら、会話をする。
「人を形作るとても小さい物? それはなんだ」
「答えれないよ」
 さらりと言って、フェイチュイは微笑む。硬質な表情が、束の間柔らかくなる。それは嬉しそうにも見えたし、哀しそうにも見えた。だから、なぜ答えられないんだ、と追求することは憚られた。
 どのような生まれ方であろうと、フェイチュイが少女であることには変わらない。それならそれでいいと韋藍は思った。
 韋藍の友人たちは、少女のことをまるで侵しがたいもののように語る。その気持ちを、韋藍は少しだけ理解した。――フェイチュイには独特の時間が流れている。
 フェイチュイの生き方はひどく静かだった。ただそれは、贖われた身としての当然の姿勢なのかもしれなかったが。朝起きて、韋藍と一緒に食事をとった後、書庫に篭る。昼には部屋に戻り、召使たちがそっと置いておいた昼食をとる。そして、日差しが和らいだ頃に庭に出ると、外に出してある長椅子に寝転び午睡むのだった。日が翳りはじめると、再び書庫に篭って本を読む。韋藍が帰ってきたら彼と一緒に夕食をとり、ときおり、気が向けば彼らは一緒に眠りの淵に付く。そんな単調な生活を、フェイチュイはここ一ヶ月続けていた。
 彼女に流れる時間は酷く緩やかでありながら、あっという間に流れていく。彼女はいつまでも少女なのだろう。どこもかしこも若々しく、それでいて、韋藍でさえも瞠目させる深慮を見せることがある。彼女たちは、生まれながらに子供から大人への過渡期の只中にいるのだ。そう、この国と同様に。
 夜、寝物語でこの国の古い古い時代の話を語ってやりながら、今この瞬間にも韋藍は意識している。フェイチュイの老いを。


*     *     *



「そういや君、少女を手元に置いたんだって?」
 近々布告される予定となっている法案の草稿を纏めている最中、隣で同じ作業をしていた同僚が聞いてきた。先ほどまでは黙々と仕事をしていたのだが、長時間に渡って根を詰めていたため、疲れてきたのだろう。
「ああ」
 そういや、こいつも少女を手元に置いていたなと思い出す。
 そろそろ休憩の時間が近いということもあり、韋藍は原稿から目を離す。下働きの者が淹れた茉利花のお茶を啜って、同僚の方を向いた。彼もまた、韋藍が話に乗ってきたために姿勢を崩した。もはや、仕事をする気にもならない。
「なんていう名前をつけたんだい?」
「フェイチュイ」
「君らしいね」
 彼はそういって笑った。
 そういう彼が己の少女につけた名前は、麗麗(リーリ)。彼の姓が曹であるため曹麗麗と呼ばれていた。
「どんな娘なんだ」
「まるで少年のような子だよ。男勝りっていうより無性的――いや、中性的といいうのかな。ちっとも女らしくない。品はあるがな」
 そう言って、韋藍はフェイチュイが少女屋を撥ね付けた一件を語った。
「ちょっとそこらでは見られない子供だったからね。気に入ったのさ」
「ふふ、見事に高慢だね」
「高慢……? あれは少女屋が悪い。フェイチュイのしたことは当然のことだろう」
「分かってないな。少女はみな高慢だよ」
 まるで分かったふうなことを言う。
 ふと韋藍はあの少女屋の何もかもを見透かしたかのような笑みを思い出して、不快な気分になった。
 少女とは、一体どういう存在だというのだろう。その答えに、普遍はないということか。
「そうだ、君。曹麗麗は元気かい」
 韋藍がそう聞くと、彼は寂しそうな笑みを浮かべた。
「もうこの世には存在しないよ」



*     *     *



 ときには、韋藍は彼女を連れて街を歩いた。
 都の北側の大通りをそぞろ歩き、劇を観たり、店を冷やかしたりした。
 相も変わらず、フェイチュイは少年のように見えた。誰もがフェイチュイを韋藍の歳の離れた弟と勘違いした。それも無理のないことである。韋藍でさえ、未だに彼女を少年のように思っていたのだから。
 服を仕立ててやると言えば、彼女は少年の格好ばかりを求めたし、実際、それはよく似合った。さまざまな色の衣裳をフェイチュイに贈ったが、はじめて彼女を見たときの深緑の長袍以上に相応しいものはなかった。
 彼女を迎えて半年が経ち、フェイチュイも韋藍に打ち解けてきたのだろう。子供らしい戯れを言ったり、淡い微笑みを頻繁に浮かべるようになっていた。
 皇城を取り囲む堀の周辺を歩いていると、フェイチュイが声をあげた。
「韋藍。あれはなに?」
 フェイチュイは自ら積極的に外出をねだることはなかったが、一度外に出ると、あれこれ韋藍に質問した。このとき彼女が指差したのは、空を飛ぶ美しい青鳥だった。
 韋藍は、この偶然に少し驚きながら、答えた。
「カワセミだよ」
「え?」
「カワセミ。あの鳥はそう言うんだ。玉(翡翠)のように綺麗な色をしているだろ?」
「ああ」
 嬉しそうな彼女の様子に、韋藍は口元に笑みを刷くにとどめた。いつか、フェイチュイに本当の名前の由来を語ってあげよう。彼女は今以上に喜ぶだろうか?
 フェイチュイは飽きずに眺めていたが、鳥はしばらく身を嘴で毛繕ったあと、羽を広げて飛び立った。



*     *     *



 ある日、フェイチュイが韋藍の部屋にやってきて、彼の為に茶を淹れた。韋家にある茶の葉はとても高価なものであり、フェイチュイに扱いきれるものではなかったが、召使いにこっそりと習っていたらしい。召使いたちはフェイチュイに慣れてきたようで、韋家のお嬢さんとして扱うことに決めたようだった。彼らの目にはとても「お嬢さん」には見えなかったものの。
「ありがとう、フェイチュイ。美味しいよ」
 少し甘めの採点ではあったが、確かにいい香りがする。韋藍の言葉に、フェイチュイは表情を綻ばせた。韋藍は料理人に言って、夜のデザートを持ってこさせた。
「ここにお座り、フェイチュイ」
 彼女は言われたとおりに、卓子を挟んで韋藍の正面の椅子に座った。そこに料理人が硝子皿に入れた茘枝(ライチ)を持ってきて、ふたりは取りとめもない話をはじめた。
 韋藍はフェイチュイが今日読んだ本を尋ね、フェイチュイはとある政治に対する批判を記した書名をあげる。その可愛げのない選択に韋藍は微笑み、どう思ったかを聞いた。
「出来の悪い破滅予言みたいで嫌い。建設的な意見が書けないなら、本を出す意味なんてないじゃないか」
「確かにな」
 現実の世界に生きるわけではないフェイチュイが政治の本を読むことに対して、以前は違和感があった。しかし、近頃はそのようなことを考えることもなくなっていた。フェイチュイがつくられた少女であること、そしていつかはそうではなくなってしまう存在であることを、韋藍はもう意識していない。
 ひとしきり本のことで語った後、韋藍はこう言った。
「今度、本人に言っておくよ。きっと奴も有益な意見に感謝する」
「え?」
「あれ、俺の友人が匿名で書いたものなんだ」
「悪趣味!」
「だろう? 奴、自分の妻にもこそこそ隠れて、こんなものを書いているんだ。十年も連れ添っておきながら、薄情な奴だよなぁ」
「違う。私は韋藍が悪趣味だと言っている」
「そいつは悪かった」
 韋藍は声をあげて笑い、フェイチュイは諦めて溜め息をつき――ふと、フェイチュイは今思いついたかのように、おもむろに尋ねてきた。
「その友達は、韋藍と歳は変わらないのか」
「そうだが」
「ね、韋藍。あなたはなぜ、結婚していないんだ」
 上流階級に属し、二十代後半である彼が妻帯していないということは確かにおかしなことであった。彼の友人が結婚して十年になり、片や韋藍には婚約者すらいないことが、今更ながらに不思議になったのだろう。
 茘枝の果汁に濡れたフェイチュイの指先に見惚れながら、韋藍は大したことではないといったふうに答えた。
「その気がないからさ」
「韋藍らしいね」
 フェイチュイはその答えが気に入ったようだった。
「人を好きになったことはないの」
「あるさ。俺も男だからな」
 だけれど、俺も彼女も子供だったから、お互いを好きでいられたのさ。
 芝居がかった口調で、彼はそう答えた。
「今はどうしてるんだ?」
「ただの男と女さ。恋をしようとは思わない」
 ああ、俺はなんでこんなことをフェイチュイに語っているのだろうか。
 果たして、フェイチュイはくすりと微笑んだ。しかしその笑みは、どこか哀しい。韋藍は、君はどうやって生まれたのか、と聞いたときのフェイチュイの微笑みを思い出した。踏み込んではいけないと韋藍に感じさせたあの笑みを。
 彼は急に、フェイチュイを遠く感じた。
 フェイチュイが、理解できなかった。



*     *     *



 あれから、なんとなくフェイチュイに会いづらい日が続いた。
 自分のことでありながら、理由は定かではない。
 今まで、フェイチュイと語り合うことが楽しかった。生まれて一年も経たぬ筈の――外見でさえもまだ幼い彼女と向き合うことが、何よりも韋藍を引き付けていたのだった。振り返れば、韋藍は己の中の空白をぴったりと満たしていた。
 だが、今彼女と向き合うと、自分が冷静ではいられないような気がする。
 たまには食事を一緒に摂っていたが、韋藍は仕事帰りに寄り道をすることが多くなった。気が付けば、あの日からフェイチュイに寝物語を語ってやっていない。
 それでも、フェイチュイのことばかり考えている。フェイチュイの、緑なす黒の瞳を見たいと思っている。
   


*     *     *



 韋藍に何度目かになる縁談の話が入ってきたのは、フェイチュイと出会ってから一年のことだった。
 相手の女性に興味はなかったが、断れない話ではなかった。それでも、韋藍は迷っていた。
 韋藍が困っている様子であることに、縁談を持ってきた当の母親の方が驚いていた。今までの韋藍であれば、話を聞くまでもなく、嫌そうな顔をして、「またそんな話を持ってきたんですか?」と嫌味を言っていただろう。
 母親の前から辞し、廊下を歩きながら、韋藍はどうやってフェイチュイにこの話をしたものかと考え込んだ。この生活の中に、己の妻が入ってくることをフェイチュイは好まないだろう。たとえ、表に出して反対することはないにしても。
(……いや、違う)
 自分がただ、未来の妻とフェイチュイが仲良く暮らす図というものを想像できないというだけの話なのだ。そして、フェイチュイとのことがなければ、迷いもせず断っただろうことだ。
 母親に縁談の話を保留してもらい、韋藍はフェイチュイにそれを告げる機会を窺い、とうとう一週間経ったある日の朝、フェイチュイに言った。
「久しぶりに、ふたりで外に出かけないか」
 韋藍自身が言うように、本当に久しぶりの誘いだった。フェイチュイははっと目を瞠って、それから無言で頷いた。――その仕草を見て、フェイチュイはとっくに、この話を知っていたのかもしれないと韋藍は思った。


 街へ出かけるのに際して、フェイチュイは、深緑の長袍と深紅の束帶を纏った。出会ったときそのままの装いである。韋藍は一年前に戻ったかのような既視感に包まれた。
 思えば、あのとき彼女を少年と見間違えたところから、全ては始まっていたのだと思う。
 韋藍がまず彼女を伴ったのは闘蟋(闘コオロギ)大会だった。勝戦では庶民に混じって小遣い程度の金を賭けた。もちろんフェイチュイにとっては初めての賭博であり、負けてしまったものの彼女は無邪気に喜んだ。昼過には小奇麗な区域に戻ると、店から店を渡り歩きながら、買い物を楽しむ。
 宝石店の前を通り過ぎたとき、韋藍は思いついて立ち止まった。
「韋藍。どうしたんだい」
 首を傾げるフェイチュイに、韋藍は込み上げてくる笑みを押さえ、言った。
「ちょっと時間がかかるけれど、そこで待っていてくれないか」
 フェイチュイを外で待たせて、朱金に塗りたてられた立派な店内に入る。遥か大街道を通ってこの国にやってくる絨毯を敷き、白檀の机が奥に置いている。韋藍と大差ない豪奢な装いをした店主が、愛想よく対応した。
「旦那さま。どのような品をお求めで?」
「翡翠を」
 迷わず韋藍が答えると、店主は破顔した。
「全く運がいい、あなたさまは! 本物の翡翠を扱うのはうちだけですよ。さあ、一体どの翡翠を? 隣国で採れる硬玉翡翠、それとも」
「無論、硬玉翡翠を。あの子に似合うだろう?」
 店の入り口で所在無げにしているフェイチュイを指して言うと、店主は納得して大仰に頷いた。
「確かに、硬質の美しさですね。旦那さまの妹さんで?」
 聞き捨てならない言葉に、韋藍は身を乗り出した。
「――おい、お前にはあの子が少女だって分かるのか」
「そりゃあ、分かりますよ。男装なんかしてたって、この時期の少女ってもんは、独特の美しさがありますからね」
 見えない何かに抗いながら、それでも同時に、彼女たちは傲慢に世俗を見詰めている。
 宝石屋の言葉に、韋藍は思い出していた。少女屋の言葉を。少女を喪った同僚の言葉を。
 彼らは、自分よりも余程、少女を知っている。それは認めざるを得ない。
 店の中に居たのは少しのことだったが、外に出ると既に日が傾きかけていた。フェイチュイは隣の店を覗いて暇を潰していたようで、待たされたことを別段腹を立てているふうではなかった。
「悪い、待たせたな」
 再び、肩を並べて歩く。
 少しずつ朱の雫を落としていく空に、隣のフェイチュイが見惚れているのが分かる。彼女の黒髪が夕日を受けて、えも言えぬ色になっていた。ふと胸を競り上げる情動があり、韋藍はフェイチュイの手を握った。ぎくりとして、彼女は咄嗟に手を振り解こうとしたが、そ知らぬ顔で握り続けた。
 胸が痛かった。一緒に肩を触れ合わせて眠りについた幾度の夜よりも尚。
 そのまま韋藍は、夕食前でごった返す通りを避けて、貧富を別つように南北を別つ、礼葉という川の辺まで歩いた。フェイチュイは何も問わず、ただされるままになっている。ただ、彼女からは戸惑いと、怒りが感じられた。
 さわさわと川に添うように立つ木々がゆれ、川のせせらぎが聞こえる。
 突然、目に見える景色が変わった。
 それまで仄赤い程度であった空が、一気に色を増し、世界が赤に染め抜かれたのである。
 声もなくその情景を見詰めていたフェイチュイに、韋藍は言う。
「さっきの店で、君に買ってきた」
 韋藍はさきほど購入した翡翠をフェイチュイに翳してみせた。それは深い色合いの、鈍い輝きをみせる。フェイチュイを知ってからは、翡翠がこの世で一番美しい宝石であると韋藍は信じている。
 果たして、フェイチュイは首を振った。
「いらない」
「フェイ……」
「いらない。それが、女の私への贈り物なら、いらない。私は女にはならない」
 他でもない、女になりゆく少女の表情をして、フェイチュイは言った。
 少女。
 そうだ、もはやフェイチュイは少女以外の何者でもない。
 彼女自身が頑なに拒んだ過渡期の只中に、今や彼女は居る。
 韋藍はフェイチュイを凝と見詰める。彼女の白磁の頬は、夕日に照らされ、あかあかと燃えていた。前髪でつくられた陰が、きゅっと結ばれた唇が、緑なす黒の瞳が。
 そう、瞳が。
 女となり果てた後のフェイチュイは醜いかもしれない。そして彼女はあと少しでそうなってしまうのだろう。それでも今、もがき苦しむ彼女は美しい。凄絶なほどであった。
 少女屋の言葉の意味が分かった。あの同僚の気持ちもまた。
 そしてこの瞬間、自分はフェイチュイを誰よりも理解していると思った。そして、誰よりも彼女を理解しない立場に在るのだと分かっていた。こうしている間にも、彼女を痛めつけている。
(……嗚呼)
 ぎゅっと手の中の翡翠(フェイチュイ)を握り締める。
 韋藍は、残酷な衝動に駆られた。
 その言葉を発する前からすでに彼は後悔し、そして甘い陶酔に痺れていた。それは痛みだった。何事にも代えがたい――全ての刹那に対しての痛みだった。
「俺の妻になるか?」
 韋藍の静かな言葉に、フェイチュイは酷く傷ついた表情をした。小さな音を立ててひび割れた翡翠を思わせるような、儚く、そして今はもうなんの価値もなくなってしまったものだった。
 返した彼女の声は硬かった。もしくは、そう聞こえるように祈った声だった。
「……死んでも嫌だ」
 最期までフェイチュイは少女であることを否定していた。最期の最期まで。
 韋藍は無言でフェイチュイに手の中の宝石を渡した。今度は彼女もまた黙って受け取った。
 フェイチュイは一度翡翠をじっと見詰め、そして大切に握り締めた。背後に夜が混じり始めている夕日を背負い、微笑み、そして走り去る。
 韋藍はただ少女を、少女であったものの背中を見送った。
 不意に嗚咽が漏れる。
 韋藍は、この世の中で、何よりも高慢な存在に対して、ただ泣き続けた。










・End・ 


 この話は、とある評論にインスパイアされた、習作的な意味合いの強い作品です。
 前作の「少女は愛を啼く」の世界は意図的に少女に終始させました。少女屋も人形師見習いも、限りなく無個性に近く、名前すらない。季節もない。睡蓮という少女のためだけの作品でした。
 この作品も当初はその筈でした。はじめから翡翠という少女は私の中に存在していましたが、その他の登場人物のことなどどうでもよかったのです。しかし、なぜか話が動かなかった。仕方なく、彼女の主人に韋藍という名前をつけたところ、突如彼の個性が自己主張をはじめ、物語がはじまった。結局、フェイチュイを少女にしたのは、韋藍でした。


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