[一]  今夏の盛り





あれから初めての夏がくる




 この暑さの中、町中で泣き出したい衝動に駆られた。僕はいつまで、こんな気持ちでこの道を歩かねばならないのだろう。
(町から逃げるためのこの道を)
 絡み付く熱れが頬を撫ぜた。
 僕は照りつける太陽を眇め見る。
 迷惑なことに、夏も酣である。蒸し暑い日が続いた。今も午前とは思えぬ気温だ。
 擦れ違う人々の表情は一様に、燦々たる陽光に恨めしげである。彼らの足取りには、ただうんざりとした重みがあった。ただ機械的に、あるいは義務的に歩を進める。交わす声もまた、僕の耳に届く頃には、湿気を含んで鈍く籠もっているように思われた。
 駅へと続く古びた商店街を歩いていた僕は、くすんだショーウィンドウに映る自分もまた、彼らと同じ表情をしているのに気づき溜め息をつく。
 それにしたって暑い。
 汗が背中を伝った。気持ちの良いものではなかったが、シャツを脱ぐ訳にもいかないので我慢する。だから夏は嫌なのだ。
 ようやく駅が見えてきた。後ろめたさはあったが、この町から『解放』されたことに、自然と安堵の吐息が漏れる。
 当初の予定よりもずっと早く、僕は学生寮に戻る。
 そもそも僕が寮のある高校を受験をしたのは、自分を知る者のない土地に行きたかったため。初めての長期休暇を利用した今回の帰省も、僕の本意ではなかったのだ。
 久しぶりの実家は僕を疲れさせた。電話一本も寄越さなかった薄情を詰られ、わざわざ遠方の高校を選ぶ必要が何処にあったかと、かつて何度も話し合った筈の埃の被った話題を今更に蒸し返される。
 遠方とはいっても、実家と高校は電車を使ってたった二時間。通えないこともない。しかも高校は全寮制ではないのだ。中学三年生のとき、どうしてもこの高校に入りたいのなら、無理してでも実家から通えと言った両親や姉に、かなり妥協してくれたと知りつつも僕は撥ねつけた。経済的に余裕がある筈の彼らがあれほど反対したのはきっと、寮があるというだけで僕がその高校を選んだことに気づいていたから。
 重たいボストンバックを引摺って切符を買い改札を抜けると、僕は田舎特有の天井のないホームに出た。
 突然声を掛けられ、一瞬だけ僕は硬直した。
 癖のない、低く真っすぐな声に覚えがあった。
「小早川っ!」
 前方に大きく手を振る見知った少年を見とめて、僕は唇をなるべく自然に、微笑みの形に吊り上げた。
 彼は身軽な身ごなしで駆け寄ってくると、「帰ってたんだ?」と第一声を発した。彼の夏服のシャツは汗で湿っている。
「もう戻るところだけど」
 そう答えたものの続ける言葉が思い浮かばぬことに僕は焦り、彼が制服姿だったのでとりあえず聞いた。
「翔は学校?」
 少年──加納翔は「部活」と答えた。
 日に焼けた中学校時代の親友は、あの頃から少し変わったようだ。今時珍しいくらい短く髪を刈って、健康そのものという外見は変わらないが、どこか大人びた雰囲気を纏うようになった。背も伸びたのかもしれない。彼は好奇心半分、心配半分で聞いてきた。
「学校どうなんだよ?」
 同学年で、寮生活を送るような所へ進学したのは僕一人だったのだ。
「楽しいよ。寮だったらやっぱ楽だわ。父さんに我が儘を言って正解だったな」
 模範解答。
 ――ジージジ ジ
 蝉の音がしている。
 脳裏を掠める、記憶の中の皓い足首。
「そっか」
 瞳の色を過去に飛ばせて、翔は懐かしむように僕を見ていた。まだ卒業して少ししか経ってないのに。あるいは僕らの間では、それほどにその時間は長かったのだろうか。
 ふたりは言葉少なにベンチに座り、電車を待った。
 焼けた腕で汗を拭う翔。
「なんだか久しぶりだな」
 僕に言うでもなく、彼は呟いた。軽く瞳を細め、上体を反らして天を仰ぐ。
 夏の空がある。
 夏の匂いがある。
 一年前と同じように、僕と翔がいる。こうしてこの季節、僕らは共にいた。
「部活って陸上だろ。翔、まだやってたんだ」
「うん。小早川はもうやってないんだ?」
 けれど今はもう、流れる時間や地理的な距離に隔てられ、
「うん――もうしてない」
 それは過去になった。
 ともすれば、あり得たのかもしれない。昨年までと同じように、今も、この先もずっと、翔と共に在れたのかもしれない。僕の身に何も起こらなければ。或いは僕に、何もかもを乗り越えるだけの力がありさえすれば。
 電車の到着を告げるアナウンスが流れ、僕らは立ち上がった。
 ホームに電車が滑り込んで停車する。平日の昼間ということで乗客はまばらであった。座席につくと、僕はなんとはなしに背後を振り返り、車窓を眺めた。電車は各駅停車で、景色は緩やかに流れている。
 僕たちは暫く取り留めない会話を交わしていたが、幾つか駅を通過した後、不意に会話が途切れた。その不自然さに胸騒ぎして、僕の心臓はどきどきと脈打った。
 タイミングがいいのか悪いのか、ガタンと車体が大きく跳ね上がり、姿勢を崩した僕は弾みで翔を見た。視線は一度絡まると、僕を捕らえて離さなかった。身体が強ばる。
 翔が何か言いたそうにしている。どうやって切り出そうか迷うような。そして多分それは僕にとって触れて欲しくはないこと、相手に気づかぬ振りを望むことなのだ。翔の人の善さそうな顔が、心苦しそうに歪んだ。
「ちょっと聞いてもいいか」
 とうとう翔は切り出した。僕は軽く下唇を噛み、きつすぎる冷房で冷えきったスボンの布地をこっそりと鷲掴む。
 厭な汗が流れた。
 翔の眼差しは強く、しかし痛みに揺らいでいる。きっと翔は中学時代の友人の代表として、僕にそれを問うことを自分に課してしまったのだ。そんな彼の誠実さが辛かった。友人たちとの仲を故意に自然消滅させた自分の不誠実を自覚していたから。
 他の友人たちはさしたる疑問もなく、住む所が離れたら自然と疎遠になるよなと笑うのだろうけど。彼は誰に対しても真摯すぎて。
「何?」
 動揺している自分を知りながらも、僕は平静を装おう。
「中三のさ、三学期……いや、二学期からかな。小早川、ちょっと、おかしかった、けど、なんで」
 遠慮しながら、変に台詞を句切ってついに翔は言う。
「変って?」
 苦笑と訝しげな表情を織り交ぜて僕は聞き返した。翔から自信を奪うために。思い違い、杞憂であったのだと思わせるために。
 けれどそんな姑息な思惑は通用しなかった。
 彼は僕の態度を見て、言葉を強く、断定的なものへとしていった。
「ごめん。言いたくないのかもしれないけどさ、俺はやっぱ聞かなきゃいけないと思うし、それに」
 彼はそこで一呼吸入れた。肺に溜め込んだ息をゆっくり吐き出してから、思い切ったように口にする。
(──やめてくれ)
「俺、あの頃のお前の態度、納得いかない。正直言うと、許せない」
 次の停車駅を車掌が独特のイントネーションで告げた。それを意識の遠いところで聞きながら、この期に及んで僕は、まだ誤魔化す方法を思案していた。
 ありのまま全てを語れるはずがない。信じてくれないだろうし、それ以前に知られたくなかった。
「納得できないって言われても……」
 困ったように眉根を寄せて、何のことだろうと考えている振りをする。――その姑息さに、我ながら吐き気がした。
「……っ!」
 反射的に腰を浮かし、彼は感情的に言葉を吐き出そうとした。それを理性で踏みとどまって、静かに僕を睨めつける。
 翔だけが、僕の身に何かが起こったのだと確信していた。他の友人には何とか卒業まで隠し通せたのに。みんな、余所余所しくなった僕に気づいていたけど、怪しむ奴なんていなかったのに。
「聞き方を変える。俺と一緒の高校行くって言っていたのに、どうして急に黙って志望校変えたんだ。しかもあんなに遠い寮制のとこ」
 誤魔化すな──視線で釘を刺された。そしてやはり僕はそれを無視する他に術を持たなかった。
「家でね、ごたごたがあったんだ。それで姉さんたちと一緒に暮らすのが、どうしても嫌になってさ……」
 以前、翔と同じようなやり取りをしたことがある。卒業間近のある日、僕の変化を確信した彼は、僕を問い詰めた。
 今、僕はあのときと同じように、翔をはぐらかし、彼の誠実を徒労のものにしようとしていた。全てが嘘ではない。それは真実の一端。けれど僕は肝心のことは何ひとつ言えないのだった。家で揉め事が起こったから、というのはあくまで間接的な理由でしかない。
 沈黙が続いた。僕は不意に全てをぶちまけたい衝動に駆られた。それを、堪える。
「分かった」
 諦めて、翔は会話を閉じた。
 納得していない口調、傷ついた眼差し。
 僕は親友を失ったことを悟った。もう彼は僕に連絡を寄越しはしないだろう。
 ――そうなることを自分から仕向けた僕が、寂しいと思うのは狡いのだろうか。



+  +  +


 小早川宗は俺の友達だった。親友だと少なくとも俺は思っていた。
 神経質そうな線の細さはあったけど、女々しいって訳じゃなく、むしろ気持ちよいくらい明朗な気性で、皆に好かれていた。
 ──あいつが変わったのは何時だったろう?
 それすら分からない。あまりに変化は緩やかで、俺は本当にギリギリまで見誤っていたのだった。
 気づいたときにはすべてが終わった後だった。俺は何が起こったのか知ることも出来ないまま、親友を喪った。
 ――あいつの、俺に対する友情を疑ったのではない。
 あいつは区別なく、全ての人間を遠ざけたのだから。親友の俺をも避ける側の人間と分類し、あいつは一人、自分だけの繭に籠もった。
 そう。正直言って、俺がこんなに苛立つのは、自分がその他大勢と一緒くたにされたのが悔しかったからなんだ。小早川にだって相談できない理由があるのだろうと頭では理解しようとはしたが、あいつは俺にとってそれだけ大切な友人だったから。
 けれど、もう終わってしまった。俺にはもう二度と、あいつに近づくことはかなわない。


+  +  +



 寮の自分の部屋にやっと到着すると、まず換気のために窓を開けた。寮は全室冷暖房完備なのだが、どうも僕は暑いのは苦手なくせにクーラーとも相性が悪いらしく、長時間当たっていると体調を崩してしまうのだ。
 風が入ってくると、サウナ状態だった部屋もどうにかマシになった。同室者がいれば僕の体質に付き合わせる訳にはいかないが、彼はまだ入寮していない。──スポーツ入学して夏休み中も部活に勤しむ連中や、実家が遠方であるとかで、帰りたくとも帰れない生徒ならともかく、それ以外で今の時期に戻ってきた生徒は僕くらいだろう。
 下敷きを団扇がわりにぱたぱたと扇ぎ、外で買ってきたジュースで喉を潤す。
 暑さってものは、頭の中が真っ白になるような、それでいて感覚が異常にシャープになるような、人をどこかおかしくさせる力を持つような気がしてならない。
   ジージジジ
 絶え間ない虫の鳴き声が、妙に静かなこの空間に響いた。町の喧騒も遠く、自然の音色は横たわるこの静寂を際立たせるだけだ。
 心地よい孤独感。
 不快に引っ掻き回される記憶。
 このままじっとして蝉の鳴き声を聞いているのは、なんだか耐えられない気がした。
 ──図書室へ行こう。
 ふと思い立つ。高校の図書室は、夏休みもお盆以外は解放していた筈だ。本が好きだということもあるが、誰にも干渉されない空間として図書館は気に入っている。
 財布だけを手に廊下を出ると、不運なことに同級の秋月智とばったり会ってしまった。そういえば彼もまた居残り組だった。
 癖なのか、彼は柔らかな茶色がかった癖っ毛をかきあげた。傍らに立ってみると彼が案外背が高いことが分かる。
 僕がついていないと思ったのと同じに、彼もまた困っているだろう。彼は穏やかな性格で優しいと評判の、友人の多い少年だが、僕はクラスでも話しづらい奴と認識されているから。それでも彼は僕を無視したりせず、持ち前の社交性を発揮して、挨拶代わりに話しかけてくる。
「小早川、もう帰ってきたのか? 随分と早かったんだな」
「そうだったみたいだね」
 そっけなさは板につき、すでに僕の一部と化している。呆気なく会話が途切れてしまい、秋月は気不味そうにアルミフレームの眼鏡をかけ直した。
「えっと……小早川は何処へ行くんだ?」
「図書室……学校の」
「……驚いたな、一緒だ」
 秋月の台詞に僕こそ驚いた。
 思わず「え?」聞き返し、阿呆面下げて彼を見つめてしまう。そのとき反射的に出た迷惑そうな声に、彼が気づいたかどうか。
「居残り組だから本の整理を押し付けられたんだよ。ほら図書委員だろ、僕」
「……」
(市立図書館って言えばよかった)
 今更胸中で後悔しても、遅い。今からでも言い直そうかとも思ったが、やはりわざとらし過ぎるだろう。
 やっぱり成り行きで一緒に登校することになるのだろうか。


 予想を違えず、肩を並べる羽目になった。秋月もやれやれと思っているに違いない。
 なんとか間を持たせようと口を開き、その度に僕の無愛想な反応に撃沈する彼を可哀想だと思わないでもなかったが、フォローする気は全く起きなかった。
 僕としても「会話をするのが苦痛なんだ」と言いたいのを我慢するので精一杯なのだ。実際にそれを言わないのは、あまりに強い拒絶をして揉め事を起こしたくないから。
 空は相変わらずいい天気で、そんな中をぎくしゃくとした雰囲気で歩く僕たちは、傍目から見ると奇妙だったろう。
「小早川は、彼女とかいるのか?」
 そんなこと聞いてどうするつもりだろう。ついに話のネタが尽きたのかもしれない。
「いないよ」
 もう僕は恋など出来ないだろう。彼女たちを醒めた目でしか見れない自分を、僕は随分と前から知っていた。
「そうだよなぁー。男子校じゃ知り合う切っ掛けなんてないし」
 彼はぼやいてみせる。
「やっぱり彼女とか欲しいものなのか?」
 一見淡泊そうに見える秋月ですら。
 彼は一瞬キョトンとしてから「ああそうか」と確信めいた口調で続けた。
「君は女のことなんて興味なさそうだもんな」
 やっと遠くに校門が見えてきた。
 アスファルトから立ち昇る蒸気が視界を揺らし、僕たちは心持ち歩みの速度を上げる。
 ──秋月は内心『君は他人のことなんて興味なさそうだもんな』と言いたかったに違いないと、僕はそんなことを考えていた。




+  +  +


 小早川宗という少年は、学校内でも特に目立たない存在である。しかし、彼が人を近づけないようにしていることが、逆に僕の目をひいた。
 誰にも心を許さない彼の空気はナイフのエッジの様に痛くて、僕には彼がシャープな線だけで形造られた人間なんだと思えてならなかった。
 彼と話してみたかった。
 彼の障壁をぶち壊してみたかった。
 生身の彼の姿を知りたくて。
 好奇心と好意、どちらの比率が高いのか。それは僕自身にも分らない。
 光をあまり反射させない漆黒の彼の眸が、僕という存在を認識するまで僕は待った。


+  +  +



 図書室は誰一人いなかった。無人であればここはこれ程の静謐に包まれるのか。僕は安堵したが、それと同じくらい彼とふたりっきりになるのにうんざりする。
「小早川、よく図書室来るよな」
 秋月は言った。彼と僕との接点と言えば、同級であるのと、ここでよく顔を合わすことくらいだ。僕は彼のことをよく知らなかったし、彼もその程度のことしか僕のことを知らない筈だった。
 彼の台詞をさりげなく無視して、本棚の間を物色しながら歩く。秋月の声も途絶えた。やがて一冊選ぶと、一番近い机の椅子に浅く腰掛けた。
 それから暫く、項を捲る音が響くだけの静かな時間が流れる。

(本当のことを言えば、どんな顔をするのだろう。)
  どんな顔をして、僕を見るのだろう。
  何も知らないあの女《ひと》ですら、あんな目で僕をみたのに。
 

 開いた窓から生暖かい風と、運動部の野太い解散の号令が図書室まで届いた。僕は思考が遮られて、我に返った。手にしていた短編集は最後に読んだ貢が分からなくなっていて、随分長い間ぼんやりしていたことを知った。
 夏のことなので日は暮れていないが、時計に目をやるともう五時だった。もうすぐ図書室は閉められるだろう。
 僕は椅子から立ち上がり、読みかけの本を貸し出しのカウンターへ持って行った。夏休み中は図書委員がいないため、個人で勝手にカードに記入することになっている。しかし今日は図書委員の秋月が居合わせている。僕がカード棚をごそごそしているのに気がつくと、彼は慌ててすっ飛んで来た。
「僕がやるよ」
 本を受け取りタイトルに目を走らせ「ああこれか、面白いぜ」とわざわざ言ってから、慣れた手つきで棚からカードを捜し出す。僕はなんとはなしにそれを眺めていたが、彼の視線を感じたので目を逸らした。
 ちらほらと秋月は僕を盗み見ている。
 僕はそれに気づかぬ振りをする。
 僕はカードを受け取ってタイトルを書き込んで再び手渡した。あとは日付のスタンプを押して終わりだ。
「小早川ってさ」
 手だけは動かしながら、秋月はぼそっと呟いた。レンズの奥の瞳の色は、俯いているせいで伺い知れない。
 何でもないような台詞。
 ついでを装った口調。
 でも、何より彼が聞きたかった筈の問い。
 僕はカウンターに肘を付いて、彼の言葉を待った。
「何でいつも平然としてられんの」



+  +  +


 そう口にすると、彼は曖昧に微笑んだ。
 それは彼が僕に見せる初めての笑みだと知っていたけれど、同時に僕はそれが中身のない形だけのものだと、気づいてもいた。
 唇を微笑みの形に吊り上げるだけ。
 目は笑えていない。
 かねてよりの疑問の答えを、僕は得る。
 常に平然としているのは勿論、生来の気性故でもあるのだろうけど、彼の『こだわらなさ』はもっと他の原因──例えば過去の出来事──に裏打ちされたものに因るところが大きいのだと。
 知りたいという純粋な好奇心。
 下世話だやめろという自制心。
 あの微笑みに彼は何を思うのだろう。








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