[序章] 昨夏の終わり
何時になれば息絶えるのだろう。豪雨のように蝉の音が降り注ぐ。もう夏は終わるというのに。
バイクの排気音が遠くに聞こえた。部活帰りの中学生たちが通りがかり、笑い、さざめいてゆく。
長閑な田舎の匂いがする。
汗をかきかき、舗装の悪い路をそれでもなんとか歩き続けて一時間余り。突然、濃厚な緑の気配に包まれる。独特の青い匂いと、湿度。林の中に入ったのだ。木漏れ日に、視界は黒と白のまだら模様となる。
更に奥に進むこと二十分。少年はとある木の前で立ち止まった。ここが彼の目的地であった。群生する草や、他の木を圧倒して、その木は大きかった。胴回りなど、軽く少年の両手ふたつ分ぐらいの太さがあるのではないだろうか。何度か母の代参でここを訪れているが、未だに何の種類の木かは知らない。
少年は安堵の吐息を漏らした。
木に歩み寄ると、予め母親に言いつけられたとおりに白菊を供える。
――今日は母の兄の命日であった。
少年にとっては伯父に当たるその人物は、彼が生まれるずっと前に死んだ。ちょうど今の少年と同じ年――中学校三年生で心の病を患い、高校一年生の夏に、彼はこの木で首を吊って自殺したのだ。
『この家は狂いを出すんだよ』
諦めを滲ませた声で、祖母は言った。
『狂いを出すんだ。もう、何代も前からね』
それは閉鎖的な村で囁かれるこの家の恥であった。おそらく遺伝の問題なのだろうが、けっして偶然ではありえぬ確立で、この家は自殺者を生み出してきた。一世代に一人、あるいは二人――。
この木の前に立つたびに、少年は重苦しい、なんともいえぬ気分になる。
伯父のことを語る母の表情を思い出すからかもしれない。どちらかと言えば勝気な性格である彼女が、ふと少女のときに立ち返ったかのような寄る辺ない顔をする。
村人の自分たちを見る独特の眼差しもまた、曰くのあるものだった。
『あれは、狂いを出す家だよ。けっして子供をあそこに嫁や婿に遣ってはならないよ』
母の田舎は少年にとって優しい場所ではなかった。川遊びも虫捕りの魅力も、粘性を帯びた視線がもたらす居心地の悪さにはかなわなかった。母は多感な少女時代をあの眼差しの中で育ったのだ。だからだろうか。その死後から三十年以上も経つというのに、彼女は未だに、兄に対する愛憎半ばする想いを抱えているように見える。
正直言って、少年には重荷だった。さらに言えば怖かったのだ。一言二言、静かに語る母親からにじみ出るもの――悔恨や恨みや、嘆きといった情念が訳もなく怖かった。深く静かに沁み出でて、少年にまとわりつき、絡めとられてしまいそうだった。
だから、本当はこの木の前に来たくはなかったのだ。しかし、母の心中を推し量ると無碍にも断ることが出来なかったのである。姉でも誘えば良かったのかもしれない。同行者がいるだけで、少しは気分も晴れただろうに。
少年は、伯父に向かって黙祷を捧げた。身も知らぬ相手であったので、祈る言葉も問いかけもなく、ただ安らかなれとおそらく母のためだけに祈る。
やがて短い黙祷は終わった。少年は顔をあげ、木に背を向けようした途端――眩暈を覚えた。
視界が歪み、こめかみに強烈な違和感を感じる。ぐちゃりと脳が掻き混ぜられ、圧倒的な不快感が胸を占める。
(……っ)
瞳を閉じることでなんとか身体が崩れ落ちるのを堪えた。
(あああ、も……これ……、なんだ……よ!)
倒れこむのは堪えたものの、眩暈の次にやってきたのは頭痛だった。
いくら命日とは言え、この日差しの中、家を出るべきではなかった――少年は自分への呪詛を胸の中で吐き出しながら、頭痛が去るのを待つ。
木漏れ日すらも、凶悪に頬をひりつかせ、執拗に少年を追い詰める熱気が、少しずつこの頭をおかしくさせる。
とうとう、木にもたれかかる。木は揺らぎもせず、しっかりと少年を支えた。
──成程、吊るには手頃な、確りとした枝ではある。おまけに今日は気がおかしくなる程暑い。――そのようなことに共感するなど、我ながら褒められたものではないが。
一旦、木へ身体を預けてしまうと、最早、力を入れることは適わなくなった。
暑い。
ああ、なんだこの暑さは。
熱の篭った体から吐き出される息は、湿気に満ちた白で、ますます少年を不快にさせる。
草の匂いが。水の匂いが。土の匂いが。夏の匂いが。
脳が撹き乱され、膝が支え切れない。
ジ……ジ……、ジジ。
草の匂いが。水の匂いが。土の匂いが。夏の匂いが。
狂ってしまう。
訳もなく、思った。
己の身に何が起こっているのか、理解できぬまま少年は涙する。
夏の匂いに、この身を染め抜かれる。
嘔気すら催しながら、ただひとつ確信していたことは、自分が自分でないものに変わってしまうことだった。
僕を侵す何かが、僕を変質させる。
それは抗い難く、厳然たる事実。
(何故………)
ジ……ジ……、ジジ。
耳を割れんばかりに劈く蝉の声。
(そうか………)
苦しくに喘ぎながら、頭上を仰ぐ。
夏の狂気のせいか。───或いは。
(蝉の声のせいか………)
そのとき自分ではない少年の足首が、
―――見えた。
覚えているのは暑い空気。
死なない蝉、死んでしまった蝉。
涙、やがて起こった嗤い。
夏の匂い。
少年。
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