赫夜の章 [7]





「……どうして」
 垣堆は、呻いた。
 彼の目の前には、陽香の公主がいる。
 異国人である彼が心酔し、その為にならばなんでもしようと誓った緋楽公主の妹・春陽公主が。
「どうして、貴女は生きているのです?」
 出兵前夜の祝賀会の場で、再び再会した公主に、彼は静かに聞いた。
「……花鳥は死んだのに」
 垣堆の眼差しを受けて公主は。
 薄く。
 笑んだ。



*   *   *



 陽香に出発する日を間近にしたある日、赫夜は螺緤の訪問を久方ぶりに受けた。
 情けない理由での帰郷に憂鬱であった赫夜は、螺緤の顔を見て少し心を慰められた。敵国である朝楚の王女に親しみを感じるなど変な話ではあったが。
「母上には秘密で来たの」
 複雑な笑みを浮かべて螺緤はゆっくり歩み寄って来た。螺緤を始めてみたとき、鷹揚で無邪気な少女だと思ったが、赫夜の目の前で少しずつ螺緤は変わっていった。それは、彼女の母親に対する装いだったのだと、今更ながらに思う。
「何用です?」
「理由がなくては来てはならないの?」
 僅かに寂しげな様子を見せた螺緤に、赫夜は己の言葉を恥じた。とても悪いことをした気分になる。
 赫夜の困惑した表情を見て、螺緤は苦笑した。
「ごめんなさい、八つ当たりだわ……」
「何かあったのですか?」
 幾分優しげな口調で赫夜は尋ねていた。螺緤は最近、いつも何かに悩んでいるような様子であった。
「いいえ、何も」
 そう言ってから、螺緤は思い直した。自分の悩みの片鱗を、僅かなりとも誰かに聞いて欲しくなったのだ。話す相手といえば、螺緤には赫夜しか思いつかなかった。
 どうせ、もう二度と会うこともあるまい。
 冷たく乾いた思考も、それに拍車をかけていたのかもしれない。
「母上とどうしても穏やかに話すことが出来ないの」
 螺緤は母親とのことを話した。埋めることの出来ない溝。母親に愛されないこと。母親には自分が必要でないことを。
 赫夜は息を飲んだ。螺緤と自分が重なって見える。母の愛を求めているといった点で。
「螺緤さま。わたくしも母からは愛されませんでした」
 思わずそう言った赫夜を、螺緤が驚いて見た。
 赫夜がそのことを他人に話すのは初めてだった。胸が痛い。しかしごく自然に言葉の喉を突いて出た。口元に微かな笑みさえ浮かべてそれを口にする自分を、赫夜のほうこそ驚いていた。――知らぬ間に、ときは確実に私の中でも流れていたのかもしれない。
「母はそれはそれは大切にわたくしを育ててくださいました。けれど母にはわたくしを愛することが出来なかったのです。父をあまりに愛していたから」
 壺帛賢妃は皇帝しか目に入っていなかった。それを、世界の全てとしていたのだ。
 お母様は儚く、そして激しすぎる方だった。
「わたくしは母を愛していました。母の、娘を顧みることを忘れ、ただ皇帝だけを愛したその気性さえ、わたくしは愛していました」
 しかし壺帛賢妃桂姫は娘の思慕に報いることはなかった。最期まで娘よりも皇帝を選んだのである。寵妃でもないというのに戦死した炯帝に殉じたのであった。
 螺緤王女の神妙になってしまった表情を察して、赫夜は自分がこれまでの精神的な互いの距離を無視して、相手の心に踏み込んでしまったことに遅まきながら気づいた。
「………螺緤さまの場合はわたくしの場合とは当てはまらないのですけれどね」
 注意深く微苦笑して見せた赫夜に、螺緤は彼女が故意に精神的な境界線を引いたことに気づいた。深いお互いの内面に係わることを避けようとしているのだ。
 関わることは出来ない。それは、何かを傷つけてしまうかもしれないから。
(ああ、 何の意味があるのだろう、この戦に?)
 螺緤は深く嘆息する。
 全てはガクラータ国王キーナ三世が望んだことだ。朝楚女王ではなく、陽香皇帝でもなく、ガクラータ国王その人が望んだのだ。そうでなくて、今の混乱はありえない。朝楚と陽香は未だ友好関係を結び続けていただろう。無論、ガクラータ国王だけに全ての罪を帰すというのはあまりに都合が良すぎる。朝楚女王は他にも選択肢があることを知りながら、ガクラータの要求を呑んだのだから。しかし、それを差し引いてもキーナ三世が恨めしい。そもそも彼は何のために他国を侵略し続けるのだろう。
 確かに彼は霸者だ。アーマ大陸には彼の代でガクラータに支配された国は、片手の指では足りない。そして彼はこれ以上はアーマ大陸で勢力を伸ばせぬと知ると、四成大陸進出に目標を転じた。
 ガクラータ王国が帝国と呼ばれる日を夢見たのだろうか。
 軍隊が強化するにつれ膨大してゆく軍費、度重なる属国の反逆。そろそろ軍事行動に歯止めをかけ、防御と内政に力を入れて国の安寧に努める時期ではないのか。
 何の意味があるというのだ、四成大陸の侵略に。
「螺緤さま?」
 急に思惟を引き戻されて、螺緤ははっとした。
「どうなされました?」
「たいしたことではなくてよ」
 螺緤もまた微笑んで見せた。そうすることでお互いの距離を線で隔てることを受け入れる。赫夜が望み、また自分自身もそうするしかないのだと理解しているからだ。心通わせても空しく、辛くなるだけだ。お互い自国を愛するのならば、敵でしかないのだから。
「明後日ね、出立」
 話を変えるべく、螺緤王女は話を振った。振った後で、己の無神経に気づいた。望んでの帰郷ではない、寧ろ赫夜公主にとっては情けなく屈辱的なことなのだ。足手まといになりに行くのだから。
 赫夜は遠い瞳をして、呟いた。
「ええ。お姉さまにご迷惑をおかけしてしまう………。けれど、お姉さまは賢いお方だから、わたくしを助けるために務めを怠るという愚かなことはなさらない」
 螺緤は一瞬(お姉さま……?)と疑問に思ったのだが、すぐに赫夜がそう呼ぶだろう人物を思い出すことが出来た。緋楽公主である。
 赫夜公主は緋楽公主の待つ櫂城へ向かっていたところを則領と櫂領の境目あたりの岩砂漠で捕らえられたのだった。それまで朝楚は緋楽公主の居場所をまったく突き止めてはいなかったのだが、赫夜公主を捕らえる際に朝楚が作った内通者の情報から、緋楽公主が櫂領の王城にいることを知ったのだ。
「………軍を率いて斉城を奪還したのは緋楽公主ではなく、吉孔明皇子だったと聞いたわ」
 出し抜けに問うた螺緤王女に、取り繕う事が出来ず、赫夜公主は思わず身体を強ばらせた。駆け引きは、不意打ちを仕掛けた螺緤に軍配が上がったようだ。
「───知っていたのね?」
 螺緤は嘆息した。
 何が、とは言わない。勿論、戦死したと報告されていた吉孔明皇子のことである。
 緋楽公主が櫂城に身を寄せていると知り、朝楚女王は櫂城に攻撃を仕掛けることに決めた。ガクラータ王国は皇族とはいえ女の身である緋楽が何かするとは思えず、朝楚がそこまで逃亡中の公主に執着する理由を理解出来ないようだった。しかし朝楚人は女でも国を治めることが出来ることを知っている。
 しかし朝楚が行動に移す前に、陽香反乱軍は予想以上に迅速に出兵を開始した。どうやら戦の準備は前々から整えられていたらしい。あっさり陽香でのガクラータ王国の拠点である斉城を奪還された。朝楚女王は歯軋りして悔しがった。『だから余はガクラータ王国に緋楽公主の探索に力を入れるように言ったのだ』と。
 だが最近になって、新たな事実が浮かび上がってきた。死んだはずの吉孔明皇子が生きているのだという。それも、前々から緋楽公主と共に櫂城にいたという。しかし赫夜公主の護衛に交じった内通者はそのことを知らなかった。
 考えられたことは、赫夜公主は何も知らなかったということと、赫夜公主は知っていたけれども誰にも言わずただ一人胸の内にしまっていたということだ。そして今、そのどちらだったのか、分かった。
「ええ、存じていました」
 観念して、赫夜は認めた。どうせ吉孔明皇子の存在が明らかになってしまえば、赫夜に隠すことは何もないのだ。
「母上は逆上されていらっしゃったわ。皇子が生きていると知っていれば、追っ手を十倍にして草の根を分けても捜し出して、後顧の憂いを断ったのにと」
 螺緤王女の台詞は非難がましくなかったので、くすりと赫夜は微笑んだ。
「吉孔明さまは有能なお方だから、女王は苦労なされるわ」
 螺緤は、吉孔明皇子に対して他人行儀な赫夜の言い方に、違和感を感じた。緋楽公主には“姉さま”というのに、何故赫夜は、吉孔明を兄とは呼ばないのだろうか。
「吉孔明皇子はそんなに有能な人なの」
「ええ。有能すぎて、皇太子の陽征さまがお可哀想であったくらい」
 陽征は母親の地位からしても、また長子であることからしても、誰も文句はつけれぬくらい皇太子位に見合う皇子だった。彼より身分が高い皇子も、彼より年かさの皇子もいないのだから、彼が皇太子に立つのは当然だったのだ。気性も穏やかで誠実であり、問題はなかった。陽龍が改革した国を、次代の皇帝は安定させなければならない。現在の御宇の皇太子に求められるのは、まさに彼のような気性だった。
 だが臣下にはそう思わない者も多かった。陽龍は即位してからというもの、宮廷の悪い体質を一変しようとし、重臣の顔触れもかなり変化した。その結果、保守派の官吏が少なくなった代わりに、どこか改革的な思想をもった者が多くなったのだ。彼らは陽龍を崇拝していて、彼の後継者は穏やかな陽征より、容貌も気性も陽龍に一番似て、皇帝としての才幹もあると思われる吉孔明を新たな皇太子として擁立しようとしたのだ。実際は吉孔明もまた、芯の部分では繊細な青年であったが、常に冷静であることに努めた吉孔明の内面を正しく知る者は少なかった。
 陽征は、そのせいか飾り人形として扱われていた感がある。春陽という存在もあり、政治的に彼は哀れな存在であった。
「春陽のように、皇后陛下をお母さまとしていたなら話も違ったのですけどね」
 赫夜の台詞で螺緤は、ようやく陽香が一夫多妻が認められていることを思い出した。そんなに妻を持って何の意味があるのかと呆れるが。吉孔明が赫夜にとって異母兄なら、他人行儀でも当然かもしれない。
「そういえば、吉孔明皇子は貴女にとって同母兄ではなく異母兄だったわね。仲が悪かったの」
「いいえ、そんなことはございませんでした。ただ、兄と思ったこともないですわね。吉孔明さまだけではなく、他の兄皇子も二人の弟皇子も、兄弟というより親戚というか。ただ、緋楽姉さまや春陽だけは同じ公主ということもあって、同母の姉妹と同様に親しくしていましたけれど」
 緋楽も春陽も赫夜と似たようなものである。逆に異母の公主たちがあれほど懇意にしていることのほうが珍しかったのだ。春陽は吉孔明皇子だけは兄と呼んではいたが、緋楽の同母兄でなければ親しくすることもなかっただろう。
「そうなの。けれど妾には、それほど兄弟が多いということが、ちょっと想像出来ないわね」
 螺緤がそう笑った。そのとき控えていた侍女が、螺緤に何か耳打ちした。
 螺緤は「分かった」と侍女に頷いて、赫夜に向き直った。
「では妾は失礼するわ」
「もう?」
 名残惜しく思って赫夜が聞くと、
「貴女が出立する前に一度顔を出しおきたかったのと、吉孔明皇子のこと聞いておきたかっただけだから。あまり長くいては、母上に知られてしまうわ。妾はもう母上に逆らうことが許されてはいないのよ」
 ───真実も知ることが出来ない。
 赫夜はそんな螺緤の心の声を聞いた気がした。
「けれど貴女と何度か話せて楽しかったわ。政治の話しかしなかったけれど。出来れば友人になりたかったけれど、もう会うことも出来ないのなら、言っても詮無いことね」
「螺緤さま………」
 わたくしも螺緤さまと友人になりたかった、とは言うことの出来ない自分の弱さを、赫夜は嫌悪した。言ってしまえば朝楚を憎むことが出来なくなるから。心の弱いわたくしは螺緤さまを何かある度に思い出してしまうだろう。だから、言えない。
「見送ることは、どうしても出来ないの。───さようなら」
 ふわりと螺緤は笑った。
「───さようなら」
 お元気で、と赫夜が言うのを聞かずに、螺緤王女は速足に部屋の外に消えてしまった。赫夜はそれを見送って、とても空虚な心地がした。



*   *   *



 ついに、赫夜が陽香に戻る日がくる。その日はいい天気で、空が山の向こうまでも澄み渡っていた。
 赫夜を乗せた車と護衛たちは、絮台宮の裏門からひっそりと出発した。一行は目立たぬ旅装をしていたが、護衛は赫夜が紀丹宮を脱出したときの三倍はいる。もし、陽香の方で赫夜たちがここを通るという情報をつかんでいたとしても、これでは赫夜を生きて取り戻すことは出来なかっただろう。
 大所帯で一行は陽香までの道を移動していたが、出発から二刻、一度目の休憩をするために、街道の半ばで進行を停止した。兵たちは馬から荷を降ろした後は、それぞれ思うまま休憩を取る。赫夜にも食事と飲み物が渡された。
 赫夜が食事を全て摂り終えてたところで、車を訪ねる者があった。赫夜は出発を知らせに来たのだと思ったのだが、違った。
『わたしです』
 外からの簾ごしの声は見知ったものだった。赫夜は苦虫を潰したような顔になった。仕方なく返答する。
「岨礼淨ね」
『ええ』
 どこまでも縁がある男だ。そう思ってから、ふと赫夜は考え直した。
 この男はわざと、わたくしと縁を作っているのかもしれない。
『この度、貴女さまの護衛を仰せ遣いました。何かご所望の物がございましたら、なんなりとお申し付けください』
「貴方はまだ諦めてはいないの………?」
 決まり文句を言う礼淨の台詞を無視して、そっと人には聞こえぬように問うと、礼淨が笑う気配がした。
『勿論です』
 赫夜には礼淨が何故、自分に拘るのかが分からなかった。赫夜はてっきり、自分が陽香に戻ると決まった時点で、この話はなかったことになったのだと思っていたのだが。
「何故、わたくしなの?」
 彼(彼ら?)の女王転覆の陰謀に際して、わたくしに何をさせたいというのか。赫夜は紀丹宮に戻るというのに、それでも尚、赫夜でなければならに理由とは何か。
『向こうに到着してから、説明いたします。───最早貴女も拒否することはないでしょうし』
「………………。」
 赫夜はその意味深な言葉を問い返したかったが、人の目もあるので、これ以上会話を続けることも適わず、そのときは結局無言のままで彼を返してしまった。


 陽香の都・栄屯に入ると、赫夜たちは護衛と別れ、三台の車と少数の護衛で紀丹宮を目指した。車の外には、赫夜の見知った光景が広がっていた。
 敗戦、そしてガクラータ王国の占領という憂き目にあっているせいか、どこか精彩に欠けた感があるが、それでも都の人々は逞しく日々を過ごしている。幾つもの荷車を引く異国の商人たちが道を流れ、艶やかな衣装を纏った踊り子は路頭で舞を披露している。滅多に紀丹宮の外には出なかった赫夜であるが、このような光景をしっかりと覚えていた。
 そしてついに紀丹宮に到着して、赫夜は車を降りた。懐かしさのあまり、彼女は不覚にも泣きそうになったが、以前にも礼淨の前で泣いてしまったのだから、そう何度も同じ不覚を取るわけにはいかない。
 赫夜を迎えたのは傀儡の皇帝・那尖だった。彼はもとは文官だったのだが、辛うじて皇族の血が混じっているので、ガクラータに皇帝に選ばれたのだ。赫夜も話を聞くだけで、実際に彼を目にするのは初めてだった。那尖は年は四十代後半ぐらいで、体躯は長身で細みだった。
 お決まりどおりに挨拶をしてみた那尖の凡庸そうな顔を、赫夜は悪意を持って見ていた。那尖の中に、現状に対する憤りを見いだせることが出来なかったからである。何も考えずに生きているのか、それとも傀儡とはいえ皇帝になれたことを喜んでいる馬鹿者か。
 赫夜は部屋に落ち着く前に、旅の埃を払うため風呂に連れて行かれ、頭から爪の先まで磨かれた。身体を吹いて、衣装を纏うのを手伝わせているときに、赫夜は乳母と再会を果たすことが出来た。
 しばらく会っていないうちに、乳母の髪はかなり白いものが混じっていた。赫夜に跪いた彼女は、その裳裾に取りすがってわんわんと泣いた。乳母の愛情に赫夜は心が暖かくなった。赫夜が宥めると落ち着いて来たのか、乳母の涙は止まったが、今度は赫夜の短くなった髪に気がついて目を剥いた。
「おお、なんてこと。赫夜さまが天子さまの娘である証しが………!」
 代々皇帝は、自分の子供に何らかの形で忠誠の誓約をさせていた。陽龍の場合、男子は髭を伸ばさぬことで、女子は髪を踵まで伸ばすことだった。
髭は顕示欲の現れとされていることから、また女の髪は護りの力にあふれていると言われていることから、そう定めた。
「ばあや、髪はすぐに伸びるわ」
 赫夜はそう言って乳母を慰めた。それまで生きていることがあるかは甚だ疑問であったが。なにしろ赫夜は人質として帰って来たのだ。そして、陽香は赫夜の命を顧みることが出来ないのだ。赫夜ただひとりの為に、なにもかもを台なしにするわけにはいかないから。
 しかし希望を捨てるのは止めよう。捨てたらそれでお仕舞いだ。どれほどの逆行に見舞われても出来ることは必ず何かある、と教えてくれた雄莱の言葉を赫夜は忘れていない。未来のために足掻くことは無益ではないはずだ。
 赫夜が与えられた部屋は、ちゃんと彼女自身の部屋だった。成長して後宮の母の館からこの部屋に移ってからは、赫夜はずっとこの部屋で日々を過ごしていたのだった。たまに緋楽や春陽が訪ねてくる以外では、ただこの部屋に閉じ籠もったままということもよくあった。本当に人生の多くをこの部屋の中で過ごしたのだ。
 赫夜が、まったく部屋の様子が変わっていないことに満足していると、さっそく来訪者がいた。
 きっと岨礼淨に違いないと思って侍女に命じて部屋に通させたら、やはり彼であった。
 礼淨は部屋に入るなり、赫夜が陽香の美しい衣を纏っているのを見つけて眩しく目を細めた。しかし礼淨はすぐにいつも通のに慇懃無礼な態度に戻ったので、赫夜がそれに気がつくことはなかった。
「お約束どおり、伺いました」
 礼淨は片言ではあるが、陽香語を操ることが出来るというのに、朝楚語でそう言った。侍女たちに聞かれないようにするためだろう。
「わたくしが貴方の話を断ることがないというのは、どういう意味なの」
 単刀直入に赫夜が問うと、礼淨はじっと真剣に赫夜に瞳を見つめた。
「わたしと取引をするからです。───紀丹宮脱出の」
「………そう」
「驚かないのですね」
「わたくしは陽香から切り捨てられるでしょう。それは動かしがたい現実。けれど同時にわたくしは、おとなしく命を断たれるのを待つことにも我慢できない。そうね、ならば貴方の言うとおりになるかもしれない」
 だが承服したわけでも、ない。死んだ方がましだということを、やらされるかもしれないのだから。
「取引の内容をご説明しましょうか」
「いいえ、まだ。わたくしは覚悟が出来ていないわ」
 岨礼淨を信ずることが出来ない。信頼無くして、どうして女王転覆に手を貸せるか。それが陽香のためにもなると、どうして言い切れるか。
「では、正式に陽香の皇帝からの返事が返ってきた後に、もう一度お聞きします」
 赫夜公主の命はそちらのご自由に、という返事が返ってきた後に。
「ええ」
 静かに赫夜は頷いた。
「それと、公主」
「なに」
「ガクラータ王国の援軍が、レセンド王太子に率いられて、やっと紀丹宮にやってくるようです」
「!」
 とうとう援軍が来るのか。それでは陽香の戦いは本格的になる。ガクラータは朝楚程、御しやすい敵ではない。
「あれほど我が国が求めても、なかなかやって来なかったというのに、何故今なんでしょうね」
 礼淨の妙な言い方に赫夜は首を傾げた。
「どういうこと?」
「何故貴女は御自分が人質にされたのだと思います?」
 逆に問い返されて、赫夜は答えに詰まった。赫夜自身、自分には人質に価値がないと思っていたからだ。
「女王は、初めから時間稼ぎだけのつもりだと………」
 取引の成功は初めから期待していない。時間稼ぎが出来たら上等だと、女王はそう言ったが。
「───螺栖女王は貴女をただちに殺すつもりだったのですよ」
「………っ」
 流石に冷静にはおられず、赫夜は息を飲んだ。
「貴女の処刑に反対したのは、他でない女王派の重臣たちです」
「何故。彼らに女王の意向に反対して、何の利が」
「ガクラータ王国は陽香を諦め、朝楚を見放したのではないかと皆おびえているのです。ガクラータがなかなか援軍を出さないのはそのせいだと。今ここでガクラータに抜けられて、一番困るのは朝楚です。朝楚は単独で陽香と張り合えるはずがないですから」
 確かに臣下たちが不安に思っても仕方ない。本当に、いくら王族が死んだからとはいえ、死んだのは王太子ではなかったというではないか。それでこんなに援軍が遅れては、疑心暗鬼になってもおかしくない。
「そこで考え出したのが、陽香との講和。そのためにはなるべく陽香を怒らせてはいけないですからね。だから貴女の処刑は見送られたのです」
「講和ですって………っ!?」
 思わず大きな声を出してしまった赫夜に、言葉の意味は分からないものの、侍女たちが驚いて赫夜の方を向いた。赫夜の考えに礼淨も肩を竦めて同意する。
 何と虫の良いというか、節操のないというか。しかし、陽香はいくら気分的に嫌な気持ちになっても、朝楚からの講和の申し出があれば、陽香を応じない訳にはいかない。ガクラータが陽香を諦め、陽香と朝楚が手を組めば、全て元どおりとなるのだから。
「でも、ガクラータが陽香から手を引くと確証もないのに、講和とまで話がいくなんて。現に今、ガクラータは援軍を出して来ているのでしょう」
「ガクラータの考えなど、どうでもよくなっているのですよ、誰もがね。あまりに不確定な要素が多すぎるのです」
「ちょっと待って。分からないわ。では何故わたくしが人質なの。わたくしを講和の意志があるという証しに陽香に返すのなら納得できる。でも、人質などというのはどう考えても穏やかではないわ。そんなことで陽香が講和に応じるかしら…………ああ、そうね。やっとわかったわ。女王が講和を承知していないのね」
「ええ、そうです。女王は孤立しているのです」
 女王派までもが陽香との同盟を再び結ぶことを望み出した。だが朝楚女王は承服しない。赫夜が人質という曖昧な立場となったのは、殺す訳にはいかないという臣下の思いと、殺すべきだという女王の思いが鬩ぎ合った結果だったのだ。
 まさか朝楚がこれ程揺れているとは思わなかった。それを赫夜は礼淨に伝えると、礼淨は意味深な笑みを浮かべた。赫夜は礼淨のそんな笑みを始めて見た。不審に思っていると、礼淨が言った。
「わたしの父とその協力者が、頑張って手を回してくれましたから」
「〜〜〜〜〜っ!」
 なんてことだ。つまり人々は彼らの手のひらで踊っているということか。
「では貴方がさきほど『何故今こんなときに』と言ったのは、講和が成立するかもしれないという、あと一歩のときに、ガクラータ王国がやって来てしまったから?」
 内心の動揺を隠しつつ赫夜は尋ねてみた。
「流石にそこまで簡単にことが済むとは思ってはいませんよ。ですが、まあそうですね。人々のガクラータへの不審は薄らいでしまうことが残念で、そう言ったのです。ガクラータ王国への不審が決定づけられるな、と期待した矢先に援軍が来てしまいましたから」
 だが言うほど残念に思っているようでもない。それをまたしても聞いてみると、彼の答えはこうだった。曰く、人々がガクラータ王国に不審を持っていることをいいことに、朝廷が乱れるように仕向けたのは彼らだったが、まさか彼らも講和という話まで出てくるとは思わなかったらしい。彼らが狙ったのは、あくまでも女王転覆。講和は、その後だ。講和となって国が落ち着いてしまえば、女王を引きずり降ろすことは出来なくなる。
「それと、公主。まだお伝えすることがありました」
 もう何があっても驚くまいと決意して耳を傾けた赫夜は、しかし、すぐにそれを撤回することとなった。
「ガクラータ王国に渡っていた春陽公主が、ガクラータの行軍に伴われたそうですよ」
 礼淨は何げなく言ったのだが、赫夜は瞠目した。
(春陽が来る………?)
 呆然と赫夜は考えた。
 春陽は生きて、いたのだ。
「……………」
 どう、して。
 どうして声が出ないのだろう。
「公主。どうかしましたか」
 喜びのあまり放心したのかとも思ったが、そうでもないようだ。
「……………」
 だがしかし、まだ赫夜は何も話せない。
(わたくしは、不安になっている?)
 嬉しいはずだった。
 幸せなはずだった。春陽が生きているだなんて。
 それがいけないことだなんて、何故わたくしは思うの。
 赫夜の生まれもった第六感とも言うべき力が、何か嵐を予感させていた。
 何かがおかしい。何かが狂っていると。
 赫夜は春陽に会いたくないのだ。
「春陽が。確かにここに?」
 やっとのことで赫夜はそう問い返した。
「ええ」
 ふっと赫夜は肩の力を抜いた。
 いやな予感はするが、春陽が生きているのだ、ということ自体は無条件に喜べる。
 もしかして、わたくしがこんなことを考えてしまうのは、朝楚に捕らえられた情けない自分を、春陽に見られたくないからかもしれない。単に、胸を張って春陽と顔を合わせることが出来ないから、会いたくないだけなのだろう。
 そうさっきの自分の不安を理由づけてしまうと、訳の分からない嫌な予感も薄れた。
(そうよ、ね。わたくしが春陽に会いたくない理由は、それだけ)
 赫夜は自分を納得させようとした。しかし、炯帝の予知の力を僅かながら引き継いだ赫夜は、その勘の良さで自分と春陽との決定的な別離を視ていたのだのだ。
 自分を納得させた赫夜に、ようやく春陽が生きていたことへの喜びが沸き上がって来た。
 春陽に会いたいと思う。早く、会いたい。
「わたくしは春陽に会えるの」
「会えるのではないでしょうか。───ただしガクラータ王国の王太子に会ってからでしょうが」
「!」
 ガクラータ王国の王太子にわたくしが。
 赫夜の衝撃が礼淨にも理解できる気がした。言ってみればこの戦は、ガクラータ王国が始めたものだ。そして勝敗を決定づけたのはその国の王太子だった。赫夜はその戦で父親である皇帝を殺さた。母親もまた父親に殉じたのだから殺されたようなものだ。
 しかし礼淨には、そんな赫夜の事情よりも気になることがあった。実は朝楚はもう、取引を持ちかける書面を現在斉城にいる陽香皇子・吉孔明に送ってしまっているのだ。ガクラータ王国に無断で赫夜公主を人質に使って。書面には具体的な要求は書いていない。ただ話し合いをするつもりがあるかどうかの返答だけを陽香に求めているだけだ。だがレセンド王太子はすぐに、陽香と講和しようという動きが朝楚にあることを見抜いてしまうだろう。
 そのとき王太子がどうするか。
「ガクラータ王国の援軍が到着するのは、後五日は必要とのことです」
「そう」
 平静を装って相槌を売った赫夜は、自分の心の中の懼れを、そっと包んで隠した。










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