赫夜の章 [5]





 わたくしは知っている。
 わたくしだけが知っている。
 レセンド殿下を襲ったのはアルバート殿下ではないことを
 アルバート殿下を殺したのはレセンド殿下ではないことを



*     *     *



 日々の仕事を終え、退廷した後、しかしレセンドはシュナウト宮殿の自室に帰ってからも、書類を捲っている。ここはすでに第二の政務室といって差し支えがない。
 王宮――アンザゲットでは、政務室であっても迂闊なことは言えない。父親が病褥にある間、全権をこの手にしているとはいえ、いまだ自分は王太子である。国王の意に添わぬ采配を振ることは出来ないし、口にすることも慎重にならざるを得ない。それで政務室以外の仕事場がどうしても必要だった。
(―――やはり出兵は避けられぬか………)
 腹心を前にして考え込むレセンド王太子の冷厳な表情を眺めながら、その言葉をじっと待つ腹心のクリストファー=ザラの瞳もまた、厳しく凝らされていた。
 王太子が出兵を迷っているのは知っていた。だがどうせ避けられぬことなのであれば、出兵は早いことに越したことはない。なのにどうして腰を上げないのだ。
(貴方らしくない…………)
 彼は口には出来ぬ不安を胸に隠した。
 王太子もクリストファーが煮えきらぬ己の態度に焦れていることは分かっている。しかし逡巡は消えない。
 問題となっているのはついに反撃を始めた陽香国の残党のことだ。
 皇帝と全ての皇子を殺し、国のほぼ全土を圧したことで、勝利は確定したと思っていた。だからこそガクラータは陽香皇宮・紀丹宮にて勝利を宣言し、百官もまたガクラータのもとに額づいた。
 だが、彼等は僅かな期間で力を蓄え、ガクラータ王国の拠点となっていた斉領王城を奪還したのだ。
 そう、ガクラータは――自分は、陽香を侮っていたのだ。春陽を知る前の自分は、四成大陸の人間に対して軽視しすぎていた。その結果が、これだ。
 ガクラータ王国は反乱を鎮圧せんと、再び軍を編成した。しかしそのまさに出兵前夜――王位継承に端を発した暗殺騒ぎがあり、アルバート王子が命を落としたのだ。国は揺れに揺れ、出兵は延期を余儀なくされた。
 しかし出兵を延期してはや一カ月が経とうとしている。これ以上延期するわけにもいかない。ガクラータ軍到着までの間、属国朝楚に本国ガクラータに代わって陽香反乱軍の進攻を阻めという命令を下しているのだが、それもあまり長期に渡ってはガクラータが到着するころには手遅れになる恐れがある。勿論朝楚は、ガクラータの命令通りに戦いを仕掛けたのだが、陽香軍に悉く退けられているのだ。朝楚からは早く援軍をと切羽詰まった要請の書面が毎日のように届いている。
 レセンドは延期していた出兵を早急に決断しなければならなかった。そうするのが、王太子としての義務であった。それでも――彼の本心は別のところにある。
 もともとレセンド王太子は四成大陸進出を反対していた。ガクラータの国力では時期尚早と考えていたからだ。陽香はけして弱国ではない。それに両国は海に隔てられている。実際ガクラータはこれまで何度も征服に失敗してきた。今回勝利したのも、自国の防御を危うくさせるほどに大軍を戦いに投入したことと、朝楚との外交に成功したからに他ならない。その上、この支配を維持するためには莫大な軍事費が必要で、利益よりも不利益の方が多くなりそうだと初めから王太子には分かっていた。そして早くも反乱が始まった。これを制圧するためには更に軍費がかさむだろう。
 陽香に拘る必要がどこにあるのか。それでなくともガクラータは短期間で国土を広げ過ぎた。支配する国々を安定されなければならない時期にきたのだと彼は思う。戦いに勝利するよりも、それを維持するほうが遥かに難しいことを父たる国王は分かっていない。
 しかし、そうは思っても今のレセンドに国王を思いとどまらせることも、その意思に反した動きをすることも出来ない。先程述べたように、彼はまだ王太子であり、また四成大陸進出は国王の何に対しても譲れぬ悲願だった。国王キーナ三世の容体は思ったよりも悪く、寝台から離れられなくなっているが、病褥にありながら欲深く陽香を狙っているのだ。
「明日議会の収集を要請して、明後日に議会を開く。その場で出兵を承認させ、五日後に出兵する」
 長い沈黙の後、不本意ながらもレセンドはそう言った。クリストファーは安堵して肩の力を抜いた。
「ですが五日後とは……準備が間に合いますか」
「議会で否決されることはまずないだろうから、明日からすぐ用意させれば良い。延期していたものを再開するだけだ。すぐ終わるだろう? お前が手配しろ」
「承りました」
 良かった、いつも通りの殿下だ。何か思い煩うことがあっても、殿下は判断を鈍らせるような人間ではない……そう思うそばから不安が彼を襲う。
 彼の知るレセンド王太子とは、英邁で冷静沈着、政治に明るく軍才もある。また非常に合理的である故に、レセンド王太子は無駄に臣下の反発を買うようなことをしない。傲慢な性格を隠しとおし、部下の前では信頼を寄せられる主として振る舞うことができる。およそ時期国王として理想的な青年だ。それは全く変わっていない。
 だが、今回何故こんなに出兵を渋ったのであろう。勿論クリストファー自身も、この戦争が国に全く富をもたらさないことは分かっていた。だがそんなことは前から分かっていたことだった。何故今更?
 彼の脳裏に陽香の公主の姿が浮かんだ。もしかして殿下の逡巡は、最近の春陽公主への執着によるのだろうか。
 ひどく信じがたいことではあったが、王太子は公主に好意を持っているのだ。
 クリストファーとて、なにも彼女が王太子を誑かしているとまでは思っていない。王太子は容易く誑かされるような度し易い人物ではないのだ。しかしそう分かっていても彼は、自分の知らないうちに二人の間に生まれていた穏やかな空気が、ひどく危うく思えてならないのだ。
 何故、陽香公主でなければならない?
 彼女ほどに美しく、若く、聡明な女性は王太子のまわりにいくらでもいるというのに。
 王太子が公主に本気にならねばよいのだが――彼は胸中で語ちた。
「もう下がってよいぞ」
「では」
 クリストファーは一礼して退室した。
 物言いたげなその姿を見送ったあと、レセンドは溜息をつく。わたしの変化に腹心は気づき始めている。わたしのこの春陽への想いが曖昧なものではなく、すでに形になっているとまでは流石に気づいてはいないだろうが。だがいつまでも隠し続けることはかなわないだろう。
 当初陽香征服を反対していたのは、そのために払った代償に勝る利益の見込みがないからだった。しかし今はそれだけではない。自分は春陽を愛している。自分はきっと彼女を幸せにすることは出来ないが、せめて彼女の祖国だけは彼女の願いそのままに平和を返してやりたかった。
 こんな心が自分の中にあるとは知らなかった。
 レセンドは冷たい銀の瞳を露台の外に向けた。
 夏を終わりを示すように、日々硬く澄んでゆく夜の姿に、少しは心が落ち着くような気がした。
 春陽もまた、この夜空を見ているだろうか。



*     *     *



 朝、昨日の疲れが抜けぬまま春陽は目覚める。
 今日もけだるい一日が始まるのだ。
 のそりと重くだらしのない動きで寝台から降り、一人鏡台に座った。春陽が目覚めたというのに誰一人やってこないのは、彼女が侍女たちに、朝は呼ばれるまで寝室には入らないようにと命じているからだ。
 鏡の前で覇気のない己の顔に失望する。
 毎日磨かれ絹のように滑らかな肌、高い香油を惜しげもなく使って艶を放つ黒髪。それでも、そのような自分を春陽は少しも美しいと思わない。なにより、黒曜石な瞳は死んでいる。
 最近身体の調子が悪いのは、恐らく精神的なものからくるのだろう。―――自分が選んだ道のくせに。
(なんて覚悟の足りない……)
 胸のあたりで切りそろえた黒の艶髪を一房指に絡ませ、春陽は唇を噛み締めた。
 背筋を伸ばすこと、ただそれだけがこんなにも難しい。
 しかし無理にでも気を引き締める。いつでも、何があっても毅然としていられるように。
 まだ国を想い、誇り高くあれたかつてと同じく、超然とあることのみを春陽は己に求める。
 中途半端な同情だけで彼の側にいてはならない。そんな軽いものをレセンド王太子は望んでいるのではない。わたくしもそんなものの為に全てを捨てたわけではない。
(そう、全てを)
 何より大切な人を裏切ってまで王太子を選んだのだから、せめて彼だけは守りたかった。守られるのではなく。その意志を貫き通さなければ、わたくしは何のためにこの道を選んだのか分からなくなる。これ以上自分を嫌いにはなりたくない。
 もう一度、彼女は鏡を睨み付ける。
(わたくしは、王太子の寵姫。彼のためにあり、彼のために生きる)
 やっと自分を取り繕って、春陽は侍女を呼んだ。着替えの手伝いをさせながら、外の天気を尋ねる。朝食の前に行くところがあるのだ。
 天気は良いということだった。春陽は供をつけず寝室を出た。
 向かうは薔薇園だ。
 そこにはレセンドが待っている。それが彼女たちの日常となっていた。
 そしてわたくしはいつものように幸せそうに微笑むのだ。何にも思い煩うことはないといった笑みを。彼をただ安らがせるために。―――それはすでに義務だ。そのために、罪を得て、生き恥を晒しながら、それでも未だにわたくしは生きているのだから。
 考え事をしながら踊り階段を降りていると、思いがけず進行方向から人影を捕らえた。
「…………」
 無視するわけにもいかず、階段の半ばで春陽は立ち止まり、その人間が自分の側までやってくるのを待った。人影は第二夫人マーサであった。
 マーサは自身も春陽の三段下で立ち止まった。
「ごきげんよう」
 実に優雅なマーサのその振る舞いに、身についてしまった習慣でつい春陽は警戒する。これまでの嫌がらせの数々が脳裏をよぎったのだ。
「…………ごきげんよう」
 実に隙のない振る舞いで挨拶を返してきた春陽に、マーサは毒々しさの欠片もない笑みを浮かべた。
 マーサが、はじめから陽香の公主を疎ましく思っていることは自他共に認める事実であった。それでも当初は、会えば嫌味を言うぐらいのものであった。王太子が寵姫を持つことなど、珍しくもないからだ。しかし、春陽がこのシュナウト宮殿に住み出したことが、彼女の逆鱗に触れたらしい。それからというもの、さまざまな嫌がらせを仕掛けてくるようになった。
 この宮殿の女主人は、建前では正妃・レイナであるが、事実上はマーサである。その彼女は勿論、この宮殿中の者を掌握していた。無論、春陽付きの侍女にしてもそうである。春陽にとってはここは針のむしろに等しくなった。
 嫌がらせの主な内容は春陽が異邦人であるということを知り尽くしてのものだった。ガクラータの文化に疎い春陽は、何度も彼女に恥をかかされそうになっている。流暢に美しい言葉を学んだ春陽でも、スラングや隠語までは無論、教えてもらったことはない。また、宮廷のマナーを覚えても、常識とされるような細かなことを知らなかったりもする。あるいは、暗黙の了解といったものを。
 一度、こういうことがあった。
 第二妃ルカの名のもとに開かれた舞踏会の席で、春陽は見知らぬ下級貴族の少女に赤いハンカチーフを送られた。おそらくルカ付きの侍女だろうと思い、ありがとうと口にした。途端、あたり一面がしんと静まり返った。ついで、扇の奥での失笑。
 目の前の少女は、泣きそうな顔をしながら、たどたどしい口調で必至の演技を見せてくれた。
「光栄ですわ、姫様。お姉さまとお呼びしてよろしいですか」
 彼女はルカ付きではなく、マーサ付きの侍女であった。そして、赤いハンカチを送るということは、同性に対する求愛を示す。なんのことはない、マーサは春陽を人々の笑い種にするためだけに、己の侍女に対して、同性愛者の烙印を押したのだった。その少女は、宮廷追放はされなかったが、国教たるサチス教は破門されたという。
 また、他にもマーサによってなされた嫌がらせは、この短い期間の中でも枚挙に暇がない。
 一番堪えたのが、食事に対してだった。
 はっきり云って、春陽は伝統的なガクラータの食事をまともに喉に押し込めたことがない。どうしても食べることが出来ないのだ。特に苦手なのが野菜料理だった。この国では野菜をを歯触りの残らぬ位どろどろに煮て食べる。しゃきしゃきとしたお浸しなど出たためしがない。はっきり言って気持ち悪いのだ。味付けもしつこい。
 だが春陽にとっては不味い料理でも、彼女が食するのはガクラータ人にとっては豪華な食事である。春陽は文句を言えない。いや、内容を変えるよう言ってみたこともあるのだが、マーサの手回しで春陽が我が儘を言っているだけになってしまったのだ。
 つまりマーサは、そのようなくだらないことをする女性だった。
 しかしながら春陽の場合、頭の中は祖国の心配と王太子への複雑な感情で占められ、マーサとの争いを悩む余地などなかった。それが結果的にマーサの嫌がらせを完全に無視するという形となったので、マーサも溜飲が下がるどころかさらに苛立ちが膨れていたのだが。
「これからどちらへ?」
 そう問うのと同時にマーサの長い睫に縁取られた瞳は瞬きする。そんな些細な仕草一つさえ如何にも上品で、彼女の教養の高さを思わせた。そうでなければいくら好みの性格をしていたところでレセンド王太子が長く側におくはずがない。
「―――庭園へ」
「殿下がお待ちなのね。貴女が近頃よくお側近くに侍ることを許されているというのは本当だったの」
 “侍る”のを“許される”などという台詞回しはおそらく故意だろう。マーサとはそんな女性だ。しかし時折春陽はそんな彼女を疑問に思うことがある。
「何がおっしゃりたいのかしら。"第二夫人様"」
 そういう単純で、それでいて底意地の悪い台詞を、しかし殊更に他意の無さそうに口にするのが、一番の皮肉になると春陽は知っていた。案の定、彼女は気分を害したようだった。
 彼女は苛立たしげに自分の髪を肩口から払った。春陽とはまた質の違う黒色のその髪は、さらりと背中に流れる。
 混血が進んで、さまざまな髪や瞳の色が見れるガクラータ王国ではあるが、黒という色素は少々珍しい。黒は遺伝子やすい色素だが、アーマ大陸にはそもそも黒を持つ人種が僅かなのだ。かといって黄色人種を蔑んでいる彼等が、黒髪黒眼が圧倒的多数を占める四成大陸の人間と婚姻を結ぶことは少ない。
 マーサは眼を細めて春陽を射た。
「殿下を拒んでいたのは、気を引くための偽りだったのですね」
 口にする言葉は安っぽく陳腐だったが、負の感情を隠しもせずにいるのが、彼女の高慢そうな美女ぶりをかえって高めていた。非常に堂々としている。自分は何を口にしても許されると言わんばかりに。
 この謀略と誇りに己が身を塗り固めた美しい女から夫を根こそぎ奪ったのは、この自分だ。
「そうだと言ったら?」
 春陽は否定も肯定もしない。しかし毒々しい表情を浮かべていたマーサの様子が何故か少し変わった。唇は綺麗に悪意を消し、瞳は春陽に対して初めて落ち着いた色を見せる。
(…………?)
 何かが剥がれ落ちるような急激な変化に、春陽は怪訝に彼女を見つめた。
「あの夜会で貴女を初めて見たとき、わたくしは殿下が束の間貴女を寵愛するだろうということを確信しました。貴女が殿下好みの気性だったので」
 マーサが紡いだのは答えにならぬ、しかし重いものを持つ声音だった。何が言いたいのか。レセンド王太子の寵愛も長く続くはずがないとでも言うつもりか。春陽は問い返してみた。
「束の間?」
「ええ、束の間」
 そう断言した様子は皮肉な調子を含んでいたものの、何かがいつもと違う。釈然としないものを感じて春陽はマーサの気位の高そうな眼差しを眺めた。彼女が視線を向けるのは、彼女自身の心。
「貴女があまりにも殿下の好みであり過ぎました。殿下が貴女のような女性に興味を持つことなんて、それこそ珍しいことではないのですもの。いつものことだと思っていましたわ……けれど」
 何故今このような話をするのだろう。いつ人が通るかわからない踊り階段の途中で、打ち明け話めいたことを?
「けれど、違ったのですね。―――殿下は変わられた」
 彼女も気づいていたのだ。彼が変わってしまったことを。
 春陽は何故か胸を突かれて、マーサを凝視した。そして思った……この姫をわたくしは侮っていたのではないか、と。
 低次元な嫌がらせ、言動。女特有の嫉妬。マーサが春陽に対して行ってきたことは彼女にとって侮蔑するに値した。教養はあるが貴族にありがちな捩れたプライドを持つ、そんな女性だと思っていた。
 しかし今のマーサの瞳はそんな彼女に対する印象を裏切っている。知性のきらめきがある。大貴族の令嬢としての教養だけではなく、本当の意味での聡明さが。この姫はきっと女ではガクラータでも最高の教育を受けている。
 もしかして彼女は演じていたのではないか。春陽と同じように、或いはそれよりも完璧に、レセンドの望んだ姿を。そして王太子もそれに気づいていた。それ故、彼女は他の寵姫を抜きん出て正式なる妻に昇格できたのではないだろうか。
 マーサは囁きにも似た、しかし意志のある言葉を漏らした。まるで責めるように。
「それでも貴女は未だ変わらない」
 (……そうかしら)
 心の中で反駁した。わたくしは随分変わってしまったはずだ。
「貴女が、マーサ様がそのように振る舞うのは、王太子殿下を愛してその愛を欲しているから? それとも……」
 話の流れを無視した、突然の脈絡のない春陽の問いは、思いがけず核心を突いたようだった。春陽自身は狙って核心を突こうとするどころか、何故マーサがいきなりこんなことを言い出すのかすら理解してはいなかったが。
「わたくしが殿下を愛することなどありえなくてよ」
 マーサの返事はどちらかといえば告白、だった。



*     *     *



 夏の暑さも薄れてきた庭園は静かさが深まったかのように思われる。いずれ寂寥の季節になり薔薇を除いた花々が沈黙しても、それはそれで美しいのであろう。今はまだ、空気は暖かだけれど。
 春陽とレセンドは隣り合って、噴水の脇に設置された長椅子に座っていた。
「先程マーサ様とお話をしました」
 そう言うと、レセンドは少し驚いたように春陽を見た。けれどその薄い銀眼は、もう以前のように観客気取りで興味深そうな表情を浮かべることはなかった。
「また例によって嫌味でも言われたか」
「いいえ……」
 春陽は首を横に振った。以前では見られなかった彼の優しげな様子に泣きたくなる。王太子は、それ以上何も尋ねてくることはなかった。
 しばし口を噤んだふたり。降り掛かる朝の日差しは、柔らかだった。
 何も無かったかのように、春陽の周囲は穏やかである。そのことが、彼女を堪らない気持ちにさせた。
 わたくしが敵国の王太子を暗殺し損ね、代わりにその弟王子を殺したなど、誰も思わない……わたくしはあの場にいたのに。
 アルバートの死体の傷は深く、女がつけれるような傷とは思われなかったことと、あのレセンドが春陽を庇ってわざわざ自分が疑われる証言をするはずがないということで、春陽はまったく疑われなかったのだ。また、春陽とアルバートは接点が少なかったせいでもある。
 だがきっと王太子は、自分と違って穏やかでも何でもない日々を過ごしているのだろう。
 レセンドはアルバートを殺したのは自分だと証言したのだ。アルバートに命を狙われ、正当防衛の結果、異母弟を死に至らしめてしまったと。
 しかし皆が皆、それを信じたわけではなかった。春陽が犯人だと見抜いた者こそいなかったが、正当防衛など嘘でレセンドの方からアルバートを襲ったのではないかとも言われたのだ。
 レセンド王太子はその疑いを、前回の襲撃事件の真犯人が獄中に捕らわれたカゼリナ王妃ではなく、アルバート王子であること証明して逸らした。こちらのほうは違える事なく真実であり、故に証拠までそろっていた。そして彼は、アルバートは自分にこの襲撃事件の証拠を握られたので焦って再び襲ってきたのだと主張したのだった。
 結果、王妃は釈放され、レセンド王太子の証言は認められた。
 春陽は前々から疑問に思っていたことを尋ねてみた。王太子はあまり自分のことを言いたがらないので、聞きたいことはいくらでもあった。
「何故アルバート王子はそれほどに国王になりたかったのかしら」
 自分たちが特殊だったのかもしれない。異母兄たちは皇帝位を争わなかった。もしかして内心では皇帝になりたいと欲した異母兄もいるかもしれないが、皇帝を望める地位の母親から生まれた皇子でそれを狙った者はいなかった。
 春陽の急な質問にレセンドは戸惑ったようだった。最近、会話の流れを無視して唐突にものを聞く癖がついてきてしまったようだ。自覚すると春陽はなんとなく居心地悪くなった。
 王太子はだが、澱みなくすぐ春陽の望む答えを返した。
「初めはただの権力欲だったみたいだが……あれはレイナを愛していたのだ」
 いきなり出た王太子妃の名前に春陽は驚いた。
「それは真実ですか」
「ああ。レイナの方はおそらくアルバートには特別な感情をもってはいなかったろうが」
 レセンドは弟に思いを馳せる。愚かな弟だった。だが自分もまた人のことを言えた立場ではない。
 ラウタ(黄色人種の別称)の、しかも敵国の少女に溺れるなど。
「だがレイナは俺の妻だ。横恋慕したところでどうしようもない。俺を憎む理由がそのころから変わったのだろうな」
 権力欲から、一人の女を有したいという嫉妬へ。
 レセンドもそのことに気づいたのは最近だった。
 春陽が初めて出席した夜会の日、レイナが他の男と密会していたという噂があったのだ。あの日はレイナは夜会を欠席していた。そしてアルバートは出席したものの早々に帰った。しかしまだその時はその関連に気づかなかった。
 その夜会の約二週間後、アルバートはレセンド襲撃を行った。それがあまりにアルバートらしくない方法――衝動的に行ったとしか思えない杜撰な計画――であったので、王太子は弟を特に注意して観察するようになった。そしてよくよく見てみると、どうやらレイナに気があることに気づいたのだ。そして王太子は、すっかり忘れ去っていたその噂を思い出したのである。
 捕らえていたアルバートの私兵であった囚人に聞くと、夜会の日、アルバートは誰よりも早く夜会を辞したというのに、帰ってきたのは深夜だったというのだ。そしてアルバートには隠れた愛人がいるという噂があった。後で裏を取ってみると、やはりレイナと会っていた男とはアルバートだ。
 アルバートは、嫉妬と彼女への義憤ゆえに、兄王子の死を願ったのだ。
「レイナ様は……。あの方はご自分がアルバート王子に想われていることを」
「知っていたであろうな、もちろん」



*     *     *



 女性が一人歩いていた。明らかに身分の高そうな、いで立ちである。耳朶を飾るのは貴重な真珠で、肌は日に晒されないせいか白人種においても白い。ドレスはこの国では珍しくも釣り鐘型のスカートではなく、下半身のラインの美しさを際立たせるものを纏っていた。
 美しい金の巻き髪が、歩くたびに波打つ。彼女の髪の見事な光沢はかつて祖国にいたころは暁の海にも譬えられていた。
 彼女は儚げな風情で俯きがちにしていた視線を、ついと上げた。瞳が正面に女性を捕らえたからだった。そして立ち止まる。彼女に寄り添うように絹のドレスの裾が一度だけ揺れて、彼女の下肢に吸い付いた。
 向かってくる女性は第二夫人マーサ=リューダであった。
 マーサもまた、うんざりしたように足を止めた。
 今日はなんとよく嫌な人物に会う日だ。普段は広い宮殿のこと、一緒に住んでいるとはいえ滅多に顔を合わさぬものを。
 目の前にいる女性は陽香公主以上に忌ま忌ましい。
「貴女様を目にするなんて珍しいこと。何の御用があってお部屋の中からお出ましになったの?」
 マーサがそのような嫌みを口にするくらい、彼女が自室に籠もりっきりということは有名であった。食事も正妃でありながらレセンド王太子と別々に摂り、一日中限られた空間で過ごし、人前に出ることも極端に少ない。公式行事にすら出ないことが多いのだ。
 マーサは彼女が嫌いであった。思い詰めたような顔、恨みがましい言葉。自分が不幸だと思いたがっているようだが、政略結婚がどうだというのだ。
 彼女――レイナはランギス王国に王妹だ。ガクラータ王国がランギス王国の王位継承権を得るために強引に娶ったのだ。レイナはそれを恨みに思っているらしいが、そんなことどこの国でもあることだ。それに、ガクラータはレイナを王太子妃に迎える見返りに、充分すぎるほどの祝い金を送り、ランギス国王は最終的に納得した。王族ならば政略結婚ぐらい覚悟するべきだ。
 マーサもまた両親の思惑で王太子の愛人になり、今は第二夫人に収まっている。しかし理不尽なことだとは思わなかった。
「……殿下に申し上げることがありますの」
 マーサの質問に答えたレイナの声は、特に音量が小さい訳でもないのに弱々しいく聞こえた。
「けれどレイナ様。殿下はお部屋にはいらせられませんよ」
「…………」
 レイナは眼差しで理由を問いただした。その瞳もまた、彼女は金。抜けるように白い肌にその色は映えたが、マーサの圧倒的な美貌に比べると、レイナの顔の造りの美しさは並でしかなかった。
「今は陽香の公主と御一緒ですもの」
 自分にとっても不快な事実を敢えて口にするのは、レイナに嫌がらせをしたいが為である。しかし今日は何故かレイナは顔を苦しげに歪めることはしなかった。
 無表情というには強い印象の瞳で、呟く。
「そう――もう駄目ね、あの方」
「――何ですって?」
 マーサは問い返したが、レイナの瞳には彼女はもはや映っていない。
「溺れてしまわれたのね」
 マーサは唖然として心を遠くに飛ばしたレイナを見つめた。
 発言の内容よりも何よりも、儚さを脱ぎ捨てたその立ち姿を目の当たりにして、悪い予感がマーサを襲った。
(貴女は何をしようというの?)



 クリストファ=ザラがその場に居合わせたのには理由があった。彼もレイナと同じく王太子の自室に向かっていたのだ。
 彼がどうして朝早くからシュナウト宮殿にいたかというと、今日議会を収集するにあたって、レセンド王太子に確認することを思い出して、参内する前にどうしても会う必要があったからなのだ。
 そういう訳でクリストファーが王太子の部屋に向かって歩いていると、突然レイナとマーサの声が聞こえてきたのだった。
 ふたりの女性は別に隠れたり声を潜めて会話していた訳ではないので、離れて立っていた彼にもはっきりと聞き取ることができた。思わず立ち止まって耳を澄ました彼は、その会話の内容に激しく動揺した。
「溺れてしまわれたのね」
 知らず、手が震えていた。いや、手だけではない。心臓が――全身が。
(なん……だと)
 では、あの不安は自分の思い違い、杞憂ではなかったのだ。レセンド王太子が春陽を制したのではなく、逆に彼女に溺れたというのか。
 許し難く、情けないことだった。失望さえ、した。
 クリストファーは忠誠を誓った主君を、年下だからといって一度たりとも侮ったことはなかった。彼のどんな決定でも従ったし、その全てを肯定した。英邁な王太子にはクリストファーの諫めの言葉など必要ではなかった。
 だが今初めてクリストファーはレセンド王太子の過ちを見つけてしまった。こんな最悪な形で。
(貴方は“女に溺れた愚者"を蔑んでいるのではなかったのですか)
 ――あんな色付きの野蛮人などに……っ!
 マーサがレイナに背を向けた後も、彼の中では怒りが燻っていた。だがしばらくすると、いつまでもその場に佇むレイナに不審を覚えた。何故マーサが去ってもなお、王太子妃は立ち止まったままなのか。
「…………わたくしは知っている」
 突然彼女は口を開いた。小さく呟くのではなく、まるで謡うような独白であった。しかしクリストファーはその行為の奇異さよりも、声音の妖しさにただ事でないものを感じた。
「わたくしだけが知っている」
 こくんと喉が鳴る。冷や汗が背中を伝った。
「レセンド殿下を襲ったのはアルバート殿下ではないことを。
 アルバート殿下を殺したのはレセンド殿下ではないことを」
 クリストファーは今度こそ、絶句した。



 自分とマーサの会話を立ち聞きしていた者がこそこそ逃げ出した気配に、レイナは微笑んだ。その微笑みは婉然としているというのに、しかしその様子は容易く手折れられる花のように儚い。
 そのアンバランスが危うい。
(破壊とは、刃を手にしての行為だけをいうのではないのよ)
 彼女はそっとアルバート王子のことを思った。彼を見つめ続けていたからこそ、それを確信するのだ。





     ほら、こんなにも簡単に歯車が狂ってゆく……。









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