赫夜の章 [4]





 昼食前の来客を告げる侍女の声に、始め赫夜はいつもの通り螺緤王女が訪ねに来たのだと思った。それも当然でここに軟禁されてから、侍女以外に赫夜を訪ねてくるのは螺緤だけであったから。彼女が訪ねてくるようになって三週間ほど経つ。
(岨礼淨……ですって?)
 訪問者の名を聞いて赫夜の表情が僅かに強ばる。確か隊を率いて自分を追う命令を受けた二人の武官の内、若いほうがその名前ではなかったか。
 嫌なことを思い出して赫夜は眉を顰めた。
 慇懃無礼というのはああいう男をいうのだ。
 しかし無論赫夜に拒む権利はない。彼女は礼淨を迎え入れた。
「お久しぶりです」
 厚顔にも言ってのけ、武官らしく姿勢の良い歩き方で室内に足を踏み入れた。苦々しく赫夜は男を眺める。
 礼淨は辛うじて青年を呼べる年の男である。中肉中背、瞳が狡猾そうに輝いて見えるのは赫夜の偏見だろうか。なにしろ第一印象が悪すぎた。礼淨は、江洪村を脅迫し、村人たちに赫夜を裏切るよう強いた。結果、赫夜は捕えられたのだ。命を出したのは女王その人であると理解しつつも、直接的に自分たちに害を為したのは彼なのだ。
「ようこそ、いらせられました」
 赫夜は、極力己の不快感を表に出さないよう努めながら、薄く笑みを吐いた。
 抗うでもなく、媚びるでもなく、社交辞令の域を出ない微笑。そういう表情がこの場には一番ふさわしいと思った。
 初対面のときの赫夜の内に秘めた激しさを強く印象づけていた礼淨は、そういった彼女の対応にやや意外な思いを抱いた。
「お寛ぎであったところ、申し訳ございません。今をおいて、お尋ねする機会がなかったものですから」
「……それは、」
 訝しげな顔をした赫夜に、礼淨はただ一言、言った。
「―――秘して、参りました」
「!」
 赫夜は、はっとして部屋の端に控えている侍女を見た。彼女たちは依然、無表情のままである。――買収済み、ということなのか。
 礼淨は、赫夜の表情を観察しながら、言った。
「殿下。わたしと、取引をしませんか」
「取引……」
 赫夜が、突然のことに動揺しているのが手に取るように分った。当然である。突然、敵国の武官から取引などを持ちかけられたところで、その意図を測りかねて戸惑うのが普通である。
 急きすぎているかもしれぬ、と礼淨自身も思わぬでもない。その辺の女相手ならば、まず自分を信用させて抱き込んでから、手応えを確かめて計画を明かすのが定石である。だが、この公主相手にそれは時間の浪費というものだろう。回りくどく愛想を振ったり媚びたしりても、逆に空々しさを見抜かれて不審に思われるだけだ。
「貴女に提案があります。わたしは朝楚のため、貴女は貴女の国のために、――今の朝楚を、揺るがしましょう」
 礼淨は勿体振らずに話を持ちかけた。公主がこれに食いついて来なければ、きっぱりと諦めることを父親や功梨に勧めるつもりだ。
「……何ですって」
 果たして、赫夜は青年の言葉に強く反応した。突然の申し出は十分怪しかった。しかし自分をいいように扱うための詐術だとは思いつつも、聞かずにはいられなかった。
「まずはわたしどもの状況から申し上げましょう」
(わたしども?)
 一体どのような人々を指すというのか。
「わたしどもはこの国の女王・螺栖に失望しています。何故ならば女王が臣下の反対を押し切って、この国をガクラータ王国の属国にしてしまったからです」
 この度の戦争について朝楚は一枚岩ではないというのか。螺緤王女はその辺りのことを赫夜には教えてはいなかった。螺緤もまた、詳しくは把握できないでいたのだ。
「失望は、女王を諌めようともしない王女に対しても向けられていました。もっとも、螺緤王女には初めから期待してはいなかったのですが。あの王女は何も知りはしない」
 確かに。赫夜は螺緤王女のことを思い浮かべた。おの王女は自国のことを本当に知らなかった。
 祖国が平和であった頃、赫夜もまた政治から遠く離れた後宮で閉鎖的な暮らしをしていた。そんな赫夜でさえ、螺緤王女ほど無知ではなかった。特別に学んだわけではないが、そういったことは自然と耳に入って来るのだ。
 あそこまで無知だと、誰かの作為を感じる。不自然なのだ。彼女は次代の女王なのに。そういえば彼女は『母上は何も教えてくださらない』と言っていた。
「しかし近ごろの螺緤王女を見ていて、これなら期待できるかもしれないと我々は思うようになりました。貴女は何度か王女の訪問を受けていますね。王女に対してどうお思いになられました?」
 何を意図しての問いなのか。言葉そのままを正直に捕らえてもいいのか。
「焦っているように見受けられました。真実を知ることを欲し、情報を遮られている現状に不満を持っていらっしゃいます」
 礼淨は視線で同意を示した。
「公主もそうお思いになられましたか。ならば――」
 礼淨は一呼吸を入れた。次の台詞までの短い合間に両者の視線が絡まる。僅かな駆け引き。
「我々は王女を擁立する」
 単刀直入の言葉だった。それは同時に危険な台詞。敢えて赫夜にそれを聞かせて彼の野望に巻き込もうとしている?
 だが単刀直入すぎて、却って詳しい事情が飲み込めない。全体が見えて来ない。
「何故わたくしに。それは何を指すの?」
 迂闊にも赫夜は問い返してしまった。
 礼淨は、父親や功梨、そして仲間に諮らずに勝手に公主にこれを明かしても良いのだろうかと迷わないでもなかったが、真実のみを口にした。淡々としかし、ごまかしのない簡潔な言葉で。
「女王転覆」
「!!」
 赫夜の心臓が激しく鳴った。
 わたくしはとんでもないことに利用されようとしている!
 荒らげようとする声を苦労して飲み込み、赫夜は低く押さえた声音で問うた。
「それは貴方の独断なの……?」
 そうならばいい。このあからさまな罠を回避できる。でもそれが大規模な反逆であったのなら?
 青年は同様も露な赫夜を冷静に見つめる。
「さあ」
 明言はしない礼淨に泣きたくなる。赫夜は非常に勘が鋭い。大変な動乱の予感が彼女を混乱させた。
(いいえ、先走ってはだめよ)
 まだ具体的なことは何も分かってはいない。螺緤王女との対談では大したことは得られていない。あの王女自身、情報に飢えているのだから。分かったことは僅か、赫夜を処分する気配が全くないことぐらいだ。王女は新しい情報が入り次第、報告すると約束してくれたが。
「公主は貴女の母国が、斉城を奪還したことをご存じか?」
「え……」
 突然のことに、掠れ声が喉を突いて出た。
 そんな赫夜のあまりの驚き様に、何も意図せず問うた礼淨の方が驚く。彼は陽香軍を率いているのが死んだはずの吉孔明皇子だということすら知らず、彼にとってこの話題は、これから話す本題のための前置きでしかなかったのだ。
 だが赫夜の方はそれどころではなかった。紛れもなく陽香軍を率いているのは吉孔明だろう。何故なら彼女は知っていたから。戦いの準備を終え、祖国が吉孔明を頭に、反撃を始めた――それがどういうことか!
(ねえ春陽、貴女は刃を手に取ってしまったの )
 異母妹はすでに祖国に殉じてしまったのか。
 赫夜の脳裏に、斬首台に春陽の細い首乗せられる姿が浮かんだ。何よりも誇り高い妹。別れたときの揺るぎない決意を秘めた強い眼差し。もしまだ行動を起こしていないとしても、けして約束を違えたことのない春陽は、必ず完璧にそれを遂行する。
(わたくしはどれだけ大切なものを失うの…………)
 自分が何を望んでいるかさえ分からなくなる。
 いつか耐えられなくなる。
 諦めてはいけないのに。乗り越えて行かねばならないのに。
 何のために強くなろうとしているのか、誰のために己の全てを賭すのか。その意味を失ってゆく。
「何故……それほどまでに取り乱す」
 礼淨の声に赫夜は我に返った。
 (泣いていたの、わたくし……)
 大粒の滴は、頬を伝うのではなく、ぼたぼたと零れ落ちた。
 止まらない。この男に隙を見せてはならないのに。そんな、危険な話しをしている場面なのに。
「何でも、ない、わ」
 強い口調で赫夜は言った。詮索を許さぬ眼差しで。
 礼淨には公主が傷ついているのは分かるのに、それは追い詰められた動物のように勁くて。
 続けるつもりであった言葉を見失う。そもそも俺は何を言おうとしていたのか。
「それで、貴方たち朝楚は、何を」
「は……」
「斉城を奪い返されたことに対して、朝楚が何もしてないなんてことはないでしょう」
 公主は話しの主導権を握ろうとしている。礼淨はそれに気づいて、動揺している場合ではないと、ひとまず頭を切り替えた。
「勿論、我が国の軍は何度も攻め込みました。しかし我が軍よりも陽香反乱軍の方が優勢で、再び城を占領するどころか、一歩二歩と後退させられる始末です。しかしながらガクラータ王国からも援軍が来るし、それまでの辛抱のはずでした」
「でした?」
「どうやらガクラータで内乱が起こったようなのです」
「……王族の誰かが死んだの」
 礼淨は目を見張った。
「何故、知っていらっしゃる」
 春陽だ。春陽がやったのだ。
 ではあの愛しい妹はすでに死んでしまったのだ…………っ!
 ――それは哀しい擦れ違いだった。赫夜は春陽が祖国に殉じたことを全く疑わなかった。春陽が敵国の王太子を見捨てられず、精神的に陽香を裏切ったなどとは想像できるはずがなかった。
 それが赫夜の知る春陽だった。赫夜が、春陽の変質を知り得る筈もなく。
 そうしてやがて訪れる再会の日には、お互い引き返せないぎりぎりのところに立ってしまっている。哀しみは積もり積もってゆく。
 今はまだ、赫夜には知り得ぬことだけれど。
「公主。わたしはお尋ねしているのですが?」
「どうだっていいでしょう。わたくしが知っているのはそれだけよ。他には何も知りようがないのだから」
 赫夜の尖った話し方は、無意味に礼淨の神経を引っ掻いて苛立たせたが、彼はなるべく穏やかに話しを元に戻した。
「まあ、いいです。ともかく、ガクラータでは王族が死に、出兵が延期されました。相変わらず負け続きの上に、ガクラータの出兵はいつ再開されるかも分からず、朝楚は動揺しているのです」
「ガクラータに反発しているの? 何故早く援軍を出さないのかって」
 礼淨は頷いた。
「おっしゃるとおりです。そしてガクラータへの反発は、そのまま女王の反発に換えられる」
 朝楚は陽香を裏切り、属国になってまでガクラータ王国に側に付いた。しかしガクラータ王国は、朝楚を利用するだけ利用しておいて、朝楚の危機にも援軍を出さない。
 そもそもガクラータ王国と手を結ぶことを半ば強引に決めたのは女王だ。女王は孤立し始めている。
「女王を廃位にするための駒が、螺緤王女なのね」
「ええ。同じ纂奪でも、娘が行えばそれは譲位なのだと糊塗せますから」
 偽りのない言葉だった。腹の探り合いをすれば、赫夜はより頑なになってしまい逆効果だと見越し、敢えて礼淨は露骨な言い回しを使ったのだ。
「ではわたくしは? わたくしは何の駒なの」
「申し上げても宜しいのですか」
 聞けば赫夜公主は絶句するだろう。しかしその段までなって、否は言えない。それを許すつもりはない。
「そちらこそいいの? 協力するかも分からないわたくしに、そんなにしゃべってしまって」
(確かに話し過ぎたな)
 礼淨は胸中で同意する。いくら信用させるためとはいえ。
「ではお尋ねするが、わたしが何も説明出来ないが手を貸して戴きたいを言って、貴女は納得して下さったか?」
「しないわね」
 赫夜は肩を竦めた。
「だからわたしは出来るだけ明かした。しかしそれもここまで。この先は協力するつもりがないのならば、聞かない方が宜しいかと」
「―――考えておくわ」
 慎重に赫夜は応えた。ここで礼淨との縁を切りたくない。しばらく当たり障りなく付き合えば、何らかの情報をもたらしてくれるはずだ。だが簡単に引き受けてはならない。
 礼淨は軽く頷いた。当座の目的は果たせた。返事はもう少し後でも支障はない。
(手応えはあった。公主はこの話に乗りたがっている)
「では、これで」
 礼淨は拱手すると、退出した。


 礼淨の背中を見送った後、赫夜は胸を押さえた。
 そうして、緩慢な動きで、その場に座り込んだ。そして、ぎゅっと胸元の布を鷲掴みにして、呻く。
「しゅんっ、よう……」
 嗚咽を漏らして泣き崩れた。
 侍女が見ているのも気にせず、ただ押し殺すように泣いた。
 それは、もはや感傷でしかなかったのかもしれない。何故なら、国に殉じると決めた春陽の選択は、陽香にどうしても必要であったと――それを確かな事実として、今の赫夜は冷静に認識することが出来ているからである。
 どれほど世間知らずであったとしても、赫夜は陽龍の子供であった。皇族はどうあるべきであるかということを、彼女は知っていた。春陽はそれを、おそらく為したのだ。ならば、それを嘆くことは感傷でしかない。
 だが、それでも涙は止まらなかった。この世で、赫夜に肉親の情を向けてくれるのは緋楽と春陽以外にいなかったのだから。
 今日だけは。今日だけ、だから。
 滂沱の涙を抑える術もなく、嗚咽を漏らし続ける赫夜に、声をかける者があった。
「……赫夜公主……?」
 いつの間に訪れていたのだろう。はっとした赫夜は、泣き濡れた顔のまま、あわてて振り返った。
「殿下……」
 そこには、激しく啼泣する赫夜にただただ驚き呆然とするばかりの王女・螺緤の姿があった。
 自らの醜態に気が付いた赫夜は、袖口ですばやく涙をふき取り、上辺だけでも冷静さを取り戻そうとした。尤も、赤い目元や、頬についた涙の跡までは消え去ることなど出来はしなかったが。
「お見苦しいところをお見せしました。恥じ入るばかりでございます」
 拱手する。
「ごめんなさい。……お邪魔してしまって」
 いつものとおり赫夜を訪れた螺緤は、初めて見る赫夜の様子にただ動揺して、思わず声をかけてしまったのだ。
 涙に濡れた赫夜はひどく美しくはあったが、痛々しいばかりであった。
「いいえ――それよりも殿下、今日もお話に来たのでしょう?」
 赫夜は腫れぼったい瞳のまま微笑んだ。螺緤は気まずい思いを引きずりながらも、頷く。
 螺緤は、赫夜の涙の理由を、故郷恋しさゆえと推測した。だからこそ、彼女を国から引き離した原因たる国の王女である自分が、それについて触れるのは無責任だと思ってそれ以上の追求をしなかったのだ。赫夜も彼女の勘違いに気づいたが、それを幸いにと誤解を解くこととはしなかった。
「前は、何をお話ししましたか」
 その後は、いつものように赫夜は彼女の知る限りのことを、螺緤に語った。――ガクラータと陽香の戦争の勃発の原因、古くからの陽香と朝楚の同盟のこと、そしてそれが敗れたこと……陽香の敗北。そして朝楚がガクラータの属国と化したこと。
 赫夜の持つ情報はほとんどが他人からの受け売りである。敗戦前は異母姉妹たちから、敗戦後は雄莱から。情報の量としてはそう多くない。その中で螺緤に知られても支障のない情報となると、彼女に語るのはほんの僅かのことでしかなかった。  だが、その僅かな情報とすら呼べぬ事実ですら、螺緤には喉から手が出るほどほしいものであった。本来、王太子である彼女にとって、情報とは黙っていても集まるものであるはずであった。彼女が知りたいと思うことは、国の最大の力を持って、集められるべきことであった。しかし、それを阻むのは他でない女王その人であるということが、彼女と――そういった母子を女王と王太子に持つ朝楚の不幸なのであろう。
 なにしろ、螺緤がこの戦について知ることは、朝楚がガクラータを裏切って陽香を滅ぼしたという、ただそれだけであったのだから。
 そしてもうひとつ、会う度に赫夜が螺緤に語ったのは、己が父親のことであった。螺緤が特に、と望んだからである。
 炯帝・陽龍。今は亡き、陽香最後の皇帝。
 理由はよく分からなかったが、螺緤もまたやがて王となる身である。何か、父帝の生き方に思うところがあるのかもしれない。



*     *     *



 それから幾日は平坦な日々が続いた。
 赫夜は眠れない夜を繰り返し、体から気怠さが取れることはなかった。
 春陽を喪った哀しみが心を塞ぐ。だが、赫夜はもういつまでも泣くことはしない。胸の内に残る雄莱の言葉が赫夜を叱咤し続けていた。
 春陽はすべきだと信じたことをやり遂げたのだ、その誇りと祖国の愛を以て。だからわたくしもまた、すべきことをするのだ。
 それを思う度、彼女を国のために切り捨てたのだという痛みが彼女を苛みはしたが。
 そんなある日、赫夜にある知らせが届いた。
 とうとう女王・螺栖に召還されたのだ。それも今日。
(いままで放置していたというのに………。今更わたくしに何の用があるというの)
 不審に思って、それを伝えにきた男に問いただしてみたのだが、男は知らないという。あるいは岨礼淨の陰謀ことが露見したのではないかとも思ったが、そうならば問答無用で投獄されているだろうからありえない。
 ただ、ようやく何かが動き出したなと思った。一生このままここに閉じ込められ、事態に関与することを許されないのかもしれないと焦り出したところだ。
 赫夜は促されるまま玉前に出るために入浴し、美しい衣を纏い、紅を刷く。女官たちに囲まれている間、赫夜は女王の為人について思い回らした。
 人の話を聞いていると、ろくでもない人物としか思えないのだが、実際はどうなのだろう。
「女王ね……」
 女の身でありながら一国の主。そう考えると不思議な気持ちになった。赫夜は陽香で生まれた。それ故、自国の男性社会についても疑問に思ったことがなく、男子継承も当然のことであった。一度も男尊女卑を意識したことがなかったのだ。
 彼女の祖母である栄皇太后(諡は撹天正妃)など、女性が天下を望むことの愚かさを語るときに必ず引き合いに出される。女は政治に向いていない、何故ならば臣下を制することができないからだ、と。
 螺栖女王もまた、栄皇太后のような女性なのか。
 最後に髪を梳かしつけ、髪飾りを結わえると、赫夜は女官に導かれて青蛇の間(謁見の間)に向かった。
 女官たちは一言も声を発することはなかった。ひそやかに歩く一行の中で、沓音だけが冷たく響く。赫夜が女王の前でどのような振る舞いをするべきか考えあぐねているうちに、青蛇の間の門扉の前に到着した。
 壮年の男が門扉に待ち構えていた。男は仕立ての良い、優美な縫い取りのした官服をその痩躯に纏っている。相当、位の高そうな風情である。
「そこに跪いていただく」
 壮年の男は簡潔に夜に指示した。言われるままに赫夜は従う。男もまた跪いて頭を垂れる。
 彼もまた、今日の謁見者なのだろう。
 やがて閉ざされた厚い扉が、軋ませながらゆっくりと開く。
「謁見の者、劉赫夜! 並びに岨隆貴!」
 小官が声を張り上げる。
(岨……?)
 ふと覚えた疑問は、しかし前方に女性の気配を感じた途端、彼方へ消し飛ばされた。女王の前に今、晒らされているのだ。
 赫夜は緊張に身を硬くした。
「其処な者、面を上げよ」
 女王の傍の官がそう告げる。そこで頭をあげた赫夜は初めて朝楚女王・螺栖を目にした。
 女王は娘同様に小柄で、目元には皺が畳まれていた。赫夜の母親の賢妃と年齢はほとんど変わらぬと聞いていたが、どこか浮世離れした母親と比べると、螺栖はよほど老けて見えた。国を治めるということは、賢君であれ、昏君であれ、苛酷な生を強いるものかもしれない。
 螺栖の瞳は濁り、だがどこか強い。
「劉赫夜であるな」
 女にしては低く、しかも通らない声であった。
 誰も介せず、直々に声を掛けられたことに息を呑みながらも、赫夜はなるべく冷静に返答した。
「はい」
「近くに」
 命じられ、赫夜は立ち上がって、適当と思われる位置で再び跪いた。しかし今度は頭を垂れずに、真っすぐ女王を見る。女王の眼前に己を見せる。
「風聞に堅く、小娘よな」
 赫夜の怯まぬ様子に女王は微かに笑った。
 しゃらんと大振りの耳飾りが音を奏でる。
「人質にするには手頃ではあるが」
 意外な台詞に赫夜ははっとした。まさかそんなことを考えているとは思ってもいなかった。何故なら自分には政治的な価値がないからだ。
 この王は何を勘違いしているのだろう?
「時間稼ぎか、盾ぐらいにはなるであろう」
 なるほど、皇族を人質にされた場合、結果的には見捨てるにしても充分な会議が持たれる。
(女王もわたくしを使っての取引など成功するとは思っていないのだわ。初めから時間稼ぎだけのために、わたくしを人質にするのね)
「其方には陽香に戻ってもらう。紀丹宮にだ」
 そう言って螺栖は口を閉じた。話は終わりのようだった。
 どうやら女王が赫夜を召したのは、それを告げるついでに、陽香公主の顔を一回は見ておこうと思ったかららしい。そうでなければこれぐらいのことで、女王は姿を現さなかっただろう。
 赫夜は失望した。女王に会えば、何かを変えられるかもしれぬと甘い考えを持っていたのだ。だが実際は、女王は興味本位で赫夜を見ただけ。そして、あっさりと興味を失った。
(……この朝楚で、何かを為そうと思ったけれど……)
 何も出来ずに陽香で捕らえられたが、螺緤王女や礼淨に出会って、この朝楚で何か出来るかと思った。だが結局は何も起こらぬまま再び、陽香に戻るのだ………人質をいう恥辱に晒らされるために。そして、わたくしは死ぬのだ。陽香はわたくしの命を条件にした取引などには応じないだろうから。
(所詮、わたくしはその程度だったのね……)
「もうよい、下がれ」
 そっけなく女王は命じた。
 赫夜は静かに立ち上がって、背を向けた。
 情けなさで身が震えそうだった。
 振り返って、女王に向かって何かを言いたかった。せめて、一矢報いることが出来たならば。
 そこまで考えて、赫夜は薄く笑う。
 もしそれが出来たとして、何になるというのだ。
 青蛇の間を退出すると、赫夜は悄然と自室に戻った。
 椅子に腰掛け、さきほどの謁見を思い返していると、ふと先ほど覚えた疑問を思い出した。
 それを確認するために、赫夜は傍にいた侍女たちに尋ねてみた。彼女は内密に礼淨を手引きした人物なので、少しくらいの質問には答えてくれるだろうと期待したのである。
 赫夜が問うたのは、岨隆貴という人間についてだった。
 そして、返ってきた答えは、赫夜の予想通りのものであった。いや、なんとなく考えたことが的中してしまい、逆に彼女を驚愕させた。――岨隆貴は岨礼淨の父親だというのだ。
 岨という苗字から、隆貴が礼淨の数いる親戚のひとりかもしれないとは思っていた。だが父親とは。
 さらに驚いたことに、隆貴は宰相の一人だという。
 赫夜は息を呑んだ。彼が息子のやろうとしていること――すなわち、女王転覆――を知らないとは思えない。むしろ、彼が積極的に革命を企み、息子がそれに加担していると考える方が自然だ。そうすると、女王の腹心であるはずの宰相が、国を揺るがそうとしていることになる。
 それほどまでに、女王の権威は失墜している……?
 彼らの計画する革命は、もはや必然の域に達しているのか。



*     *     *



(何だ………?)
 村に足を踏み入れるなり、すっと冷たい風が背筋を撫でた。
 理由もなく嫌な予感がして、雄莱は傍らに佇む少年を見やった。雄莱の怪訝そうな表情に、遜角は内心の動揺を抑えた。遜角は雄莱よりもはっきりと、村の異変に気づいていた。村人たちもまた、己と同じ考えを持ったのだと。
 歪んだ、罪悪感。 
 やがて彼らが村に帰って来たことに気づいた者が、ばらばらと家から出て来た。
 誰もが曖昧な表情を浮かべていた。どこか雄莱に媚びるような、許しを請うような、そんな眼差し。それでいて、よそよそしい。
 脅えている。雄莱が自分たちを罵倒することを。自分たちの卑怯を、臆病を、自覚しているからこそ。
「悪かった……」
 人々が遠まきに眺める中、出迎えた村長が開口一番そう言った。苦汁に満ちた声だった。しかし開き直りとも思える頑なさがあった。どうしようもなかったのだと。自分たちの咎ではないのだと。
 村長の目元の皺とともに畳まれた苦悩を見ながら、雄莱は悟った。自分は村から疎外されたのだと。
 村人の裏切りに加担していなかった雄莱は、村人を責めることが出来る唯一の人間だった。雄莱にその気があろうとなかろうと関係はない。問題は村人たちは裏切りの罪を犯し、雄莱はそれに係わっていなかった。それが全てだ。
「儂らを責めるのか、雄莱」
 何も言わない雄莱に対し、村人たちは言い訳を積もらせた。
「仕方のなかったことじゃ。儂らに犬死にしろと言うんか」
 誰だって生きたい。そう思う権利はある。だから雄莱は責めることは出来なかった。村が誇りを選んだとすれば、村は皆殺しの目にあっただろうとは容易く想像出来る。
 だが自分は、俺は、赫夜さまを。
「いい加減にせんにゃ、儂らはお前さんを村から追い出さねばならん」
 言い訳は自己弁護から正当化になり、脅えた声は怒声と変わってゆく。
「なんだその眼はっ! お前は知らないんだろう、俺たちがどのように朝楚に脅されたのか! お前は一人、綺麗なところにいることが出来たんだからな」
 自分たちだって裏切りたくはなかったと、主張していた。そして彼らは雄莱に、肯定の返事を求めている。仕方なかったんだと。
 そうだ、村人は悪くない。悪くない……っ!
 雄莱は必死に思い込もうとする。
 もともと雄莱自身、皇族に対する忠誠心などあまりない。だから村人の気持ちが分かる。春陽の私兵であったときは、春陽が非常に英邁な公主であり、道徳を知る者であることから雇い主に選び、誠意を持って仕えたが、それはあくまで春陽個人に対するものでしかなかった。
 けれど。
 雄莱の胸のうちで反発する声がある。
 ――よくも裏切ったな。よくも赫夜さまを裏切ったな。
 村長は溜め息を漏らした。村人たちは押し黙ったままの雄莱に、昂ってきている。危ない。このまま放ってゆけば爆発する。
「雄莱、悪いが―――、」
「ふざんけんなよ……っ!」
 村長が皆まで言う終わる前に、若者の一人が怒鳴った。
(いかん……っ)
 慌てて制止しようとする村長の眼前で、若者は雄莱の胸元を引き寄せて凄んだ。反射的にそれを振り放った雄莱に、鋭く村人たちは反応した。 がしっ
 鈍い音を立てて、雄莱は殴られた。抵抗しないでいると、そのまま数発加えられる。吹っ飛んだ雄莱に今度は別の誰ががつかみ掛かった。
 臓躁的な罵声が飛んだ。
 ぐりぐりと靴底で地面に顔面を擦り付けられ、べろりと皮膚が捲れて血が染み出る。
(狂っている)
 雄莱は殴られるままに、そう思った。
 意識が遠退きそうだ。
 これは喧嘩ではない、私刑だ。
(狂わされて、いる)
 自らが犯した罪に。
 否、彼らの罪ではない。
 朦朧と考えていた雄莱に、そのとき意識を蘇らせる鋭い叫びがあった。
「やり過ぎだ、やめろ……っ!    死ぬぞ!!」
 我に返った一刹那、全身に痺れるような衝撃があって、雄莱の意識は闇に沈んだ。










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