赫夜の章 [3]





 捕らわれたときのことをつらつら思い返しているうちに、いつの間にか夕日はすっかり落ちて、辺りは夜に包まれていた。
 赫夜は溜息ひとつついて、窓辺を離れる。
 敵国に捕らわれた当初は、何が起ころうとも負けるまいと気負っていた。だが、この朝楚の首都・広絽にある王宮・絮台の奥深くに幽閉されてもう一ヶ月と半も、経つ。部屋を出入りするのは、彼女の世話をする物言わぬ侍女たちだけで、政治に関わる者は一度も姿を見せていない。
 蚊帳の外に置かれている自分を赫夜は自覚し、苛立ちと焦燥は日毎に増した。
 姉が櫂領に身を寄せていることは、おそらく裏切った遜角によって敵側に漏れた。それはどう言い訳しても、己の迂闊さが招いたことであった。
 緋楽の居場所を知った朝楚は、反乱の芽を潰すために、櫂領を攻撃したかもしれない。いや、陽香の出兵の方が先か。どちらにしろ、自分が捕まりさえしなければ、陽香は戦いの準備を存分に出来た筈である。<br>  情けない、と赫夜は形のよい唇を噛む。
 せめてもの救いは、戦死したとされる吉孔明が実は生きていたという秘密だけは守れたということだ。赫夜は、それを雄莱にも秘していたのだ。
(……思い巡らすだけ、無駄なのかもしれない)
 何の事実も元にしていない推測は、推測たりえない。
 そもそも赫夜は、何故自分が幽閉されたのかさえも分からないでいる。もちろん、自分が敵国の姫だというだけで、追われる理由にはなる。だがそれは、掴まった後、殺さずに幽閉された理由にはならない。それも、人質を収容する牢獄であるならまだしも、これほど贅を極めた瀟洒な館で丁重に扱う理由には。
 無論、女王が赫夜を哀れに思って温情を施したという訳ではないだろう。何か政治的な思惑があるのだ。しかし赫夜は自分に利用価値があるようには思えなかった。
 まだ対面の叶わぬ朝楚女王に思いを馳せていると、侍女が赫夜の名を呼んだ。そして振り向いた赫夜に思わぬ者の訪問を告げた。
「王太子殿下?」
 朝楚国王太子が、己に会いたいと欲しているのだという。
 突然の事態に、赫夜は身を強張らせた。
「もう、扉の前までいらっしゃっているのでお召し物を変える暇はございませんが」
 侍女はそう云って、手早く赫夜の肩までの髪を櫛づけ、裳の乱れを直した。
 身支度を整えられている間、赫夜は大人しくしていたが、その胸中には負の感情が満ち満ちていた。
 朝楚王太子―――陽香を裏切ったこの国の直系の王族。
 或いは、その思いはガクラータに対して持つ以上の感情だったのかもしれない。初めから敵国だったかの国に対して、朝楚は同盟を組んでいながら、陽香を裏切ったのだ。
 激情は必死で抑え付けようと努めた。睨めつけ、怒鳴りつけたいという衝動があったが、そのような短慮を起こす訳にもいかない。
 かなうことならば、誇りを押し隠し彼におもねってでも、現在の状況を知る必要がある。それが無理でも、せめて極刑に処せられることを回避しなくてはならない。こんなところで、何も為せぬまま死ぬ訳にはいかぬのだ、自分は。
 ああ、けれど……っ!
 赫夜のその葛藤は、しかし実際に王太子を目にした瞬間、驚きのために霧散した。
 侍女に導かれてやって来たのは可愛らしい少女だった。赫夜の視線ほどまでしかない背丈、丸く大きい黒目。癖のある硬質の黒髪は簡単にまとめている。王宮育ちのせいか鷹揚とした柔らかい雰囲気を纏っている。
 余程動揺したのか、拱手するのがやや遅れた。慌てて手を胸元に重ね合わせ、軽く背中を曲げる。礼の形をとりながら、ようやく赫夜は、落ち着きを取り戻していた。
(女の人……だったのだわ)
 朝楚の王太子が女性であることを聞いた事がなかった訳ではないが、遠い昔のことで忘れていた。公主とは言えど――いや、だからこそか、彼女の知る世界は狭い。自国のことでさえあまり知らなかった彼女が、他国の事情に明るい筈がなかったのだ。
 赫夜の様子が不審だったのだろう、螺緤王女は小首を傾げ、問うた。
「御邪魔……だったかしら」
 わざわざ赫夜のために陽香語を使ってのその台詞ほどには、しかし螺緤王女は遠慮しているようには見受けられなかった。不躾なまでに赫夜を見る茶色の瞳が好奇心に輝いていることから、この訪問が女王に命じられてのことではないことが察せられた。
 すでに冷静になった赫夜は、王女にどう返事すべきか逡巡した。
 叶う事ならば、この王女から情報の一つでも引き出したいところだった。それほど赫夜は情報に飢えていた。しかし彼女は生憎、そういう駆け引きに向いているとは言い難い。
 大体、一見して無邪気な性質に見えるこの螺緤だが、腹の中で何を考えているのか分かったものではない。
 赫夜もまた君臨者の娘であった。陰謀の渦巻く世界で育ったのである。身分のある者に対して、そういう穿った考えをまず持ってしまうのは仕方なかった。ただでさえ螺緤は敵国の王女なのだから用心してし過ぎるということはない。
 螺緤は赫夜が何か言うのを待たずに、気軽に入室してきた。もちろん王女が、自分の王宮内で敗国の公主に気兼ねしなければならない、と言うつもりはないが。
「何も言わないのね、陽香公主? 妾に何か聞きたいことがあるのではなくて?」
 台詞だけなら高飛車に聞こえるかもしれないが、螺緤の口調は気取りがなくて、むしろ素直で好意的だった。それで赫夜は親しみやすさを感じ、そのことでまた少し戸惑った。紀丹宮で深窓に育った赫夜は、侍女や異母姉妹ではない、同じ年頃の少女と話す機会が今までなかった。その侍女にしても、彼女たちの仲は完璧な主従関係に過ぎず、親しく口を聞くなどということは論外であった。
「では殿下。貴女はどうしてここへ?」
 ようやく赫夜が問うと、螺緤はやっと返って来た反応に、嬉しそうに答えた。
「妾は陽香公主を見に来たのよ。貴女、余程の佳人としきりに侍女たちの口の端に上っていたから」
 つまり野次馬根性が抑え切れなくなったというわけね、と心の中で意地悪く赫夜は思う。それにしても率直な者の言い方をする方だ。心を許してない相手に対してそのような話し方は、赫夜ならまず出来ない。
「妾はとても興味をもっていたの、陽香公……」
「赫夜ですわ、殿下」
「ええ、赫夜公主。貴女に」
 陽香公主と記号で呼ばれることに抗議したつもりだったが、ふわりと微笑むだけで、悪びれる様子はない。赫夜に対してだけではなく、自分に対しても鷹揚であるらしい。まあ次期女王として育てられたため、謝ったり臆したりする習慣が付かなかっただけかもしれない。
 ちなみに朝楚は男性社会が一般的なこの世界にあって、珍しくも完全な長子継承が守られている。つまり長子であれば、家を継ぐのは女でも男でもよいのだ。その理由のひとつがこの国は大部分が女系民族であるということと、あと一つにこの国の結婚形式がある。
 朝楚は一夫一婦制で、王も例外ではない。姦通は男女を問わず、重罪である。妻が一人ということは、王の子供が少ないということだ。当然なかには王子がどうしても生まれなかった王もいた。その様な場合、他国では王女に有力な貴族と結婚させてその男を国王とするのだが、女性の権利が強い朝楚は王女そのものを国王にするほうを選んだのだ。
 陽香ではまず考えられないことだった。そもそも陽香では王子、つまり皇子が生まれないことなどあり得ない。そのための後宮であり、華麗三千と言わしめる女官なのだ。過去に例を見ない慎ましさといわれ、ときに貧弱だと非難さえされた炯帝陽龍でさえ皇子は七人、公主は赫夜を入れて三人、併せて十人の子供がいたのだ。陽龍の父帝の蒙帝陽騎で二十六人、陽香の前の王朝の佳王朝の最後の皇帝は何と二百人の子供がいたという。
「あともうひとつ、貴女に王宮の外の話が聞けると期待しているのだけれど」
 赫夜の沈黙を余所に、螺緤はにっこり笑って云った。
 赫夜はまず驚いて、この朝楚国の王女を見つめ返した。螺緤は初めて気後れらしきものをその表情に浮かべた。やはりこの訪問は、単なる気まぐれだけではないのだと赫夜は気がついた。
「ねえ、この絮台の外と内で何が起こっているか、知りたいと貴女は思わなくて?」
「……何をおっしゃりたいのか、分かりません」
 赫夜は、手に汗が染み出るのを自覚しながら、慎重に言葉を選んだ。
 この王女は、何を言い出す気であろうか。このように人目を忍んで。
「率直に言うわ。……妾は、次期王位継承者でありながら全ての情報から閉ざされている。特に、妾が陽香侵攻に反対してからは。今、何が起きているのか、妾は分からないのよ」
「……」
 沈黙した赫夜に、螺緤は初めて焦燥を表情に浮かべ、言葉を重ねる。
「母上は、妾を政治から引き離そうとしていらっしゃる。妾は、優しい女官たちの中で、遊ぶことだけを教えられて育った。それでも、妾でも知っていることはあるわ。政治向きのことは分からなくとも、この宮のことや人のことは知っている。それを捕らわれの身である貴女に提供する。その見返りに、貴女も妾に情報を渡す。――どうかしら」
 また赫夜の方も彼女の提案に無関心ではいられなかった。いずれ女王と対面することがあるかもしれない。全く何も知らないまま女王の御前に引き立てられたのなら、無知ということがさらなる逆行をを呼び込んでしまうかもしれないのだ。あるいはせっかくの好機をみすみす逃してしまうということもある。
 だが。
 赫夜は真っ先に罠を疑った。こちらには嘘の(或いは屑同然の)情報を掴ませ、自分たちは正しい情報を得るために、赫夜と年の近い螺緤を女王は差し向けたのではないか、と。
 身体の力を抜こうとしない赫夜に、螺緤は真摯な眼差しを向ける。
「疑っているのね。当然だけれど」
「………」
 真摯な表情ならば、誰にでも出来る。澄み切った瞳が、実は嘘に穢れていないと誰が言える?
 赫夜は、真贋を見極めようと、螺緤をひたと見つめる。
 痛みを堪えるように、螺緤は頬を強張らせている――何かを、苦悩しているかのように。
「別に重要な秘密を提供しろと云うわけじゃあないの。寧ろ、周知の事実でもいい。――周知の事実とされる情報ですら、きっと妾には知らされていないしょうから。それなら貴女に不利ではないでしょう?」
 彼女の提案は考慮に入れる価値はあると思えた。こちらにとって不都合なことは何も言わなくていいのだという。ただ、頷く前に確認を取らなければならない。
「質問に対して黙秘権はあるのですね? 後はお互い深くは突っ込んで質問しないのならば」
「勿論」
 赫夜は溜め息をついた。
 確かに彼女を疑う理由はない。また彼女の心根が純粋であることも、分かる。
 だが、と赫夜は思う。
 ―――わたくしは螺緤が誰なのかを忘れるまい。
 彼女が背約した上に敵国となった国の王位継承者であることを、けっして忘れず、常に賢く立ち回れ。
 自分の命だけならまだしも、この行動一つが国の致命傷になることもありうるのだから。
「憎んでくれてもいいわ。それでも、信用はしてほしいの。妾は貴女に嘘はつかないことを約束する」
「……殿下」
「……それでも、貴女の国を助ける、とは云えないのだけれど」
 ほろ苦く、螺緤は笑った。
 当然のことだった。たとえ螺緤が陽香への自国の侵攻を快く思わず、赫夜に同情していたとしても、彼女は王女だ。彼女の発言が実際の朝楚の国策とは異なっている場合、それは偽善になる。いくら謝罪しても現状は変わらないのだから。
 赫夜もそのことはよく心得ていたので、このことに対して螺緤に憎しみは沸かない。
 ――ある意味で、彼女たちほど友情の芽生えにくい関係もないだろう。相手が自分を利用し合おうとしていることをお互い知っていて、それでも情報のために割り切っているのだ。
 赫夜はそれを自覚した途端、急激に自分の心が乾いてゆくのを感じた。相手を憎んでいるわけでも、蔑んでいるわけでもないのに、心が遠い。



*     *     *



 陽香は斉領。
 その城下町・淦呈(こんてい)は、国の敗北後にガクラータ王国に占拠された。赫夜公主が、王宮脱出後にここを目指しながら果たせず、途中で櫂領へと進路を変更したのは、そのためである。
 淦呈はガクラータの占領下にあったとき、陽香におけるかの国の本拠地となっていた。それで吉孔明率いる櫂・緯択合同軍は、敢えて王宮ではなく、まず斉城を取り戻すべく戦いを挑んだのだった。結果、大して兵数の残っていなかったガクラータ軍に圧勝し、捕らわれの斉王を救い出せたのだ。
 吉孔明の生存を知らなかった朝楚は、驚愕しただろう。皇子の存在なくして、これほど早く反乱軍が組織立つことはありえなかった。確たる主を失った諸王たちは、日和見してガクラータの占領を受け入れるか、公主などの新しい盟主をたてて反乱軍を作り上げるか、あるいは自ら皇帝を名乗りをあげるか、迷ったに違いないから。
 淦呈からガクラータ人の姿が消えて、数日が経った。
 それだけで民心の惑いはあきらかに軽くなっているのが分かる。寒々とした空気が取り払われ、他領に逃げた者たちも少しずつ帰って来る。活気がこの町に戻る。
 そんな斉城での昼。櫂王・泰義伯は斉王と共に回廊を歩いていた。二カ月間の屈辱の日々から解放されたばかりの斉王は、大層機嫌がよかった。斉王は櫂王よりもさらに年を重ねていたが、とてもそうは見えない闊達さである。
「もうすぐ朝楚兵がこの斉城を奪還しにやって来るだろうが、それはどれくらいの兵数であろうな……。いや、奴らではなくガクラータが直接攻めてくるやもしれぬ」
「ええ斉王。この義伯もそう思います。朝楚軍だけでは兵数的に無理があるでしょうから」
 朝楚は今や、四成大陸全体から敵愾心をもたれている。ガクラータ王国が陽香を完全に掌中に収めたなら、次は我が身であるからだ。同盟を背信してまでその手助けをした朝楚に、含みを持たずにはいられないのは当然のことであった。そんななか、朝楚は陽香ばかりに兵を割くわけにはいかないのだ。
「だがガクラータ軍はしばし到着が遅れるだろう」
 不意に交じったよく通る声に、二人の諸王ははっとして姿勢を正した。軽く拱手して彼らは主君のために道を空ける。
 吉孔明皇子は切れのよい沓音を響かせて、颯爽と歩いて来た。彼は陽香の大部分を占める黄族においてはかなりの長身である。また面立ちも亡父に似て凛々しいことから、櫂王は炯帝の若しかり頃を思わずにはいられない。
「殿下?」
 櫂王泰義伯は吉孔明の台詞の説明を求めた。
 それを苦く吉孔明は見る。
「まだ猶予は、ある……」
 重ねてそう言いながら彼は、目的の全てを遂げただろう異母妹を、思う。
(君はもう、この世界にいないのかもしれない……。)
 櫂城で沢山の兵卒の前にガクラータ王国に反旗を翻す宣言をした日。吉孔明に、妹の緋楽公主が驚くべき告白をした。――ガクラータ王国にいる春陽に、この度の出兵を知らせる使者を送ったと。
 それがどういうことなのかが分らぬ吉孔明ではない。
 吉孔明は、なぜ事前に皇子たる自分に諮らなかったのかと緋楽を責めた。しかしそれは、重大なことを彼女が独断で決めたこと故ではなく、春陽の命運に関わることだったからこその怒りだった。皇子としてではなく個人的な理由だったのだ。冷静さを見失い、目の前が真っ赤になった。
 聞けば紋章入りの小刀まで送ったという。怒りが、そして何よりも深い絶望が吉孔明を襲った。
『御覚悟の内ではなかったのですか』
 妹は言った。よくもそんな正論を吐き出すことができるのだと、信じられぬ気持ちでそれを聞いた。
 ――覚悟はついていると自分では思っていた。むしろ気持ちが揺れ動いているのは緋楽のほうだと。
 しかし、あのときの緋楽の言葉に、吉孔明はそうでないことを自覚せざるをえなかったのである。
「猶予とは」
 斉王は不思議そうに尋ねた。
 彼らには何のことだか分からない。
「青皇后陛下が公主、春陽さまの助力を得たのだ」
「海を渡った、あの公主が」
 感心したように斉王は言う。
 皇后と似て滅多に感情を露わにしない、醒めた少女。政の何たるかを公主でありながら学び、常に皇帝に目をかけられていた。皇帝の戦死、そして皇子たちの出兵の後は、主要な男の皇族が絶えた紀丹宮の要として、政治の采配を振るったという、信じられない少女。
 ――彼らの知る春陽はそういった表向きのものだけに過ぎない。  斉王は続けて問うた。
「気丈なあのお方に、殿下は何をお命じになられたのですか」
(命じる……か)
 その表現は正しくない。吉孔明はまだ皇帝ではなく、春陽は皇后の娘だ。心情を抜きにしても、皇太子でさえもない吉孔明が春陽に命じることなど出来るはずがない。
 だが、もはやこの者たちの中で、己はただの一皇子ではなく、時期皇帝なのだ。
 戦死した皇太子・陽征や、国に殉じるために敵国に渡った春陽。自分の皇族としての存在は彼らに劣ったものであったというのに、今、彼らの存在は誰にも省みられない。
「わたしからご助力願った訳ではない。全ては春陽さま自ら申し出てくださったことなのだ」
 その台詞を吐くのにどれほどの労力が要っただろうか。どれほど強くなろうとしても感情を捨て切れないでいるわたしは、おそら皇帝の器ではないのだ。身内が絡むと冷静な判断ができなくなる。このような男に、皇帝位は勤まるまい。
「春陽さまは彼の国の王族の暗殺を、わたしに御約定くださったのだよ」
 斉王は思わず唸る。
「それは豪胆な……」
「確か春陽公主は武術一般を学ばれたとか。しかし母君同様、尋常の姫君でいらっしゃらない」
 櫂王も驚きながら追随する。
 春陽の死を悼む者はここにはいないのだ。
 春陽は自分の下臣ではなく、それどころか今現在において一番位の高い王族だというのに、誰もが彼女の犠牲を容認している――犠牲などとは誰一人思わない。彼女自身さえもおそらく。何故なら吉孔明こそが皇帝になるべき人間であったから。
 皇帝となるこの自分以外、大切なものなどないのだ。
 哀しく、吉孔明はそれを自覚した。
 将さえ残れば、まだ戦える。それは自明の理だ。そもそも、皇族とはいざというときに民を守る責務がある。だからこそ春陽と懇意にしていた緋楽でさえも、彼女の命を戦いの駒にしてしまえる。
 妹がその選択にどれほど辛かったかを、吉孔明は知っている。しかしけして心情的に納得することは出来なかった。春陽を愛していたから。
 両諸王と逃げるように別れて、吉孔明は一人になった。
 自分の中の激しいものを忘れ去ろうと、考えないようにしていたが、それにも限度があった。
 『ならば陽香などいらぬ!』
 己を蝕み続ける、あの日覚えた刹那の衝動は、確かに吉孔明を急き立てた。
 それが嘘偽りのない本音だと知っているからこそ。



*     *     *



 朝楚国の王都・広絽。丘に立つ王宮・絮台を取り巻くようにして存在する高級住宅街。そこには主に高官らが起居している。
 宵、闇の中で篝火がそれぞれの館の入り口を照らす。幻想的と思えばそう見えるかもしれない。贅の限りを尽くした虚飾。
 広絽の夜はいつもと何ら変わらぬ様子を呈していた。
 陰気に、まるでこの国の本質を知るかのように。
 そんな中、ある館の前に車が停まった。いかにも上等な仕立てである。中から出て来たのは壮年の男と、その連れであった。
 男は今や成長して自分を肩を並べる息子と共に“友人”である張功梨の邸宅に招かれていた。
 勝手知ったる他人の家で、通いなれた彼らは案内無しに“友人”の待つ広間に足を運ぶ。
「隆貴か?」
 門扉の内側からの張功梨の問いに男――岨隆貴(そ・りゅうき)は頷いた。息子の岨礼淨も父親の友人に声を掛ける。確かに岨親子と納得した彼は彼らを招きいれた。
「今日はお前たちだけだ」
 幾人かの同志は今日は来ない、そう言われ隆貴は知らずに肩の力を抜いた。
 友人のそんな様子を見て、功梨は笑った。
「なんだお前、まだびびっているのか。存外肝の小さい男よ」
「ぬかせ。卿が図太いだけではないか」
 自覚はあったので功梨は肩を竦めた。
 隆貴の書院時代からの友人である張功梨は、悪巧みとは無縁そうなおおらかな顔立ちをしている。彼をよく知らない者は、まさか彼らが度々こうして集まる理由を想像できまい。人当たりが良く、野心からも遠く、真面目で平凡。これが彼が人に与える印象だった。だがそんな人物が今の世の中で高官になることが出来るだろうか。彼はこの国の文部次官、つまり国の公式な書物の作成・管理を中心に朝廷内の幅広い仕事を手掛ける官庁の副長官であった。
 岨親子は勧められるままに、酒や料理の盛った皿が並べられる卓についた。しばらくたわいもない話しを交わして時を過ごし、料理も半分が片付けられたころに、功梨が本題に入った。
「何やら面白い話しがある」
 彼は岨親子ににやりと笑って見せた。彼がそのような笑いを見せることは甚だ珍しかったが、見せる場合は決まって何か無謀というか大胆なことを思いついたときだと隆貴は長年の付き合い知っていた。
 功梨は見かけによらず、生来博打好きな男だ。成程、彼には野心はないだろう。しかし彼はけして平凡ではないし、人当たりの良さも半ば演技であった。そうでなければ長いものに巻かれろという風潮が慢性的に漂っている役人のなかにあって、このように人目を避けて夜に話し合わなければならないような、それこそ大胆な陰謀を考えたりはしないだろう。勿論自分も、そして息子の礼淨もその点では同類なのだが。
 岨隆貴は不安を感じて友人の言葉を待った。これまでならそんな不敵な笑い方をしたときの友人を、みすみす煽ったりして楽しんだものだが、今では彼はただの純粋な友人ではなくなっている。どちらかといえば友人というより共犯者だ。しかも仕損じれば死あるのみ。
「何だとは聞かないのだな?」
 不服そうに友人は言ったが、すぐに気を取り直して
「螺緤王女のことだ」
 と続けた。
「お前も知っているとおり、何が切っ掛けやら王女は急に政治に興味を示し始めた。まあ、自然なことかもしれないがな。王女もいつまでも子供ではないし、もともとは暗愚な方ではない。あの女王が故意に王女を教育せず政から遠ざけていただけなのだからな」
「ああ」
 隆貴は相槌を打った。
 女王は自分の政について口出しされるのを極端に嫌う。後ろ盾と後継者を得るため婿にした元・高官の夫に対しても、結婚前以上の実権を与えるどころか、自分の地位が確かなものになった後はほとんど隠居生活に追いやってしまった。
 螺栖女王が螺緤王女を無知・無力な王に至らしめようとしてるのは、退位した後も宮廷を牛耳んとせん目論みからである。
 朝楚での王位の継承は王の崩御によってではなく、王が存命中に行われる。王は年を取ったり病気に罹ったりすると退位する。王が急死しない限りはそういうしきたりであったし、年を取ってもいつまでも退位しない王はそれとなく臣下から退位を迫られる。それは王が崩御してからの後継者争いを避けるためであった。
 ほとんどの王はよほど健康な者でも五十代半ばで譲位する。そして位を退いた後は院として政治からは手を引く。しかし螺栖女王はそれを憤ろしく思って、けして死ぬまで権力を手放すまいをしている。だから王女を支配者として教育しない。
「王女はどうやら女王の目の届くところでは、誰も真実を自分に教えてはくれないを気づいたらしい――陽香公主に接触した」
「赫夜公主が?」
 初めて隆貴の息子、礼淨が口を挟んだ。その素早い反応に、功梨はそういえば、と思い出した。
「公主追捕の勅命を拝したのはお前さんだったな。生意気な奴だ」
 功梨がそう言ったのは、礼淨が命令の成功を条件に、破格の昇進が約束されていたからだ。
「詰まらない仕事でしたよ。何せ同じく命令を拝したのが無能な男で」
「公主発見から拘束まで、またえらく時間がかかったと思っていたが。礼淨は先に発見した方の隊ではなかったのだな」
「ええ。それで赫夜公主と王女は?」
 自分のことはどうでもいい。
「ああ、話が逸れたな。螺緤王女はこの公主と度々会っているらしい。しかしまあ、大したことは得られないだろう。陽香の公主に朝楚のことなど聞いても仕様が無いし、戦況などそれこそあんなところに閉じ込められっぱなしの公主が知る訳はないからな」
「それは、そうですね」
「だが、公主のことを探ってみる価値はあると思わんか。意外と使えるやもな」
 やはり、と礼淨は思う。根拠のない直感もあながち馬鹿にしたものではない。
 赫夜の事を知り礼淨は、彼女がなにかしら嵐と共に変化を引き起こすものかもしれないと、そんなことを感じていた。それが現実のものとなるかもしれない。
「ならばその役、小官に任せていただきたい」
 勿論自分が一番行動の自由がある身分だということもあったが、それ以上に彼女との再会を果たしたいという思いが礼淨にそう言わせた。
 そんな礼淨に気づいたのか張功梨はあっさりと頷いた。
「では頼む」










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