春陽の章 [8]





 その日の昼前、シュナウト宮殿はちょっとした騒ぎに包まれていた。朝楚から献上された楽士が王宮から到着したのだ。
 およそ三十人にもなる楽士たちは、当然朝楚人ばかりである。あいかわらず他人に対する配慮の足りない人だと春陽は思ったが、そんな王太子の態度にも慣れたので、今更腹も立たない。
 しかし、わたくしが朝楚語を話せなかったとしたら、どうするつもりだったのだろう──いいえ、そもそも陽香の公主であるわたくしに朝楚人を押し付けようなどと考える厚顔といったら!
 それでも、いざ楽士たちを前にすると、春陽は彼らの持つさまざまな楽器に懐かしさを覚えた。方響(鉄板を打ち鳴らすもの)、拍板、笙、鼓、琵琶などだ。これらの楽器は厳粛にも華やかにも、どのようにも旋律を紡ぐことが出来た。
 仕事の合間に様子を見に来た王太子は、余興とばかりに彼女の舞を所望した。彼女が舞を嗜むということを覚えていたのだ。春陽は請われるまま、楽士らの奏でる曲で、朝楚の舞いを踊った。―――しなやかな、しかし鍛えられた春陽のすらりとした脚は、軽やかに床を叩く。踊るのに邪魔かと思える長い髪も、それ自体に意志があるかのようにうねり、春陽を艶めいて見せていた。見た者は、ここに四成風の衣装がないことを惜しいと、例外なく思った。よく映えただろうに。
 言葉もなく、王太子は春陽の舞を見入る。だが、舞いも半ばのうちに彼は背を向けた。一緒に傍にいた腹心に理由を問われた彼は、すべて見るほど暇ではないと答えるに留まった。
 実際、現在の彼は忙しすぎたし、そのためだけに仕事に穴を空ける芸術に造詣深くもなかった。だが、それのみを真実とするには、彼の表情は硬すぎた。
 冷静に、春陽は推察する。―――おそらく、彼は今、私に見惚れていた。
 とはいっても、春陽は己の舞いには満足していなかった。彼女の舞いは客観的には確かに素晴しいといえたが、二人の異母姉たちの領域までには達していなかったからだ。
 しかし、それはあまりに高すぎる目標だと春陽は自覚している。特に、緋楽ほどに舞える者を春陽は見たことがない。
 赫夜は激しいものを内に秘めながらも、普段は内向的なところがあったので、その芸は美しくとも弱すぎるところがあったが、緋楽の芸は文句なしに、紀丹宮に呼び寄せる一流の芸人並みの魅力があったのだ。
 そもそも、舞いとは自分の内面を発露するものだから、春陽には向いていないのかもしれない。
 だが、それでも春陽は久しぶりに、楽しい気分になった。
 三曲踊り終えると、朝楚人のひとりが立ち上がり、「何か一緒にお弾きになられますか」と問うてきた。春陽は楽器を操ることは、舞い程に得手としているわけではなかったが、断る理由もなかったので頷いた。
 渡されたのは琵琶だった。座りこんで、久方ぶりのその感触を試しながら弦をつま弾いたとき、彼女は琵琶の中に白い紙片が隠されているのを見つけた。
「?」
 人前で取り出さぬ方が良いかもしれないと思い、全ての人間の注意が自分から逸れたときを狙って、それを懐にしまった。
(もしかして………!?)
 胸が激しく鼓動していた。
 ───彼女は気づいていた。
 驚愕に顔が引き攣りそうになるのを耐える。その後、春陽は演奏に集中することはできなかった。



 『三十日 吉孔明皇子、櫂軍率いて出立す。
 道中、緯択王馳せ参じて兵数六万を越す。
 まずは斉城奪還せしめ、捕らわれの斉王を救出せん。
 隔たる汝は想いのままに』

 半刻後、自室に戻った春陽はいそいで紙を開き、心を乱しながら春陽はそれを読んだ。胸を突く動悸を抑えようと努力しながら、彼女は呟いた。
「時期が来たのね………」
 紛れもない姉の筆跡。流麗な、しかし女人にしては確かな筆圧で、迷い無く引かれた線。どのような経緯で敵国である朝楚の楽士がこれを持って来たのかは分からない。だが罠ではないことを春陽は確信していた。
 政治の表舞台に出ていない姉の文字が簡単に手に入るとは思えないし、手に入ったとしても姉の筆跡を良く知っている自分を欺くなど、同国の者でさえ出来ることではないという自信もあった。
 日付は七月二十七日とある。緋楽がこれを書いている時点では、陽香軍は出兵もしていない。それでも緋楽が必ず勝利すると決めつけているのは、今現在陽香に止まっているガクラータ兵が少ないからである。二万くらいか。これで負ける陽香ではない。
 やろうと思えば、陽香はいつでも斉城も紀丹宮も奪回できた。ただ、そうすれば必ず朝楚やガクラータ本国から援軍がくる。やってくるだろう援軍にも対処できるような準備なくして出兵すれば、二の舞いになりかねない。今回吉孔明が出兵に踏み切ったのは、兵や武器、食料が揃い、諸王同士の連絡が整って、いつでも挙兵する準備があったこと、そして緋楽公主が櫂領に身を寄せていることが相手に知られ、反乱の動きを隠しおおせなくなり、挙兵する必要に迫られたことなどのためである。
 緋楽は赫夜のことについては、書面では触れていなかった。春陽は、斉城がガクラータの拠点となっていることは知っていたので、そこを目指していた赫夜がどうなったのか気になってはいたが、赫夜が捕らえられたということは聞かされていなかった。だから、この手紙を受け取ったとき、春陽はただ己のことについてのみ考えることが許された。
「ああ、とうとう………!」
 感極まって声が出た。
 苦しみから逃れる唯一の術だと思った。陽香でしか上手く呼吸できない。
 そして何より辛い行為だとも思った───兄さまと別れの言葉さえ交わせずに、全てが終わる。
 漸く終わるのだ。この欺瞞の日々が!
 春陽は、自覚していた以上に、敵国での日々が自分の心を磨り減らしていたことに気づいた。
 刹那、気違いのように笑うかと思った。
 王太子と己の死だけを見つめ続けた末に、狂うのだと思った。
(────そうなれば良かったのに、と?)
 狂ってしまえば───そうすることが出来たなら?
(わたくしはずっと、何よりも強く、そうなればよいと思っていた?)
 心はほとんど恐慌していた。ひどく混乱していた。
 だが狂うことは許されていなかった。
 彼女はそれをやり遂げなければならなかった。
 想像でしかなかったことが、今現実として横たわっていた。



 春陽から二日遅れて、王太子の耳にもその事件は耳に入る。自分たちが国内で醜い争いをしている間に、斉城は陥落していたのだ。
 王に代わって政務をこなしていた彼に報告を持って来た、腹心のクリストファーの表情も硬い。
「やはり………」
 苦々しくレセンドは呟いた。やはり大規模な反乱は起きた。全員死んだはずの皇子に生き残りがいたらしく、陽香中の兵を率いて───しかもよりによって王宮内の安定していない今を狙ったようなタイミングで!
 王子たちが争い、王妃は捕らわれ、王は病褥についている。
(援軍を出す余裕はあるか………?)
 他国を侵略するときのガクラータ軍は、必ず王族が総指揮を取ることになっている。実際の指揮は別の大貴族がとるのだとしても(ガクラータにおいて、貴族の男性はすべて軍人である)。
 今出兵するならば、アルバートか自分くらいである。出来ることなら自分が行きたいが………。
 国王が倒れたとなると、アルバートは焦っているだろう。タイムリミットは迫っている。しかもアルバートは自分の手で、レセンドの政敵であるカゼリナ王妃を撃ち落としてしまったのだ。現在レセンドに敵はない。もし国王が死んだら、誰の反対もなく即位である。そんなときに迂闊に戦争などに行っていたら、アルバートの息のかかった者に、戦場で事故に見せかけて暗殺される危険が高い。
 だがアルバートに出兵させるというのも危険だ。迂闊に兵を与えると、奴はそれを私物化して、陽香などそっちのけで王都に攻め込むかもしれない。
 では兵を出さない?───冗談ではない。
 兵を出さなければ、陽香王朝が再興するのも時間の問題となる。こちらも陽香を征服するのにけっこうな犠牲を払っているのだ。それが全て水泡に帰すなどとは、そんな馬鹿な話はない。
 せめて父王が元気であればと考えもするが、言っても詮無いことだ。
 そこまで考えたとき来訪者があった。扉を守る兵士が告げるには、来訪者は意外なというか、ちょうど良いところにというか───アルバートであった。
 おそらく異母弟も斉城陥落の報を聞いたのであろう。
「入れ」
 言葉と同時に入室してきたアルバートは、真っすぐ王太子の座る机に向かって来た。おそらく内心では不快になっているだろうクリストファーは、しかしいつもどおり無表情でさっと場所を譲って退き、レセンドの脇に控える。
 眠っていないのだろうか、顔色が悪い。普段から腺病質そうな眼差しが、今ははっきりと歪められている。傍目にそれと分かるほど、窶れている。
「なんだ、アルバート」
「単刀直入にお伺い致します。───兄上はどうなさるおつもりです。議会にかけるまえに率直なご意見を是非お聞かせください」
 成程、わたしと同じことで迷っていたらしい。レセンドは咄嗟に決断した。迷っていることを知られたくなかったのだ。
「わたしが兵を率いようと思う。勿論議会に通し、父上……陛下が御裁可くださればの話だが」
 アルバートはその言葉に、「へえ」と意外そうな呟きを漏らした。その不遜な態度に、流石のクリストファーも僅かに顔を顰める。昔からアルバートはレセンドに対して敬意など払っていなかったが、一応ガクラータの王侯貴族らしく、表面では取り繕ってはいた。それがここ二、三年で著しく彼の態度は悪くなってきた。
 そう、彼女が私の元に嫁いでからだ。
 ───理由はもう、はっきりした。
 この間殺した囚人の話で組み立てた予想が正しければ、アルバートの態度の変化は説明がつく。
「そうですか───よいのですね?」
 挑戦的にアルバートは言った。「わたしに国を預けても」と。
 その瞳に映るのは、昔は次期国王に対する嫉妬だった。しかし今は純粋な憎しみだ。
「お前ごときに乱されはしない───それにしても随分焦ったものだな、アルバート? お前があいつに気があるのはうすうす気づいていたが、まさか逆上のままに行動を起こすほどとは思わなかった」
 アルバートは何をするにも用意周到だと思い込んでいたから、王太子は当初アルバートの穴だらけの計画の理由が分からなかったのだ。計画に穴があるにも関わらず、調べてもアルバートが計画の準備をしていた痕跡が見つけられなかったのだ。しかしそれも道理、アルバートは何も計画していなかったのだ。あの事件の夜、彼は唐突にそれを思いつき、部下にレセンドの暗殺を命じた。王妃カゼリナに罪を着せることも、有力者を抱き込むことも、証拠を消すことも全て、事件の後冷静になってから考えられたものだったのだ。
「何を───」
「一体、何に対してそんなに逆上したか、ぜひ教えてもらいたいものだな。―――どうせあいつ絡みだろうが」
 ここに至って、初めてアルバートは暗に自分が犯人だということをレセンドに認めた。もう逃れ得ぬと思ったからであろうか。それとも―――。
「あの夜、私はいつものようにあの方を訪ねた───そのときにね。あの人が初めて私の胸で泣いたのです」
 異様に瞳をぎらつかせて、しかし彼は微笑んだ。
「その涙に、すぐさまわたしは決意したのです」
 溺れた、異母弟。
 生まれて初めて、レセンドは彼に対して同情めいた感情を抱いた。
(愚かな………)



 八月末、ガクラータ議会はレセンド王太子の出兵を承認し、ついで国王キーナ三世も病床の中でこれを認めた。彼は四万の軍を率いて陽香の反乱を鎮圧することになった。出国の日を九月四日とする。
 前夜、レセンド王太子はアンザゲット王宮で、戦いの前の宗教的な儀式を受けた。王太子妃であるレイナ=グローヌは勿論、第二夫人のマーサ=リューダも出席した。春陽を含めて彼の四人の寵姫は正式な招待はされなかった。王太子自身が望めば出席しても不都合はないということだったのだが、流石にこの場に春陽を呼ぶほどレセンドも無神経ではなかった。
 ただ、別に春陽はシュナウト宮殿で留守番をしていたわけではない。彼女はアンザゲット王宮の貴賓室を一室与えられて、そこで儀式の終了を待っていた。
 つまり春陽は、出兵前夜の王太子の夜伽をするためにここにいるのだ。王太子が制圧しようとする国の公主が、である。これは余程の悲劇か、あるいは喜劇としか思えなかった。そうなるように、それとなく仕向けたのが他ならぬ自分自身ではあるものの。出兵前夜の相手に春陽を選んだと知ったときの的外れなマーサの嫉妬が、何だか今の春陽には滑稽だった。
 王太子は今夜この王宮で過ごし、翌朝に正門から民衆に送られそのまま出兵する。この夜を逃しては、何カ月も春陽と会えないことになるので、可哀想だと思いつつも王太子は春陽に伽をさせることに決めたのである。
 レセンドを待っている春陽は、長椅子にゆったりと坐していた。けれどけっして心穏やかではない。そして、花鳥。春陽と花鳥のふたりだけ、この部屋にいる。
 まだ二十にもならない娘二人の、密やかな戦い──その前の最後の時間。
 花鳥はことことと音を立ててカップに紅茶を滝れた。カタンと春陽の前に置かれ、その微かな音に部屋の緊張した空気がひび割れる。
 全身の血が沸騰するような、あるいはきりきりと心臓が締め付けられるような、奇妙な興奮が静かに春陽を襲った。
 彼女はさまざまなことに想いを馳せていた。思考は乱れがちでひとつのことを長く考えてはいられなかったが、それらはとても鮮やかで。
(兄さま………)
 春陽はきゅっと己の手首を掴み、それがきちんと巻かれていることを確かめた。こちらに来て初めて身につける冷たい石の感触に、瞳を閉じて、唇を噛む。
 帰りたい。還りたい。
 切なくそれを思うが、春陽の瞳は濡れはしない。
 長い時間だった。
 花鳥は春陽の髪や衣装を整え、春陽は努めて冷静になろうとした。
 どれくらいのことだったか。
『姫様』
 叩扉とともに声がした。エーシェである。
『王太子殿下がお部屋にお戻りあそばせました』
 何も知らぬ無邪気なエーシェの声が、春陽に決意を促した。春陽はこの少女──とはいっても年上なのだが──の好意を裏切ることをいつも後ろめたく思っていたが、覚悟を決めた今はもう心が揺れることはなかった。
 花鳥は静かに春陽の前に立ち、小刀を手渡した。皇家の紋章が入ったそれは、朝楚人の楽士が緋楽から預かってきたものだ。春陽はそれを懐に収め、きつく花鳥を抱き締めた。
 花鳥の瞳から初めてぽろぽろと涙が溢れた。だが花鳥は自分からやんわりと身体を引き剥がし、腕を交差させて胸に添えた ―――永遠の別れ。
『姫様?』
「もう少し待って」
 反応がないことを不審に思ったエーシェの問いに春陽はそう返し、再び花鳥に向き直った。
 手を伸ばし、花鳥の涙を拭う。
「死んでは駄目」
 花鳥の瞳は驚きに目を瞠られた。彼女は女主人が敵国の王太子の部屋に向かった後、一足先に自決するつもりだった。春陽の死など見たくないから。
「緋楽姉さまは、この懐剣と共に、ガクラータから脱出する策も下さったわ。わたくしはそれを選ばなかったけれど、あなたまで従う必要はないわ―――お帰りなさい、陽香へ。」
「けれどっ」
 声は飛び出したものの、嗚咽となってまともに言葉を紡げない。
「ああ、ああ、こ、公主さ、まっ」
 春陽はただ一人の友人に微笑んだ。
「そしてわたくしの言葉を、伝えて」
(花鳥、あなただけでも生きて)
「―――わかりました」
 花鳥の瞳は覚悟に染まって、揺れがやむ。
「何か伝えるお言葉は」
 春陽は、数秒間、唇を閉じた。思案するような間が流れた。
 たった一つの言葉しか、春陽には思い浮かばなかった。多くの言葉を知らぬ、幼子のように。
「“愛してます”」
 花鳥は深く頷いた。けれどそれは春陽を安心させるためのものだった。独りで生き延びようなど、けして彼女は思っていない。ただ、死ぬ前に遺言だけは陽香に届けよう。
 春陽は静かに裾を捌いて、ようやく部屋の外に出た。
 待ち侘びていたエーシェはほっとした。前回のように行きたくないとでも言い出すのではないかと思っていたのだ。しかし、彼女は出て来た春陽の表情を目にして言葉は出なかった。
 その時の春陽の姿は、いつまでたっても鮮やかにエーシェの心に残ることになる。
 肌はうっすら蒼褪めて、唇も色を失い引き締められ、瞳は異様な勁さに輝いていた。背筋をすっくと伸ばし、何にも負けまいと毅然と立つさまは、凄絶なまでに美しかったのである。



 酷いことをしている、と王太子は自覚していた。祖国を攻め入る者の夜伽をさせているのだ。
 柔らかな絹の褥の中、腕に収まる娘の艶髪に触れながら、レセンドは問うた。
「どうしてあの晩、わたしの元へ来なかった?」
 問わないでおこうと思っていたその話を今蒸し返したのは、問わずには戦いに集中できない気がしたからである。だが春陽は彼女らしくなく視線を逸らし、お答えできませんと言って瞳を伏せた。
 沈黙が降りて、レセンドは苛立ち始める。
 祖国の恋人を今も想い続ける春陽。
 彼は執拗に春陽の髪を梳き続ける。それが子供じみた行為だという自覚もなしに。
 しばらくして気がつくと、娘の双眸は完全に閉じられている。
「眠っているのか………?」
 応えはない。安らかな寝息だけだ。
 無防備に晒された姿態に王太子はつかの間見入り、顔を近づける。



 その頃、第二王子アルバートもまた王宮の貴賓室にいた。寝衣に身を包んでいるものの、眠る様子は全くない。彼はただ待っていた。
 酷薄に口元は歪められ、しかし瞳は落ちつきなくぎょろぎょろ動く。人と名乗る資格が理性だというのなら、それを手放そうとしているわたしは何になるのであろう?
(あの女は信用できるのか)
 今まで幾度となく繰り返した自問自答。
 女──春陽公主がアルバート王子に接触を持ったのは昨日のことである。
『レセンド王太子を殺したいということではわたくしと貴方では利害が一致するわ』
 今までアルバートは、春陽は全てを諦めきっているのだと思っていた。無論、その誇り高さは知っていた。この国を、特に父王と兄王太子を憎んでいるだろうことも。だが、復讐を望むには彼女には力がなく、また彼女がレセンドと夜を共にするのを拒否していないことから、アルバートは勝手にそう思っていたのだ。
 だがそうではなかった。彼女は殺意を隠していた仮面をかなぐり捨てた。素顔のあの女は、暗い世界を知る者であった。
 人を手にかけたことのある女だ。
 流石に彼も、春陽自身が剣を持って人を殺したとまでは思いもよらなかったが、春陽の別の一面に触れた今、彼はそれを確信する。
『わたくしは兄皇子の反乱を成功させたいの。憎んでいるレセンド王太子が死に、ガクラータ王国が混乱して出兵が遅れたら、復讐にもなるし、祖国のためにもなる。一石二鳥でしょう? 対する貴方は、別にわたくしの国などもうどうでもいい筈。貴方が望むのはレセンド王太子の死と玉座。ならば躊躇することなど何もない』
 丁寧な口調であったが、台詞自体は家臣に命じるかのようである。
 春陽がアルバートに求めたのは、少しの時間でよいのでレセンドの部屋の衛兵を省くことと、春陽がこの王宮でレセンドに侍るよう、それとなく仕向けることだけだ。どちらもアルバートには簡単なことだった。
『わたくしが成功しても失敗しても貴方に累が及ぶことはない』
 婉然と微笑む。
 ───この毒婦が。
 胸の中で罵りながらも、アルバートはこの提案に乗った。罠かと考えないでもなかったが、それにしては春陽が突き付ける要求は証拠になり得なさすぎる。それに己の死をも覚悟した春陽の瞳に嘘はなかった。第一アルバートは、一刻も早くレセンドを殺さないといけない理由があった。自分があの襲撃事件の犯人である証拠を掴まれつつあると、彼は知っていた。
 アルバートにしてみれば成功したら儲け物、失敗しても自分には関係ない。もしも春陽が殺すことに失敗しても、少しでも異母兄が傷を負ったならこっちのものだ。治療と称して毒を塗りこめばよい。
(出来ればこの手で殺したかったが………)



 夜のシュナウト宮殿を歩く娘がいた。黒の瞳と髪、そして褐色の肌を持つ、あきらかに異国人の娘である。
 花鳥は春陽からの使いだと言って中に入ったが、しかし春陽の部屋ではなく、薔薇園に向かう。夜の薔薇園はただでさえ警備が緩いのだが、今日は王太子が不在で、しかも明日出兵ということで王都中が沸き立っているため、花鳥を遮る者は存在しない。
 建物から出て、数ある庭園を走り抜け薔薇園を目指し走っていた花鳥は、急に背後から誰かに腕を掴まれた。
「なっ………!?」
 悲鳴を上げそうになった花鳥を、腕の主は彼女の口を押さえることで黙らせた。男の腕である。
「………緋楽公主の使いの者だ!」
 圧し殺した声は朝楚訛りのある陽香語だった。花鳥ははっとして振り返り、肩越しに男の顔を見た。確かに緋楽公主からの手紙を春陽に届けた男である。名を垣堆(とうつい)という。彼とは何度か連絡を取り合っていて、春陽に皇族の紋の入った小刀を持ってきたのもこの男である。  安堵して花鳥は肩の力を抜いた。
「公主は? ―――やはりお戻りにはなられないのだな………」
 男はある程度予想していたようだ。
 この朝楚人の楽士は、緋楽にその才能を見いだされ五年前から彼女に仕えていた。彼はそのことに恩を感じていて、陽香と朝楚の同盟が破棄された後も自国を裏切ってまで緋楽の側にいたのだ。今回その忠義を見込まれ、緋楽に間者になることを頼まれたのだ。
「だがお前さんは陽香に帰るんだろ? 早く―――」
「わたくしは帰らない。公主さまを置いてゆくなんて考えられない」
 男は怪訝な顔をした。
「なら何だってここに来たんだ?」
 心配そうに尋ねる男の好意を花鳥は嬉しく思った。ガクラータ王国にもエーシェのような者がいるのと同じように、朝楚にもこの男のような者がいる。
「わたくしは生き残れば一生後悔するわ―――ここに来たのは、公主さまの遺言を届けて欲しいからなの」
 男に悲しげな色が浮かんだ。だが、男は余計な事は言わず、ただ義務感のみで尋ねた。
「誰に?」
「おっしゃらなかったわ。けれど緋楽公主さまに言えば分かる、きっと。だから違えずに、届けて」
 本当は、花鳥にはその相手が誰か知っていた。春陽は口には出来なかったが、花鳥にはきちんと伝わっていた。
「遺言は ―――“愛してます”」
 それから花鳥はふっと微笑んだ。
 この誠実そうな朝楚人の男に、何もかもを語りたいと思った。生きている間、けして誰にも言うことを許されなかった想いを。
 最期に会った人に告白するくらいは許されるだろう。
「本当わね、わたしはここの国の王太子の命なんてどうでも良かったの。ただ公主さまには自由でいてほしかった」
 朝楚人の男は困惑していた。
「だがその結果、王族殺しの罪で公主は極刑になるんだぞ」
 そんな男の言葉にも、花鳥は笑みを消さなかった。
「………公主さまに生きていてほしいと思う以上に、あの方には思うまま生きてほしかったの。その結果、公主さまが亡くなられたとしても。わたしはね、きっと公主さまを愛していたんだと思う」
 そういい終えて一呼吸入れると、花鳥はゆっくり瞳を閉じた。
 男ははっとした。
「………やめっ!」
 止める隙もあらばこそ、男の目の前で彼女は隠し持っていたナイフで喉を突いた。



 夜が深ける。
 濃い闇が王都を包む。
 幾人かの想いが交錯して、きっと夜明けとともにここも混沌となる。
 ―――彼女はゆっくりとその身を起こした。
 かなり長い間眠ったふりをしていた。レセンドはけして自分より先に眠らないからだ。
 レセンドはしっかり瞳を閉じていた。そういえばこの人の寝顔を見るのは初めてだと気づく。
 まだ彼の感触の残る唇に手をやると、かさかさに乾いていた。
 春陽は寝台から降り、その下をまさぐって隠しておいた小刀を取り出した。そして鞘から刃を抜く。鈍く光る刃面に映る己の顔は、見慣れたものではなかった。
 何処までも沈みゆく想いのまま、彼女は溜息をつく―――わたくしはこのような表情をしていたのか?
 春陽は静かにレセンドに覆い被さった。彼女の黒髪がさらさらと白皙の頬に落ちる。
 逆手に柄を握り締め、春陽は刹那、息を止める。
 喉に向かって振り下ろした。
 ―――どんっ!
 次の瞬間には春陽の身体は寝台から転倒していた。華奢な彼女はあっさり床にしたたか打ち付けられる。
 彼女はすぐに状況を把握した。レセンド王太子が実は目覚めていて、春陽を跳ね飛ばしたのだ。
 春陽が立ち上がる間にレセンドもまた寝台を抜け出す。
 両者の顔はともに青白く、交わした視線には驚愕があった。しかし呆然としたレセンドとは対象的に、春陽は素早く彼の懐に入った。
「っ!?」
 続いて繰り出された鳩尾への蹴り。レセンドはこれを、辛くも両腕で防ぐ。長年の経験からくる反射の賜物か。
「つぅ…っ!」
 しかし細い脚が繰り出したとは思えぬ重さに声をあげる。春陽が体勢を低くすると鋭くレセンドの足を掬う。踏鞴を踏んだ彼を、立て続けに春陽は信じられないバネで立ち上がって殴りつける。そしてとどめに小刀で襲いかかろうとして―――ぴたりと春陽は攻撃をやめ、大きく後方に飛んだ。
 一瞬にして王太子は隙をなくしてみせたのだ。彼は不造作にテーブルに手を伸ばし、己の剣を取った。そしてすらりと鞘から片刃の剣を抜く。
 苦々しくレセンドの銀の瞳は春陽を射た。拍子に春陽の細い手首に巻かれたものが目に入り、レセンドは何故か苛立ち、ますます神経を尖らせた。
 二人に言葉はなく、感傷すら許されぬ緊張のなかに立つ。
 胸中で彼は呟く。
 どこまでも暗い想いで。
 ―――どうして束の間とはいえ、わたしは幻想など抱いたのか。
 現実は揺らぐことなどないというのに。
 それでもレセンドには春陽を殺すつもりはなかった。また、衛兵を読んで彼女を罪人にするつもりもない。今まで通り何もなかったように春陽を側に置くため、彼は春陽の動きを生きたまま拘束しなければならなかった。
(適当に追い詰めて、自決せぬように気絶させるか………)
 彼女が多少の武術を学んでいることは、さっきの動きで明白だった。だからこそ彼女の気は、あれほどまで凛と引き締まっていたのか。
 全ての表情を消し去った春陽が動き始めるまで、彼はじっとその黒曜石の瞳を見ていた。
 唐突に春陽は動いた。
 予備動作なしに、回し蹴りを仕掛ける―――ように見せかけ、実は側に飾っていた花瓶を顔面に投げ付ける。しかしレセンドは驚いたもののなんとか避けて、今度は自分の方から春陽の腹部を狙う。峰打ちではあるが、躱せる間合いではない。彼は一瞬倒れ込む春陽を想像した―――躱したっ!?
 苦しい体勢ながら逃れた春陽は、そのまま小刀でぶすりとレセンドの大腿を刺した。
 瞬間、王太子を貫く激痛。
「 ―――よくも、わたしに………っ!」
 しかし誇りが彼に悲鳴を許さず、その叫びは圧し殺されていた。先ほどの一撃で完全に体勢を崩して倒れ込んだ春陽の顔面を、彼は無事な方の足で蹴り突けた。堪らず転がったのを確かめて、忌ま忌ましげに彼は突き刺さる小刀を、血が失われるのを承知で抜いた――― 噴きだす赤。
 彼は自分が娘を侮っていたことを悟った。殺す気で相手をしなければ、自分が命を落とす。
 しかし――― 。
 無駄な動きなく、素早く立ち上がった春陽は足を踏み込む。最後の切り札として隠し持っていた毒針を持った右腕がうなり、躱せなかった王太子の二の腕に突き刺さった。わなわなと腕全体が震えだし、彼は剣を掴めなくなり取り落とした。

 ―――わたしがこの娘に剣を振るえるはずがないのだ。

 自嘲して、レセンドは間近に迫っていた春陽の顔を見た。
 ゆらゆらと揺れる蜀台の火に照らし出されるその姿。
 なんて美しい少女なのだろうか。
 死を覚悟したレセンドは、素直に胸中で感嘆した。
 彼女は、かつて朝の薔薇園で微笑んだ姿が一番綺麗だと思っていた。
 しかし、今の冷たさしか浮かばぬ彼女は、なんと生々しく凄絶な美しさであろうか。

 ―――春陽。




「え………?」
 呆然と春陽は動きを止めた。自分の意志でなく動けない。
 あたかも床に縫い付けられたかのように。
 目の前では敵が血を流しているのに、何故わたくしは悠長に、彼が武器を失い腕を庇うのを見ているのか。
 初めて春陽に躊躇いが生じた。―――否、初めてではない。
 もう自覚してしまえば、自分自身への偽りなど意味を成さない。
 わたくしは。
 突然止んだ攻撃に王太子は顔をあげた。何故、とどめの一撃がこない。
「 ―――どうした」
 低く呟いた問いに、返ってきたのは質問とは食い違った台詞だった。
「貴方がわたくしを愛さなければよかったのに」
 仕向けたのは自分の方からだ。それは分かっている。それでも春陽はそう思わずにはいられない。
「少なくとも本気で挑んできたのなら、わたくしも貴方を殺すことを躊躇いはしなかったのに………」
 自分の凶刃を前に、むざむざ立ち尽くしたレセンドの絶望が理解ってしまった。
 春陽もまた絶望した。そのなかで駆けた想い。
(彼にはわたくししかいないのだわ………)
 けして自惚れではなく、すでにそれは事実だった。
 愛されることには飢えていないというレセンドの言葉を、春陽はずっと疑っていた。それは本当の愛を知らぬゆえの傲慢であると。しかしあるいはそれは正しいのかもしれない。
 寵姫たちから愛され、己に忠心を捧げる腹心を得ながら、今彼は脆い。―――彼には他者の愛など必要ではなかった。
 愛することのできる者にこそ飢えていたのだ。
 誰に対しても本気で愛することができぬ己を知っていたから。本当に執着できるものを持てずにいたから。彼が自分の周囲に好みの女性を侍らしたのはそのため。彼は誰かを愛したかったのだ。
 春陽はレセンドに歩みより、膝をついている彼の目線に合うよう、自分もしゃがみこんだ。そして彼の頬を両の手のひらで包みこむ。
「春陽………?」
「わたくしだけなのね………」
 わたくしだけが唯一。
 初めて愛することを覚えた彼はひどく不器用で。
「お前だけだ」
 否定しない。朦朧とする意識の中で、しかし本能が、否定するなと叫んでいた。
 どうして否定できる?
 自分を誤魔化し、心を護ってきた鎧は根こそぎ剥がされてしまったというのに。 
「殿下」
 春陽は、そう呟いたまま、次に紡ぐべき言葉を持たなかった。 
 王太子への自分の想いがけして恋ではないことを公主は承知している。彼女が異性として愛するのは兄皇子以外なく、王太子に兄へ抱くような甘やかな感情を持つはずがないのだと。 
 これは同情でしかない想い。自分の持つ大切な全てとは、天秤に掛けてみることすら値しない。―――なのに。 
 長い、深い沈黙のなか。ただ近い距離で見つめあう。
 静かだった。胸が苦しくなるほどに。
 レセンドはけして助けを呼ばなかったし、春陽は人払いをかけていた。
 誰も駆けつけてこない。
 けれど、と春陽は狂わんばかりに願う。
 誰か来て、と。
 誰かわたくしを捕らえて―――わたくしが裏切りの罪を犯す前に!
 その祈りが通じたのであろうか、扉の外の廊下からこちらにやってくる一人の足音。
 春陽はぼんやりとしていた。
 本当は王太子の骸の隣でこの音を聞くはずだったが、もうどうでもいい。
 どうでも。
『兄上、少しよろしいですか』
 侍女や衛兵などではなかった。しびれを切らしたアルバート王子が様子を見に来たのだ。
 ああ。
 救われた想いで、春陽は思った。

 彼がこの人を殺してくれる。

『入りますよ』
 返事を待たずに強引に扉を開いたアルバートの前に、惚けた公主と血まみれの兄がいた。―――兄は死んではいない。
(所詮、女のやることか)
 だが、レセンドは確かに負傷している。これを、治療を称して毒を刷り込み、亡き者にすることは出来る。
 内心で考えていることを隠して、アルバートはぎょっとしたふうを装い、次に燃えるような瞳で春陽を睨めつけた。
「この毒婦、よくも兄上を………! だがわたしが来たからには………」
 白々しいアルバートの言葉に、強い声が重なった。
「殺れ」
「あ、あにうえ!?」


「殺れ」


 刹那、冷水を浴びたかのように意識が鮮明になる。
 床に落とした血塗れの小刀を引っ掴むと、ひどく動物的な動きで飛び掛かる。アルバートの心臓、ただそれだけを狙って春陽が!
「 ――― 」
「…………」
 二人は扉の前で倒れ込んだ。数秒の沈黙があって、春陽だけが立ち上がった。脂汗が額に浮かんでは滴った。勢いよくアルバートから小刀を引き抜いても、血は噴き出さない。
 ―――即死だった。
 そろりと顔を動かした王太子は、虚ろに弟王子の死に顔を眺めた。そして不意に涙が溢れていた。
 驚きとも喜びともつかぬ感情に酩酊して、泣きながらふらふらと立ち上がる。少女の優しい手のひらの感触はまだ、頬に残っている。
 自分を春陽が選んだ。
 自分は哀れを催されるほどに情けなく、少女はそれに同情しただけ。
 それでもレセンドは春陽の腕を得ることが出来たことを喜んだ。
「わたくしは………なんてことを―――!?」
 我に返り、春陽はやっと悲鳴を上げた。とうとう自分の手で全てに決別してしまった。王太子とともに在ることを選んでしまった!
 なんて恥知らずな………なんて裏切り!
 今更、そうでなかった過去には戻れない。
 それはどれほど願おうとも手の届かない高みとなってしまった。
 国と国を託した人々のことだけを考えた、あの誇り高くあれた日々はもう過ぎた。わたくしはけして贖えぬ罪に手を染めてしまったのだ。
 父上の、炯帝の娘だというのに!
 後戻りは出来ない。
 母国語で絶叫する春陽に、レセンドは歪んだ笑みを浮かべ、身体中があげる悲鳴を無視して近寄った。
 春陽の苦しみなど、関係ない。わたしの心には響かない。わたしの心を揺さぶるのは、彼女がわたしの傍らに留まったという事実だけ。わたしを憎まなかったということだけ。わたしから離れぬというのなら、他は全て瑣末なことだ。
「わたしの妃となれ………」
 掠れも途切れもしないしっかりとした声だった。図らずともそれが、父帝が母親に言ったのと同じ台詞であったことを春陽は知らない。
 それは命令であり懇願だった。
 あるいは―――激情のままに春陽は叫ぶように強く己に反問する。あるいは、二人の間で交わされた初めての愛の言葉とでも?!
 王太子は求愛の返事も聞かず、これからのことを朦朧と指図すると、静かに意識を手放した。
 春陽は低く呟く。
「貴方がそうおっしゃるのなら、わたくしは従うだけ………」
 衛兵が遅らばせながら駆けつけたのはこの頃である。



*     *     *



 アルバート王子殺害の犯人が、レセンド王太子であることが正式発表されたのは、事件から五日後のことだった。
 王太子は、正当防衛の結果だと釈明した。
 それを裏付けるため王太子は、以前自分が襲撃された事件の黒幕がアルバートであるという証拠を提出したのだ。出兵前夜、この証拠を元にアルバートを問い詰めたところ、進退窮まったアルバートは逆上し、剣を向けた。応戦するうちに、謝って殺してしまった――――この王太子の主張は現在審議中である。
 当然出兵は延期された───結果的には春陽が当初望んだ通りに。
 発表された日の夜、春陽は露台に立っていた。
 夜の帳の降りた世界は、常に変わらぬしじまを保っている。
 こんな日でさえ。
 春陽の黒曜石の瞳は、あらぬ物を見つめ、薄い紗がかかるように曇っている。
「花鳥が死んでしまった………」
 呟きは、ひび割れ。
 花鳥は、初めて命令を違え、シュナウト宮殿で自害した。春陽は、己の更なる罪を知ってしまったのだ。
 わたくしが殺した────死ぬことなどなかったのに。こんな愚かなわたくしのために!
 花鳥だけではない。みんな裏切った。
 わたくしの世界の全てだった貴方をも。
 ───貴方を!
 胸の中に汚れたものが注ぎ込まれ、満たされてゆくのが分かる。
 もう戻れず、堕ちたままわたしはゆくだろう。
 科せられたものを捨てた自分が恐ろしく、震えた身体を抱き締めたまま立ち尽くす。
 黒曜石の瞳を伏せて、彼女は小刀を掴んだ。
 ばさり。
 艶髪が断たれる────それは決意。
 何もかもから決別するための。




       夏の夜に月が咲き、少女は静かに禁じていた涙を零す











(春陽の章・了)








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