春陽の章 [5]





 こつこつこつ
 重苦しい静寂のなかで響く靴音。それは地下の牢獄に降りてくる、貴人のものである。
 黴臭く、息をする度に埃を吸い込んでしまうような、不衛生で陰気なここは、しかし死臭が漂うことはない。政治犯を主に収容していたかつての王宮内の地獄牢も、国王夫妻が新しい王宮──アンザゲット王宮に移り、ここが王宮ではなくなった現在では、機能しなくなったからである。
 しかし三日前の早朝に、この地獄牢に久しぶりの例外が入獄してきた。それは、痩躯ながら鍛えられた身体を持つ、壮年の男だった。囚人は、階上から降りてくる足音に耳をそばだて、ゆっくり吊り型の寝台から身を起こす。
 世継ぎの王子の命を狙った咎で掴まった囚人にしては、男の半裸の身体に鞭打ちの痕一つなかった。しかも動きを封じるものは足枷のみで、石壁に囲まれた内ではあるが、動きの自由があった。食事もまた、堅いパンながら貧しい農家の食卓よりはマシなものが与えられている。
 また、あの方が来るのか。 囚人は、苦汁に満ちた表情で、鉄扉の小さな窓を見た。
 捕らわれた当初は拷問を覚悟していた。しかしそれは行われず、裁判もなく早々に処刑するつもりかと思えば、その様子もない。しばらくして、この牢獄があるのはアンザゲット王宮の中ではなく、シュナウト宮殿の地下だと知れた。
 あらゆる政治犯は王宮に収容される筈である。何故、王宮ではないのか?
 そんな囚人の疑問は、自分が殺そうとした相手の訪れによって、解消した。
 王太子を襲撃した三人組のなかで、彼は頭であった。レセンド王太子は、生存した二人の襲撃者のうち一人はアンザゲット王宮に差し出したが、リーダーということで最も重要である彼を、表向きは取り逃がしたと偽って、自らの宮殿に隠してしまったのだ。
 もちろん、この行為は違法である。下手をすると襲撃自体が、誰かを陥れる為に仕組んだ王太子の狂言ではないかと疑われかねない。特にアルバートは、ここぞとばかりに責めたてるだろう。しかしアルバート王子が黒幕だという証拠を手に入れたい王太子としては、危険を冒してまでも襲撃者をアンザゲット王宮に素直に引き渡すわけにはいかなかったのだ。それは、王宮での審問が、アルバートの策略によって正しく行われるはずがないことを知っていたからである。
 ぎいっ
 鍵を下ろす音の後、鉄扉が開き、囚人は顔を上げた。
 入ってきたのは、やはりレセンド=シュリアス=ベクス=ガクラータであった。彼は数人の供を外に待機させて、なかに入ってきた。
「また………いらっしゃいましたか」
 彼の威圧にのまれないようにと、先に声を発したのは囚人だった。
「お前が全てを吐くまではな」
 穏やかな口調ではあったが、王太子の整った冷たい容姿とあいまって、囚人は恐れを増幅させた。冷や汗が浮かび、囚人は細く息を吐く。たかだか二十近くも年下の者であるというのに。
(アルバート王子とは格が違う)
 あの嫉妬で凝り固まった男とは。
 萎縮する囚人を、人の上に立つように生まれついた勝者は嘲った。
「主人選びを誤った時点で、お前は人生の取り返しはつかなくなったのだ。ならばいい加減に諦めればいいものを」
 王太子は囚人に、アルバートが本当に犯人か、とは確認しなかった。彼にとっては、それは疑いようもなく確信できる事実であるらしい。囚人はそのことにこそ、強い敗北感を抱いていた。
「何を言われるのですか。確かに俺は主人を選び損ねました。しかし自分の命までを諦めるつもりはございません」
「わたしはお前に約したはずだが?──お前が全てを詳らかにすれば、無傷で釈放すると」
「出鱈目を言うなぁっ!!」
 即座に反応した囚人の声は、絶叫の一歩手前だった。誘惑の揺れた己の心を隠すための言葉だった。
 全てを語り、用なしとなれば、口封じのために殺されるだろう。安心させておいて、手のひらを裏返す。よくある手だ。
 しかし信じたくなる。
「嘘ではない。その証拠にわたしはお前を苛まぬだろう?」
 レセンドの台詞に、騙されてはならないと囚人は口をつぐんだ。レセンドはその様子を、別段に焦れるふうでもなく眺める。
 ───成程、さすがにすぐには信じてくれぬか。
「仕方ないな。どうやらお前自身の命の保証だけでは、足りないようだ」
「そうではなく………っ!」
 思わず囚人は声を上げていた。条件に不満があるのではなく、その約束が守られるかが信じられないのだ。
 王太子にとって、情報を引き出し終わった自分は、単なる用なしどころか、はっきりと厄介な者となる。けっして存在が露見されてはならない、しかももう用済みの囚人に、王太子が慈悲をかける理由など存在しないのだ。
 だから囚人は容易く騙されぬよう、頑なな態度を見せる。
 レセンドは、しかし囚人の声が聞こえなかったように続けた。
「ならばこうしよう」
 極めて、簡潔に。
「お前が今日中に全てを語らねば、お前の帰宅を待ち望んでいる幼い娘を強姦して殺す」
「………っ!?」
 何の表情の変化もなく――いや、目元だけは酷薄な色を浮かばせて言い切られ、囚人は怒りのあまり絶句した。知らずに握り締めた拳をぶるぶると震わせ、口唇を戦慄かせる。
「悩むまでもないだろう?」
 さらりと口にするさまは、貴公子そのものであり。
「………ついに本性を現したな」
 唸る囚人に、レセンドは眉をそびやかした。
「人聞きが悪い。これはあくまでも、お前が強情を張り続けたらの話だ。今すぐ全てを語れば、約束どおりお前は自由の身で、もちろん娘にも手を出さない」
「くそ………っ!」
 囚人は奥歯を噛み締めた。
 逃げ場のない二者択一。
 王太子の言葉が嘘か否かは分からない。だが確実なのは、そのどちらである場合も、黙秘すれば確実に娘が死ぬということだ。
 語るしかない。黙っても殺されるならば、語ることで、生き残る可能性に賭けるしかないではないか。
 やがて囚人は、そろそろと口を開き始めた。
「俺は………それほど重要なことは知らされていません」
「いいから、言ってみろ。………そうだな、最近アルバートの元に出入りが激しい者は?」
 囚人は思い起こすように、瞳を閉じた。
 確かに彼はアルバートから何も知らされていなかった。しかし、彼はただ一時的に雇われる傭兵ではない。下級の下級ではあるが、一応貴族であったし、一度は王立軍に所属していた身だ。今は故あってアルバートの下についたが、盲目的に命令を聞くなど、彼には出来ないことだった。彼は自分なりに主人のやっていることを注意深く観察していたのだ。
「………外交官のロバート=セルシー卿。枢機卿のシザー=レイク。同じく枢機卿のモーチィマー=カリエ………俺が名前を知るのはこれくらいでしょうか………?」
(枢機卿?………教会が絡んでいるのか?)
 いや、そうではないだろう。アルバートが個人的に抱き込んでいるだけだ。しかし流石と言うか、枢機卿でも中々に力のある者を引っ張り出している。
「王妃を犯人に仕立てあげる工作は?」
「王妃づきの女官に王妃の衣装を着せ、見知らぬ男と密談しているところを別の女官に発見させたり、市民に噂を流したり、王妃に『自分は疑われている』ということを強く意識させ、彼女に不審な行動を取らせるように導いたり………色々やってますね」
 投げやりに囚人はぺらぺらと話す。もうなるようにしかならないのだ。
「では………あの日わたしが、ダン伯爵別邸にいるとは何故アルバートが知った? 否、誰から情報を得た?」
 確かにあそこには陽香公主がいて、王太子は度々通っていたが、あのときの訪問は、彼の急な思いつきだったので、深夜に先触れもせず行われたものだった。前もって王太子がこの時間にここにいる、ということを知っていた人間は皆無だ。
 ならば、彼の急な予定変更に素早く対応できる密通者がいたということになる。ダン伯爵別邸の者、という線もありえるが、考えにくい。レセンドは毎日ダン伯爵別邸に訪れる訳ではないし、春陽に会いに訪れても、それは短時間のことだ。王太子を殺すために、王太子が訪れる全ての場所に密通者を置いていたら、如何なアルバートとはいえきりがない。となれば一番可能性が高いのは、王太子本人が住むシュナウト宮殿であろう。
 しかしシュナウト宮殿の人間も、ダン伯爵家別邸の人間と同じくらいの時刻に、王太子の予定の変更の報告を受けたはずだから、彼の居場所を知ることのできた人間も限られてくる。なにしろ突然で、しかも深夜だったのだから。
「………残念ながら、存じません。ただあのとき、アルバート王子は外出をしておりまして、突然返ってくるなり、俺に貴方を襲うように命令しました――酷く興奮されていました。なにやら激しているようにも見えましたし、誇らしげなようにも見えました。ただ、情緒不安定なのは確かでした。」
(出掛けていた?)
 あの日、アルバート王子はレセンド王太子よりもかなり早く、宮殿を辞したはずだ。
(……そういえば、ここ最近、アルバートは退廷するのがいやに早いが)
 だいたい、暗殺を突発的に行うということがアルバートらしくない。あの弟は、いくら暗殺の好機がきても、予定外なことが起こる可能性が少しだけでもあれば、実行に移さない。だというのに、今回に限って何故彼は、そのように思いつきのように襲撃を命じたのだろうか。
 情緒不安定――何があった。
 考えこんだレセンドに、囚人は遠慮がちに声をかけた。
「あの、俺にはこれくらいしか知ることはないのですが」
 自分が知る限りのことを全て明かした囚人は、信仰心などほとんどないというのに、サチス神に祈った。
 自分の命を他者に委ねるしかない、不安。
 しかし王太子は言った。
「よく話してくれた。アルバートが廃位になった暁には、必ずお前を自由にしてやろう」
 囚人の顔が、驚愕と歓喜に震えた。
 彼は賭けに勝ったのだった。



 雨が降っていた。
 自国とは違う雰囲気を纏うそれは、彼女の空間と外界を遮断した。
 先程、王太子に与えられたばかりの部屋に入るなり、深い思惟の底に沈んだ彼女は、雨を眺めていた。
(わたくしは立ち尽くしていた。あのとき、彼の赤い背中を見て)
 寒さゆえでなく、震える。
 震えて、自分を抱き締める。
(心が囚われた。彼の死に。彼が死ぬだろうという思いに、すべてが囚われた。わたくしは、)
(―――わたくしは、)
(心の底から。歓喜、したのだ)
 周囲が目に入らないほど自らの世界に入り込んだ春陽に、侍女たちは囁きあって退出した。エーシェもそれに続く。
 ただ花鳥一人だけが、留まった。
 同じ陽香人である彼女だけは、春陽の支えになれたからである。
 二人きりになると、春陽はようやく言葉を吐いた。
「花鳥………」
 微かに震える春陽の細い肩のせいで、花鳥の五感からも雨音は消えた。
 公主はなにかに脅えている。伏し目がちにした、苦しげなその様子は、しかしけして春陽を弱々しくは見せない。
 春陽は強い。何よりも、誰よりも。しかしそれこそが、春陽の不幸ではないかと花鳥は思うのだ。
「花鳥。わたくしは貴女を裏切り続けているわ。―――わたくしは、あの王太子をいつか殺すつもりよ」
「 ――――――っ!」
 けして言うまいと思っていたこと。花鳥が自分から気づくまで、欺き続けようと考えていたことを、春陽はついに告白してしまった。
 春陽は、花鳥が相手ならつい油断してしまう。
 花鳥は驚きの声を飲み込んだ。衝撃が通り過ぎるまでそうした後、ようやく言葉を紡ぐ。
「初めからそのつもりで、公主はこの地へ………?」
「そうよ」
 侍女に眇めた視線を投げて、公主は言う。
「それは、けれど復讐のためではなかった。いえ、もちろん復讐したいという心もあったけれど、復讐よりも、吉孔明兄さまの出兵を手助けすることがまず先決だった。もしわたくしが復讐心に引き摺られて、不用意に王族を殺したなら、本来の目的が達成されないばかりか、ガクラータは逆上して、支配を受けている陽香にひどい仕打ちをするでしょうから」
 静かに花鳥は息を吐いた。そして、公主は言わなかった台詞の続きを先読みする。
「けれど、本当は違った」
「ええそうよ。わたくしは自覚していなかっただけ」
 それは一瞬のことであったけれど。自分でもぞっとするほどに悪意を潜ませて、春陽はレセンドの背中に剣が振り下ろされるのを見ていた。
 そのとき春陽は微笑んだのかもしれない。
 陽香の敗北を決定づけた王太子・レセンドの死を前にし、一瞬であれ、何もかもを忘れるくらい、春陽は歓喜したのだ。
「思惑だとか、理性だとかを無視した、純粋な殺意をわたくしは持っていた。一度は、今は殺さない方が得策だと打算していた相手に」
 あのときのわたくしは、ただレセンドの死を祈っていた。
 死ぬがいい。死んでしまえ。
 自分で恐れを抱くほどの殺意。憎しみ。
 恐れたのはレセンドの死ではなく、それを望んだ自分であったのだ。
 なんと薄ら寒いものを、わたくしはこの身に有していることか。
 自覚した瞬間の薄ら寒い思いを、春陽は忘れない。けして忘れることは出来ない。
 己が清廉潔白な人間などとははなから思ってはいなかった。しかし。
「殺してしまえばいいのです」
 泣き出しそうになりながら、花鳥は言った。
 弱そうに見えて、それでもただの一言も泣き言を漏らしたことのない侍女は、年下の女主人の頭に手を伸ばし 抱き締めた。
「そのようなことで貴女が、他でない貴女がお苦しみになられることはないのです。あの者を殺したいと望む貴女自身の御心は、民の心そのもの。何ら恐ろしいものではなく、むしろ貴いこと。いつでも公主の御心のままに、手に刃を持てばよいのです」
 たとえ、それが陽香に何の利益をもたらさない、自己満足な行為に成り下がってしまっても。そのことにより、ガクラータが逆上しようとも。
 花鳥は、巻き添えで己の命が失われることを恐れない。命を捧げた、己の主人の死すら。
 国に殉じること、それが春陽自身の意志ならば。
 救国だろうが復讐だろうが、公主が選んだ運命ならば。
「………花鳥」
 春陽が哀しく笑うのを、静かに彼女は受け入れる。春陽が、自身の異質さに苦しんでいるのを、幼い頃から見守り続けた彼女だからこそ。
 春陽の何もかもを肯定する。
 毅さゆえの孤独も、その過ちも。
「………花鳥」
 春陽はもう一度、その名を呼ばわる。
「 有り難う」
 貴女がいてくれてよかった、と。



 外にはすでに夜の気配が訪れていたが、昼から振り出した雨は未だに都を濡らしていた。
 気晴らしに散歩を思い立った春陽は、気心の知れている花鳥とエーシェだけを伴い、部屋を出た。
 どうやら春陽のための館が建て終わるまでは、今日から彼女はこのシュナウト宮殿に住むことになるらしい。もうすでに、広い宮殿内で彼女が暮らすことになる区域は定められ、準備も整っている。
 当然ではあるが、その区域は王太子妃レイナや第二夫人マーサとは離れたところにある。
 春陽がこのシュナウト宮殿に住むことによって、人々は緊張を隠せずにいた。
 公的にはこの宮殿の女主人は正妃であるレイナではあるが、事実上この宮殿の雑事に対しレセンドに代わってこまやかな指示を出すのは、ほとんど人々の前に姿を現さないレイナではなく、第二夫人のマーサだった。
 今までは、宮殿はそれで安定を保っていた。レイナは別に、レセンドにふさわしい妻になろうとは毛頭考えていなかったので、マーサを恨むこともなかった。つまり、レイナとマーサは、けして争う間柄ではなかったのだ。
 しかしこの宮殿に、新しく春陽という女が加わり、その安定が崩れようとしていた。春陽はマーサを脅かす。レセンドには春陽の他にも寵姫が存在するが、寵姫にこの宮殿に住むことを許したのは、春陽が初めてだったのだ。もちろん、春陽にはマーサのようにこの宮殿の女主人になることは出来ないが、マーサが彼女に敵意を抱くには十分だった。
 それにしても、レイナ妃殿下はまた無関心を貫くのであろうか。
 エーシェは春陽の散歩に付き添いながら、ぼんやりと考える。彼女は春陽付きになるまでは、レセンドの母親である第二妃ルカのもとにいた。第二妃は、春陽と同じように、エーシェの優しい雰囲気を愛しみ、側に置いたので、エーシェはよくレセンドとその妻たちの話を聞く機会があったのだ。
 第二妃によると、レイナはよほどレセンドの妻になったことが不本意であるらしい。レセンドのみならず、ガクラータ人の前ではけして笑わず、いつも嘆き暮らしているという。それゆえ、自分がレセンドの正妃としての地位を奪われてゆくのを、むしろ望んでいるのかもしれない、と第二妃は言っていた。
 それに、レイナには愛人がいるという噂がある。これは半月ほど前から急に広まったのだが、王太子襲撃事件が起こったため、最近は口に上らせる者も少なくなっているが。
 春陽公主が出席した夜会の日、欠席したレイナは別の男と会っていたというのだ。
(王太子殿下、か………)
 あの怖いお方。あの方の周囲には、幸せがないのだろうか。こうして考えると、彼は不幸せなもので包まれている。
「─────。」
 エーシェがそこまで考えたとき、唐突に春陽が立ち止まった。
 エーシェは不審に思って春陽の方を見る。
 春陽は、一瞬だけだが厳しい目付きをした。
 彼女にとって、今一番会いたくない人物が、前方から供を二人つけて歩いてくる。
 薄い銀の青年。
 彼も立ち止まり、彼女に一言。
「どこへゆくのだ」
 レセンド王太子。
 まるで初対面の日に戻ったような傲慢さで春陽を見、そしてその日よりもさらに余所余所しい雰囲気を羽織る。
「───庭園へゆこうかと。二人のご夫人と鉢合わせてしまわぬように、夜を選んでみたのですが」
 春陽の方は、昼にあった余裕の無さはもう消えている。いつも通りゆったりと返した。
「よろしいでしょうか?」
「レイナは人前に出ることなどないし、マーサは花を愛でる趣味を持たない。いつでも好きなようにしろ」
 春陽とは違い、レセンドの態度は常にも増して、そっけない。春陽はそれを察して、言葉なく腰を屈めると、レセンドの前を通り過ぎた。
 春陽たちが見えなくなった後、レセンドは侍従の腕に支えられた。
 怪我を負った身で独力で歩くのは、彼の精神力を持ってしても、まだ辛い。こんな弱った姿を見せたくはないと思っていた。しかし何故かわたしは、春陽をこの宮に留めた───狂い出す、何か。
 静かに息を吐き出しながら、レセンドは訳も分からず生じた綻びを思った。
 あの襲撃事件により変化を強いられたのは、けして春陽だけではなかったのだ。あるいは、レセンドの方がより、己の心を持て余しているのではないだろうか。
 危うい均衡の本質に、両者ともまだ気づいてはいないけれど。
 初対面のとき、自分は───そして彼女は、お互いを試すために必要以上に冷たい言葉を交わし合った。しかし一カ月以上過ぎた今では、無闇に相手を攻撃することはなくなっていた。それは馴れ合ったのではなく、お互いに置くべき距離が定まった故である。
 それなのに今日、自分はその距離を見失った。
 だが先に常ならぬ反応をしたのは、あの女の方だ。
 春陽の言葉は穏やかであった。口調も変わりなかった。ただ、いつまで経ってもわたしを受け入れない黒曜石の瞳だけは、出会って初めてでさえある、烈しさを見せた。
 それは、よく見なければ静かとも思える───嫌悪。
 彼の国が敗北したときそのままの激情を、あの女は未だに持ち続けているのだろうか。
 明晰であるはずのレセンド王太子は、しかしそんな己の思考の矛盾に気づかなかった。否、気づいたからこそ苦しむのかもしれない。
 ───彼女がそう在ることこそが、己の望みではなかったか?
 王太子に、小さく胸の痛み。



*     *     *



 陽香公主を捕らえる命令を出したのは、本国から派遣された陽香総督のソヴァンス公である。しかし、実際に作戦から実行までの全てを行っているのは、陽香駐屯のガクラータ兵ではなく、同じく陽香に駐屯している朝楚兵だった。ソヴァンス公に、公主捕獲の命令を出すように要請したのもまた、ガクラータ本国ではなく、朝楚国の方からだった。
 朝楚国の中枢では、陽香公主を追うことにかなり執着していたが、ガクラータ王国がそれほど乗り気でなかったので、朝楚がほとんど単独で公主を捕らえることとなったのだ。
 ガクラータ王国の方は、公主の存在を重くみてはいなかった。自国の無力な王女に対するのと同じ気持ちで、公主といえど若い女に何ができるのだ、と考えていたからである。それはガクラータが過去に女王を生み出したことのない国であることも原因していた。世継ぎがあまりに幼い場合に、王妃や王女が摂政をすることはあったが、女王は存在しない。
 しかし朝楚は違う。国民の過半数を占める民族には、母系中心の社会の名残があり、事実、朝楚の現王は女性だ。
 朝楚はこう考えている───もし陽香公主が、まだガクラータ王国に屈していない、有力な領地を持つ家臣を得たら。そして戦いが始まり、援軍として再び陽香に来るだろうガクラータ兵に、一時的にでも勝利したら。四成大陸の他の国々は、勇気を得るだろう。機が訪れたとばかりに、自分たちを脅かすガクラータ王国に対し、蜂起するかもしれない。なにしろ彼らにしれみれば、陽香が支配されつくしたら、明日は我が身である。
 そうなると、真っ先に危険に陥るのは朝楚である。朝楚は、ガクラータ王国の四成大陸進出を助けた。つまり自らの国の安全のために、他の国々を売ったのだ。ガクラータ王国が撤退すれば、怒りは完全に朝楚の方へ向く。
 朝楚は今や、ガクラータ王国に全ての国運を委ねている。ガクラータの保護を失えば、国は滅びるだろう。それを避けたければ、ガクラータを敗北させうるものは、どんな小さな芽であっても摘まなければならない。そして陽香公主こそが、今一番、朝楚にとって恐ろしい存在だった。皇帝になる資格がある者が生きている以上、反乱軍は諦めないだろうから。
 しばらくの探索の結果、赫夜公主らしき女性を連れた一行を見た、という情報が入った。それが斉領と緯択領の境目辺りのことであったので、たまたま斉領で待機していた朝楚兵たちが、捕獲にあたることとなった。
 兵の中でも騎兵ばかりを選び、四十騎ずつ二隊に分けた。合計八十騎。十数人の供しか持たぬ公主を追うにしては、大袈裟な人数といえた。ただ、相手は移動し続けるので、見失ったときのために、念のために二隊に分けただけだ。もう捕らえたも同然だと、誰もが思った。
 そういう事情もあり、朝楚兵たちにやる気はあまりなかった。戦さというのならともかく、少数の供しか持たぬ相手を追い回すだけなのだ。やる気など起きようはずがない。
 二隊に分かれて徹底的に探索した結果、先に赫夜公主を発見したのは、第一隊の方だった。第一隊隊長は、手柄を独り占めしたいがために、そのことを第二隊隊長に知らせず、単独で赫夜公主を捕獲することに決めた。しかし彼らは、発見から現在にいたるまで、三回も襲撃をかけたにもかかわらず、未だ捕獲できずにいた。それどころか、第一隊は手痛いしっぺ返しをくらうこととなった。
 相手は十数人の小勢だと侮っていたのだ致命的だった。赫夜公主の護衛たちは、信じられない程の腕のたつ者たちばかりだったのだ。不意打ちをかけた一回目の襲撃はともかく、二回目の襲撃で十人強の兵を失い、三回目の襲撃が失敗したときには、兵の数は十余騎にまで激減していた。
こうなると、第一隊隊長も自尊心にしがみついてはいられなくなった。ついに第二隊隊長と合流することを選んだのだ。
「早く………早く公主を捕らえなければ………」
 移動用の組立式の天幕の中で、第一隊隊長は苛々と言った。しかし内心では、第二隊隊長と手を組んだ途端に捕獲に成功すれば、自分の面目が丸つぶれだとも思っていた。
第一隊隊長の持つ実力を伴わない野心を、第二隊隊長は敏感に嗅ぎ取って、胸中で嘲笑した。彼は、自分より一回りも年上であるこの男を一目見ただけで、愚鈍な者と判し、それ以来敬意を払っていなかった。
 第二隊隊長自身はまだ青年である。名前を岨礼淨(そ・れいせい)という。
 ───彼にもまた野心があった。
 第一隊隊長などとは比べもつかぬ、正真正銘の野心が。そして彼は、周囲からその野心を悟られないよう、細心の注意をしていた。
「とりあえずは、公主か………」
 公主は現在、明領に入ったという。方向からいって、江洪という村に向かっているようだ。ここまで分かっているのなら楽勝だ。
(そうそう………油断は大敵、だったな)
 どんなくだらない仕事でも、女王直々の命令だ。失敗するわけにはいかないのだ。
 だが礼淨はそう自戒しながらも、仕事の成功を確信していた。
 ───天は旋る。
 この時点でそれに気づけた者はいない。
 このとき赫夜の運命は方向づけられ、朝楚をも巻き込んだのだった。



*     *     *



 いつの間に夏になっていたのだろう、と緋楽公主は思った。
 少し強めの風が吹き、室内から外を眺める彼女の頬を嬲った。特有の鋭い日差しが目を刺す。櫂城の奥まった場所にある自室は快適な温度を辛うじて保ってはいるが、外に出た途端に容赦なく暑さは襲ってくるだろう。
 本当にいつの間に───落都のときはまだ………。
 異母妹たちとは違い、緋楽は精神も肉体もすでに大人の女性だった。生来の性格もあり、あらゆる面において平衡感覚に優れている。しかしその彼女でさえ、胸中で燻る焦りを上手に消化することは出来ないでいた。
 焦り ───そう、焦りだ。
 彼女は焦っていた。赫夜がいつまでたっても到着しないことや、思い通りにゆかない政治的な思惑に。
 公主は、先程までこの場にいた侍女たちの明るい笑顔を思い出した。痛みにも似た想いが走る。そう、自分の周囲が平和だということも理由のひとつだ───不本意ながら緋楽はそれを認める。
 彼女には、自分が生命の危険もなく暮らしていることに罪悪感めいた想いがあった。愚かな考えとは自覚してはいる。勿論、今の平和に慣れて、他の苦しんでいる人達のことを忘れてはいけないが、平和であることに罪を感じるなど、建設的な考えではない。
 そのまま考え込んでいると、門扉の外から兄の声がした。ここは紀丹宮ではないので先触れはなく、また侍女も介せず直接声をかけてくる。
『緋楽、入っても良いか』
 否やがあるはずもないが礼儀で問うてきた吉孔明を、当然緋楽は招きいれようと扉を開いた。そして、彼の真剣な表情に出くわし、当惑する。
 吉孔明は堅い表情をしていた。………良くない報せなのだろう。
 部屋の入り口から、内に足を踏み入れるだけの時間すら惜しみ、吉孔明はその場に立ったまま緋楽に告げた。
「たった今、紀丹宮から特使が来た」
 ガクラータ王国が斉城を本拠地にしているので、ガクラータに代わって朝楚が紀丹宮を管理している。朝楚人の役人たちは紀丹宮から、ガクラータからの命令を、敗戦で一応は服従したこととなっている諸王たちに伝達するのだ。
 緋楽は、兄の言葉を固唾を飲んで待った。
「赫夜公主が捕らえられた―――お前がこの城に居ることも、知られた」
「!!」
 緋楽は、驚愕に声を失った。








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