春陽の章 [3]
湿気を含んだ安っぽいシーツに不意に気づいた。
「殿下」
控えめに、だがはっきりとした男の声で、第二公主赫夜(せきや)はさして心地よいとは言えぬが手放し難い微睡みから引き離された。目を開くと、二十代中盤の体格のよい男が立っている。
頭痛がするのを押して、けだるく身を起こす。身体はいまだ眠りを切望していたが、それでも目覚めぬわけにはいかなかった。
「申し訳ございません」
無骨な兵士は、公主の寝室に立ち入ってしまったことと、目覚めを妨げたことの両方を詫びた。いつ何があるか分からぬゆえに、夜着で牀に入ったわけではないので、特に恥ずかしくもなく、赫夜は頭を横に振った。
「構わないわ。逓雄莱(てい・ゆうらい)といったかしら。後どれくらいで出立するの」
「殿下が朝餉をお召し上がりになれば、すぐにでも」
「そう」
赫夜は自責の念に溜め息をついた。雄莱の言葉で、自分が侍従の者たちの予定よりも多く、眠り過ぎてしまったことに気がついたのである。
紀丹宮が陥落したとき、赫夜は自分がどうやって脱出せしめたのか記憶にない。母・壺帛賢妃桂姫の死に半狂乱となった自分に、周囲はそうとう手を焼いたに違いない。
体力は逃亡の日々に必要不可欠だというのに、不食不眠の日が続いた。だがそんなことが長く続くわけもなく、限界がくると、今度は逆に身体は飽くことなく休息を求めだした。それがまたもや皆の足をひっぱっている。
徒らに身体を衰弱させた自分の愚かさが恨めしかった。しかも情けないことに、指摘されるまで、自分の愚かさを自覚してさえいなかったのである。
赫夜を説得したのが、この雄莱である。彼は半分死んでいるような状態の赫夜を叱咤し、根気強く説得した。おかげで赫夜はなんとか自分の責務を思い出したのだ。生き抜くことを姉や妹に誓った。それは簡単に放棄してよいものではない。
「雄莱――下がって。すぐに階下に降りるわ」
「では」
彼は軽く頭を下げて、女主人に背を向けた。
一人になった赫夜は再び吐息をつく。わたくしは何を、どこまでできるだろう。わたくしにそれだけの力量があるのか。
頼みにしていた斉城は閉ざされ、城下町に入ることも困難だ。斉王である壺帛一族の男はどうなったのか。
何故、真っ先に斉城が閉ざされたのかといえば、ガクラータ王国から派遣された役人たちの拠点として、地理的に最適であったからだ。ガクラータ人の役人は、陽香総督であるソヴァンス公が総括している。つまり現時点での、陽香におけるガクラータ王国の本拠地は斉城であり、紀丹宮ではない。征服された陽香は、斉城にいる陽香総督の手によって動いてゆくのだ。傀儡の新皇帝・那尖などは一応、紀丹宮に詰めているが、それは彼が飾りであるからだ。“皇帝”は政治に関わる必要はなく、紀丹宮の玉座に座ってさえいればいいのだ。
赫夜たちは当初、斉城に身を寄せ、斉王の手を借りて、吉孔明皇子の決起を助けるという予定であった。しかし斉領に入ってすぐに斉城の落城を知り、斉城へ向かうのは諦めなければならなくなった。仕方なく、赫夜たちは緋楽のいる櫂城に進路変化することにし、緋楽のもとに早馬を走らせ、自分たちも櫂領を目指しているというわけである。
斉領から櫂領へ向かう最短の道は大街道であるが、大街道を通るということは当然、都・栄屯を通るということだ。当然ながら、落都の混乱を脱し、警備もきつくなった今となっては、正直に大街道を通るわけにもいかず、赫夜たちは緯択領を経由して、櫂領に行くことにした。
緯択領は河顕山。けして険しくはなく、どちらかというと、なだらかな山ではあるが、その道程の長さと足場の悪さが旅人たちの足を遠ざける。その中腹の岩場に差しかかり、赫夜たち一行は何者かの集団に尾行されていることに気がついた。
追いはぎなどではないことは、すぐに分かった。このように旅人の少ない山に追いはぎがいるとも思えなかった以上に、襲われるのはこれが初めてではなかったせいだった。どうやら旅を続けているうちに、赫夜の正体がばれたらしい。自分たちの守る者の立場を考えれば、犯人は明らかだった。とはいっても、追いかけてくるのはガクラータ兵ではなく、ガクラータの属国である朝楚の兵であった。
初めての襲撃は、緯択領に足を踏み入れたばかりの頃だった。宿で寝静まったところを襲われたのだ。そのときは、誰よりも先にそれを知った宿屋の主人が、身を呈して報告してくれ、刃を交わすことなく逃げることが出来た。だが、すぐに追いつかれて、翌日の午後に二度目の襲撃があった。応戦しつつも馬の脚力に頼って逃げること優先し、なんとか逃げ切ることが出来たが、一五人の護衛のうちの三人が命を落とした。
そして今回が三度目であった。
「くそっ。裏切り者たちめ……っ!」
憎しみを込めた声を上げる兵たち。相手はかつて自国と同盟を結んでいたというのに。
「このままでは囲まれます」
護衛隊長の言葉で、皆が馬から降りる準備を始める。襲撃者――朝楚兵たちは馬に乗っていない。だが、走って逃げようにも、こんな足場では馬は走れない。また馬は臆病なので、戦いの気配を感じただけで恐慌を起こすだろう。ならば、馬上にあることはかえって不利となってしまう。
だが護衛兵たちは、馬から降りるため、食料などの最低限の荷物を解きながらも、襲撃に気づいてないふりをし続けている。この場所で襲われては不利だからだ。
馬を手放すのか。
不安そうに兵たちの様子を見ていた赫夜に、雄莱は馬を寄せた。
「公主。貴女も剣を抜いて下さい」
朝楚兵の数はざっと二十人弱。思ったよりも少人数ではあるが、それでも一人当たり、2から3人を相手する、ということになる。しかも、彼らは公主を護りながらの戦闘になるのだ。ならば最低限、公主は足手まといにならないように、しなければならない。
しかし雄莱の言葉に、赫夜は自信なさそうな表情をした。
「確かにわたくしは剣術の手ほどきを受けました。けれど……」
練習でなら、赫夜はそれなりに器用に剣を扱うことが出来た。身体が弱かった彼女は体力をつけるため、第三公主春陽の剣術の授業に度々同席したためである。
しかしそれを実践で通用させるほど、赫夜は経験も度胸も持ち合わせていなかった。目的が目的である以上、師も赫夜を本気で打ち据えようとはしなかったし、そもそも普段は木刀であり、真剣で遣りあったことがない。春陽のように命を狙われるような境遇でもないため、それで十分だったのだ。
「別に敵を倒して下さいとは、申しません。ですが、貴女が丸腰であるのと、そうでないとでは、想像以上に護りやすさに違いが出来るのです」
「……わかったわ」
蒼白になりながらも、赫夜は首を縦に振った。そんなことは無茶だと叫び出したくなるのを耐えながら。
「囲まれたぞ……っ!」
誰かが一声を発し、それを合図に、全員が馬から飛び降りた。そして次の瞬間には、雄莱は先陣をきって敵兵のただ中に突っ込んだ。
「 ―――っ!」
不意打ちに反応できなかった者を、出合い頭に屠る。わあっと怒声があがり、戦いの火ぶたは切って落とされた。
「公主はこちらへっ!」
護衛兵のひとりが、立ち尽くした赫夜をひっぱって、林の脇道に連れ出した。峨良という、護衛兵の中で、最も強さを誇る男である。彼は戟という、戈(相手の首をかき切る)と矛(相手の胸板を貫く)が合わさった武器を扱うことを得意としていた。
「公主が逃げるぞっ!」
「追えっ!」
「くい止めろっ 公主を護れっ!」
剣戟の音が甲高く鳴る。
呻き声。
「あっ……あぁ」
恐ろしさに足を縺れさせながら、赫夜は峨良にひっぱられ逃げる。護衛兵を突破し、追い縋ってくる者は峨良に首を持ってゆかれた。
生々しい音。血の匂い。立ち上がる土煙。
「どうか公主、お気を強くもって!」
赫夜のまろびるような足取りでは、とうてい敵兵を振り切れない。峨良は焦りながらそう声をかける。
「待てぇ」
「止まれ!」
荒い息遣いとともに、新手の朝楚兵が二人。
(──二人っ!?)
いくら彼でも、わたくしを護りながら、二人同時に相手をすることができるのか……?
ふと掠めた疑問そのままに、敵兵のひとりが斬りかかってきて、峨良と赫夜は分断された。──ばっと、もうひとりの兵に手首を掴まれる!
「きゃあっ!」
あっという間に男の腕の中に取り込まれる。
「公主っ……!?」
峨良が駆け寄ろうとすると、そうはさせじと、さっきの兵が行く手を阻む。じたばたと赫夜は暴れてなんとか自由になろうとする。
「くそっ暴れるなっ……!」
「いやっ。離して!」
いかに非力な女であれ、死ぬ気の抵抗にはそれなりの力が出る。男は僅かにたじろいだ。その瞬間、目茶苦茶に振り上げた赫夜の拳が、偶然に男の右目を殴りつけた。
「っ!?」
男の力が緩み、赫夜はさっと腕の中から逃れた。そして先刻、弾みで落としてしまった剣を拾い上げ、男と対峙する。男の武器は赫夜と同じ剣。峨良が相手をしている男よりも大柄であったが、その分動きが緩慢である。
相手は雑兵である。平生ならば、正統派の剣を学んだ赫夜の方が、技量で十分勝る相手であっただろう。
(わたくしは……っ!?)
自分は人を殺せるだろうか。
縋るように峨良を見ても、彼は彼自身の敵を倒すのに手一杯である。いくつかの傷を与えながら、自身もまた大腿に裂傷を負っている。
(───助けはこない……っ!)
「なるべく殺すな、とは言われているが、殺すなとも言われていないんだよ、このアマ!」
さっきまでは眼を押さえていた男が、朝楚語で怒鳴りながら剣を振り上げる。横薙ぎにきた一閃を赫夜は飛退って躱した。その返す刃で男は赫夜の左肩を狙うが、これも彼女はかろうじて跳ね返す。
速さも上手さもこの男にはないのだ。こんなに動揺している自分を一撃で斬れないなんて。だが分かっていても身体は動かない。焦れば焦るほどに萎縮してしまう。
死ぬわけにはいかないのに!
そもそも、この木が密集した林のなかで、慣れぬ刀を振ったらどうなるのか、想像もしたくない。赫夜の背筋に冷や汗が流れた。惚けた赫夜に男が再び刀を振る。
「公主!」
───え?
赫夜ははっとしたときには、目の前の男が峨良によって突き飛ばされていた。だが峨良自身も男と絡み付いたまま倒れ込む。
峨良は全身で絶叫した。
「公主、わたくしに構わず、早く!!」
お逃げ下さい。
どうやら峨良は先程の戦いに勝利したようである。相手の兵の生死を確かめる暇はなかったが。しかし峨良も満身創痍で、とてもあの無傷の男を相手にできはしないだろうし、しかもさらなる新手が見えてきた。放っておけば、峨良の命はないだろうことが分かる。
分かるのだが。
焦れた峨良が再び促す声をあげる前に、赫夜は全力で駆け出した。峨良が男を押さえきれなくなる前に。次の追っ手が来る前に。
わたくしは遠くに逃げなければならない。
今のわたくしでは、留まって峨良を庇っても、二人とも犬死にするだけになってしまう。わたくしのために命を捨てた人たちを裏切ってしまう。
だから彼を犠牲にするしかない。
(わたくしには無理なんですもの───っ!)
あまりに脇目もふらずに視界の悪い林を走っていた彼女は、傾斜が突然、急になったことに対応できなかった。
「あっ」
前のめりに地面と衝突しようとしたのを、咄嗟に膝をついて回避したが、それでも勢いは止まらず、そのままごろごろ樹木とぶつかりながら、転げ落ちてゆく。
意識が暗転する─── 。
頬を気付けにひっぱたたかれ、赫夜は瞳を開いた。
すっかり河顕山には夜の気配が立ち籠めていた。一体、何刻ほど気を失っていたのか。
赫夜を起こした者は、大きく安堵の吐息を吐いた。
「誰……」
赫夜はやっとのことでそう言った。口内に血の味と、土のざらついた感触が広がる。まだ眼がぼやけているせいと、相手が持つ松明の光りが揺れているせいで、顔が判別できない。
「雄莱です」
そう言われれば、確かに彼だった。逓雄莱は松明を赫夜の方へ持ってゆき、その顔を照らした。
「──痣だらけですね。よく頑張りました」
雄莱の言葉に赫夜は反応する。情けなさが涙とともに溢れた。
「わたくしは何もしてなっ……!」
最後まで言葉にならない。
起き上がれぬまま、赫夜は手で顔を覆った。手が土まみれであることも気にせず、涙を抑えようとする。
わたくしは、本当は戦えるのに、卑怯にも峨良を見捨てた。
怖い、ただそれだけの理由で!
雄莱はうろたえた。
朴念仁の自覚があるうえに、この女性は高貴な方なのだ。自分ごときが慰めるなど、不可能なのではないか。
途方に暮れながらも、雄莱は必死で言葉を重ねた。
「それでも、貴女は逃げ切れたではないですか」
「そんな言葉欲しくない……っ!!」
思わぬ声の強さに雄莱は瞠目した。
「わたくしはっ わたくしは戦えたはずなのに。勝てたはずなのに! 本当なら峨良は死ぬことはなかったというのに。──何故、わたくしは……っ」
嗚咽まじりの悔悟の言葉に、赫夜の力量を知らない雄莱は、仕方ないと思った。
こんな女性が、戦いの場で身を竦ませてしまうのは当然だ、と。
どこか侮りを含んだ、労りの表情に、赫夜の血が沸騰した。
「ふざけないでっ わたくしは戦えるわ!!」
八つ当たりだと自覚しても、止まらない。赫夜はがばっと起き上がった。
後悔などしたくなかったのに。
強くあろうとしたのに、わたくしはどうしてこんなに臆病なの。
武道の素養のない姉ならどうしただろうか。
あらゆる武器を扱い、あらゆる流派を修めた妹なら?
わたくしは。
『陽香の再起を図るつもりはないのですか』
『必ずや陽香を取り戻しますわ……!』
それはわたくし自身の言葉。
それは決心──揺るがぬ思い。
そうだった。わたくしはあのとき。
「公主として護られるだけではいけないのだわ」
さっと頭に芯が冷え、静かに赫夜は呟いた。
「いいえ、公主であることすら無意味。頂点に立つのは、吉孔明皇子。わたくしは捨て駒なのだから」
捨て駒ごときが、何が人を殺せない、だ。
緋楽姉さまの言う通り、わたくしたちはすでに多くの人を犠牲にしてきた。人々はわたくしたちを護るために、剣を握る手を朱に染め、ときに命を奪われたというのに。
当のわたくしが道を切り開くのを恐れていては、顔向けができない。
「───公主?」
勇気と蛮勇の違いを知っていたなら、大丈夫だ。戦える。
「ごめんなさい。当たり散らして。あまりに無自覚な自分に腹を立てていたの。もう大丈夫、落ち着いたわ。それと……」
そう言って、赫夜は微笑んだ。
「赫夜、でいいわ」
「ですが……」
雄莱は困惑しているようだったが、赫夜は構わないと思った。
公主としての地位は、必要ならば惜しみなく利用する。これからもわたくしは護られ続ける。けれど、無意味な護られ方をしてはいけない。護られるためだけに、わたくしは存在するのではない。
わたくしたちは炯帝の娘なのだから。
* * *
女なら、恋仲の男性の温もりに包まれて、目を覚ますことを望むのが、普通だろうか。
けれど叶わぬ望みは空しいもの。
わたくしはそんなこと、願ったりはしなかった。
暁を見ることなく、貴方は帰ってゆく。
引き留めることは許されなかった。彼が命の水を流しに戦地へ向かう日の前夜であってさえも。
けれど、もう二度と会えなくなると知っていたなら、わたくしは彼の腕を離しただろうか。
確かめる術はもうない。
春陽はそっと、隣で横になる男性を見やった。――彼を殺したくなる。
衝動的で凶暴な一瞬。
「眠れぬのか」
いつまでも瞳を開けたままの春陽に、レセンドは声を掛けた。けだるそうに身を起こして、冷たい色の髪をかきあげる。
「殿下こそ」
「お前が眠らぬからだ」
寝顔を預けるほど、わたくしを信用していないのですね、と春陽は内心、皮肉った。
そしてそれは正しい。時期が来たなら、わたくしは何の良心の咎なく、貴方の寝首をかくでしょうから。
「わたくしに構わず、早くお眠りになられるほうが、よろしゅうかと。わたくしはもうしばし、こうしていますから」
「何故」
「夜はいろいろなことを思い出させます。だからでしょうか」
曖昧な言葉。
けれどレセンド王太子には、なんとなく春陽の言うことが理解でき、妙な気分になった。彼もまた、夜に安らぎを覚える者であったからだ。
煩わしい日常と日常の隙間。果てなく静かな天。
「わたくしは暁よりも、夕闇よりも、これほどまでに深い刻を好みます」
恋人同士であれたのは夜だけであったから、夜を慕わしく感ぜられてならない。しかし逆に、人目を忍ばねばならなかった二人の関係や、あの永遠の別離をも、否応なく思い出させる夜は、哀しくてならない。
だから夜はなかなか寝付けない。
レセンドは、そんないつもとは違う春陽の様子を、じっと見つめた。
長い睫に縁取られた、煙るような眼差しは、何を見るのであろうか?
そんな静かな時間を破ったのは、ごく小さな音だった。
小さな、けれど気に掛かる音。
はっとして王太子の方を向くと、彼は春陽の考えを肯定するように、頷いた。彼は内心、春陽の耳と勘の良さに驚いたのだが……。
(これは複数の足音)
春陽は冷静に耳を澄ます。忍び足であったことが、かえって彼女に不審を抱かせた。
──暗殺、という言葉が閃く。
ここは春陽の仮住まいである、ダン伯爵の別邸。しかしダン伯爵自身は、現在領地に戻っている。つまりダン伯爵を狙ったわけではない。となると王太子その人を狙ったとしか思えない。
春陽は、ガクラータ王国に攻められてから、教師に請うて、紀丹宮で学んだガクラータの知識を脳から引っ張り出した。
レセンドは側室の生んだ王子だ。その彼が王太子になったのは、王妃に長いこと子供が生まれず、未来においても子を孕むことはないだろうと諦められていたからだ。
彼は一六歳で立太子すると、側室の王子である、という足枷をものともせず、人々に王太子に足る器であることを認めさせた。レセンドが国王になることを賛成できない立場にある者たちも、しぶしぶ承服していたのだ。
しかし、あろうことか、レセンドが一八歳になった年、突然王妃が懐妊し、翌年に出産した。それが王子であったから、王妃派であった者たちは狂喜した。と同時に、ガクラータ王国は根深い後継者問題に悩まされることになったのである。
普通に考えれば、レセンドは王妃の子供──ランシェル王子に王太子位を引き渡さなければならなかっただろう。国王自身さえ、それを望んでいた。しかしそれを困難にしたのは、国王の年齢と、レセンドの聡明さだった。
現在キーナ三世は五十歳。ランシェル王子は四歳である。まだまだ寿命の短い中世のこと、キーナがどれほど長生きしようと、たかがしれている。ランシェルが成人しないうちに崩御する可能性は大いにある。そのときランシェルが王太子であった場合、この国は少年王を戴くことになってしまうのだ。
多くの敵と、いつ反逆するか分からぬ属国を持つ大国としては、侮られる国王を戴くわけにはいかない。しかも、ランシェル王子がレセンド王太子以上に聡明な王子として育つかどうかは、誰にもまだ分からない。レセンド王太子を越えるのは、ちょっと難しいだろう。
レセンドがいまだに王太子位に留まっているのは、そういう理由だった。
このまま、ずるずるとレセンドが国王になることを、ランシェル側についている者たちは恐れ、焦っている。
王太子が命の危険を覚えるほどに。
「もしこれが、想像どおりに暗殺者なら、足手まといにはなるな」
やっと聞き取れるかという小さな声で囁いて、レセンドは寝台から抜け出した。そしてサイドテーブルに置いていた剣を取る。珍しい片刃の中剣だった。装飾はいかにも美しく、一見して儀礼用に思えるが、実際にはレセンドが一番愛用する、精度のよい剣だった。
解いた髪を再びまとめ、彼は油断なく扉のその先を見つめる。
緊張の十数秒。
───来た。
レセンドと春陽は、ほぼ同時に呟いた。扉がゆっくりと開く。
標的が目覚めていることを暗殺者たちが気づく前に、
「!?」
レセンドはいきなり彼らに向かって短剣を投げる。初めに部屋に足を踏み入れた男が驚愕に怯んだところを、急所である喉元を狙って、鋭く剣を突き出す。男は辛うじて急所を守り切ったが、剣の切っ先が鎖骨を突き、結果、衝撃で骨は折れた。
(さすがに一撃で葬り去ることは出来なかったか……)
レセンドは独り語ちて、剣を構え直した。深追いは厳禁だ。
その頃には事態を理解した、残りの侵入者たちは拡散し、間合いをとりながら室内に広がる。傷を負った男もすぐにそれに加わる。彼らは三人組であった。彼らは三人とも、闇の衣装を纏っている。リーダー格と思われる男は中年であったが、傷を負った男を含めた、残りの二人はどちらも青年のようである。
春陽はふと考える。
レセンドが襲撃者に殺させるのならばそれでよし、もし勝ったとしても。
(この混乱に乗じて、私自身が彼を手にかけるのは、どうだろうか)
証言者になりうる衝撃者たちを全員殺し、王太子と相打ちになったとでも言えば?襲撃者が本物である以上、誰も私を疑わぬだろう。
(ああ、けれど駄目ね)
彼の死は、最大限に利用しなくては。今、彼を殺してもさほどの利はない。多少はガクラータ王国は混乱するだろうけど、今は陽香も混乱しているのだから、やっぱり意味がない。彼の死は、陽香が反乱の準備を整え、ガクラータ王国がそれを制圧しよう、というときにこそ、意味がある。
だから春陽は、この機に乗じてレセンドを葬ることを諦め、なるべく、戦いには加わらないことにした。もしレセンドが意識を失うか、殺され、自分が標的になったなら、仕方なく戦うが、それまでは手の内を隠しておく方が得策だった。
視線を男たちに戻してみれば、ちょうど傷を負った方の青年が、レセンドに切りかかっていた。室内で三人同時に飛び掛かることなどできないので、あらかじめ打ち合わせでもしていたのだろう。
物語ではあるまいし、三対一は容易ではない。春陽自身は切り抜ける自信があったが、それも不意打ちや、騙し討ちを多用しての話だ。いくら技量に優れようと、数に劣る場合はまともに戦えるはずがない。
レセンドは一合目を軽くいなし、二合目はしっかり受け止める。力のない春陽には到底できないことだ。
すると今度は背後から、もうひとりの青年が掴み掛かった。背後が見えるのか、レセンドはするりとスマートな動きでそれを躱すと、振り向きざまに、青年の喉を今度こそ一撃でかっ切る。
ぴゅうっという背筋の寒くなる音とともに鮮血が噴く。息を飲んだ一同に向かって、
「次は誰だ」
殺気を抑えもせず、しかし淡々と言った。
残るのは傷を負った青年と、リーダー格の中年男。
「ちっ」
舌打ちしつつ沈黙を破ったのは、青年の方だった。得物の剣を正面に構えて、足を踏み出す。そのまま両者は激しく打ち合う。リーダー格の男は何を思うのか、今は静観している。
傭兵ではない、と春陽は判断する。その太刀筋は非常にレセンドのものと似ていることから、ガクラータにおける正道的な剣術だと推測できるからだ。では彼らは正規軍、そうでなくとも貴族のお抱え軍に属する者と考えられる。もしそうならば、誰の?
第三王子ランシェル……、いやあの王子はまだ幼いから、その母親である王妃カゼリナの差し金か。あるいはその取り巻きの貴族か。
剣が刃こぼれするときの、ざらついた嫌な音がして、春陽は再び状況を確認すると、両者は一度間合いを取って離れたところだった。刃こぼれしたのは、どうやらレセンドの方であったらしい。
彼の首筋に汗が滴り落ちる。
汗など似つかわしくない白皙の肌からのそれに、対峙した青年は軽い安堵を覚えた。勝てないかもしれないと思ったが、王太子は疲労しているようだ。
青年はそっとレセンドを見やり──。
絶句する。
その隙が命取りになった。
レセンドが一気に青年の間合いに飛び込み、高めに剣を一閃すると、それが牽制にすぎないにもかかわらず、青年は咄嗟に喉を庇って上半身を反らせていた。彼には、レセンドが喉ばかりを狙うという先入観があり、無意識に身体が反応していたのだ。そしてレセンドはそれこそを待っていたのだった。
無防備な青年の腹を、逆手にとった剣で穿つ。
物言わず、青年は仰向けに倒れる。剣で床に縫い取られたまま、彼は血と胃液を吐いた。
だらだらと流れ落ちる脂汗を感じながら、己の迂闊さを思う。レセンドが喉ばかりを狙ったのは作戦であったのだ。
(笑ってやがった……)
あの冷笑すら、計算だったのか!?
腹から剣が引き抜かれる。青年は背中が熱くなり、視界が白くなる。
嘔吐ばかりが支配する身体を横に向けてみれば、先程から人形のように身動きしなかった異国の少女が、喜びとも絶望ともつかぬふうに、瞳を輝かせたのが、視界の端に引っ掛かった。
青年が全てを理解したのは、次ぎに起こった王太子の唸り声ゆえだった。
背中をばっさり切りつけられて。
青年の剣を引き抜いたとき、レセンドは一瞬だけ最後の中年男の存在を忘れた。それを見事に狙いすました一撃だった。
リーダー格の中年男は、立て続けにもう一度剣を振るったが、これは辛くも躱した。だがたまらず倒れ込む。
背中を引きつらせ、レセンドは足で床に転がされた。屈辱的なその行為に怒りの表情を浮かべる。中年男はレセンドの腹に足を置き、逃げられないよう体重をこめた。
そうして剣を振り下ろす。
「─────っ!」
まさに王太子の胸を貫こうかというときに、それは起こった。どういう体術を用いたものか、レセンドは、男の臑に触れ、軽く力を込めるだけで、骨を砕いてしまったのだ。
男は絶叫を上げ、よろめいた。レセンドは素早く身を起こし、剣を手に取るわずかな時間も惜しんで、そのまま素手で男を殴り倒す。
背中を切りつけられたレセンドの何処に、そんな力があったのか、男は派手に倒れ込んだ。レセンドは自分がされたように、男を足で床に転がした。そして彼は、腹を踏み付けた男とは違い、胸を踏み付ける。
* * *
「──失敗したのね……」
事件を伝える使者が去った後、女はひっそりと呟いた。
線が細く白い手で、曙の海のような金の髪を弄びながら、同色の瞳を閉じる。
一刻と半ほど前、ガクラータ王国王太子・レセンド=シュリアス=ベクス=ガクラータが、都にあるダン伯爵別邸に何者かに襲われた、と。そのとき彼は陽香の公主であった少女と、閨をともにしていたという。
──彼の死を特別に望んだわけではない。
彼の存在は、その生死にかかわらず、わたくしの心にあり続ける。
ならば、彼が死んだところで、何が変わるというのだろう?
けれど、あの人はそうは思わない。
彼の死、それがわたくしの為だと、簡単に思い込むあの人。
わたくしは、それでもけして否定しない。
あの人が踏み誤るさまを見るのは、少し、心地いい。想像の中の彼のそれに比べれば、暇つぶしにもならぬものの。
「失敗するくらいなら、やらなければよいのに……ね」
言葉はガクラータ語でも、公用語であるアーマ語でもなかった。
だがその声を聞く者はない。
無感動に、朝の風に溶ける。
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