緋楽の章 [10]
動乱の娘たちよ。
何処かに還ることは出来るのか。
何かを守ることは出来たのか。
全てを変える程の力と、流れに逆らえぬ脆弱さ。
それら等しく内在し、国を傾け、国を興す汝らは
────花。
* * *
しとしとと雨が紀丹宮を濡らしていた。
窓から吹き込むつんと冷たい雨を含ませた風と、部屋に飾る花の甘い香りが矛盾なく溶け合って、緋楽の心を穏やかに掻き混ぜた。
閉じるかのように伏せられた双眸が、そしてその僅かな揺らめきが、彼女がまだ二十歳を少し越えただけの年若い娘である証しといえた。
胸はすでに痛みを克服していたが、それでも重い。
誰がこのような結末を予想しえただろう?
この紀丹宮がガクラータ王国に陥落されてから、もうすぐ一年が経とうとしている。あのとき、わたくしたちは確かに国の再建を祈り、自分たちの命を賭してでもその日を迎えることを誓った。
春陽は涙を瞳に溜め、鮮やかに笑って敵国に走った。赫夜はやがて春陽に降りかかるだろう運命に絶叫した。今生ではもうけっして会えぬと思うからこそ、わたくしたちはあのとき互いを心に刻んだ。
祖国への愛と敵国への憎しみを超越し、あの王太子との絆を築き上げることを何が可能にさせたのか。
だがそれも崩壊した。
想像した以上に早く、ガクラータ軍は和平に対して色よい返事を返してきたのだ。勿論、和平に関しては王太子には決定権がなく、彼は本国にいる国王の許可を得なければならぬため、それは確約ではなかったが。これから和平を結ぶにあたっての詳しい条件を協議することになる。
ガクラータ軍がついに侵略を諦めたことをいち早く知らされた諸王たちは怪訝な顔をしながらも喜んだ。しかし皇太子の容態がいまだ快方に向かわないことが一滴の染みとなって、快哉を叫ぶ者はいない。
臣下には知らせることはなかったが、使者が携えてきたのは和平に対する書簡だけではなかった。内々に緋楽宛にガクラータ王太子直筆の手紙が添えられていたのだ。
手紙には淡々と事実が記されているだけであった。春陽がガクラータ王国に与するようになった切っ掛け、そして実は春陽が妊娠していたこと、流産してしまったこと。
その事項を読んだとき緋楽は呆然とし、そしてそれはすぐに不安にとってかわった。敵国の王太子の子供を身籠った春陽。彼女が流産してからその事実を知った王太子。そしてそんな春陽の辛い時期に側にいることのできなかった兄。
その事実は彼女たち全てを苦しめ、いつまでも付きまとうのではないか。
手紙の文章はあくまで淡々としていて、王太子自身の感想は何ひとつ書いていない。しかもおそらく陽香語で書かれているため誰かの代筆だろう。感情のすべてが廃されているがゆえに、かえってレセンドの悔恨の深さを浮き彫りにしていた。どんな気持ちであの王太子が筆を執ったのかと緋楽は思いを巡らしたが、想像もできなかった。
緋楽公主。最後にわたしは貴女に問いたい。
春陽はけっして、わたしを愛していたわけではない。それは分かっていた。なのに何故、彼女はわたしの傍らにいてくれたのか、それがわたしにはどうしても分からない。
全ての苦悩を抱き込んでまでそれを選び、彼女はわたしから何を得たのだろう。
貴女の異母妹はわたしを許し、受け入れた。しかし最後まで頑なまでにその理由を明かそうとはしなかった。
あの時間は何だったのだろうか。家族愛ではなく、まして恋でもなく、同情でもないというのならば、何だというのか。
最後にわたしはそれを貴女に問いたい。
手紙の末尾の一節に、緋楽は胸を痛めた。
この後、彼らはどうなるのだろうか。
(兄上………)
そういえばわたくしは、兄上の心からの願いを耳にしたことはない。かつてより態度から察してはいたが、兄上自身の口からその言葉が紡がれたことはない。
それがけっして許されぬことであるがゆえに。
* * *
新女王螺緤は午も半ばを過ぎたころ、王宮・絮台に友人として遇している陽香の第二公主を政務室に呼んだ。
ほどなくして赫夜が現れると螺緤は人払いをかけた。そして玉座から立ち上がって友人の目線と合う位置まで降り、楽しげな表情で告げる。
「赫夜。陽香から書簡が来たわ」
「戦況に変化がございましたか」
気安い螺緤の言葉に対して、赫夜もまた、一応敬語を用いているものの親しみの籠もった口調で返事をする。
「変化どころか。………ほら、姉君直筆よ」
そう言って渡された紙を受け取り、赫夜はざっと目を通した。
「────何がどうなれば、こんなことに」
しばらくして赫夜は呆れたように溜め息をついた。
ただ簡潔に、ガクラータ王国と和平を結ぶことに相成った、というふうにしか書いていない。そうなるに至った経緯が著しく省略されている。勿論、同盟を復活させたとはいえ他国である朝楚に、自国の内情を詳しく説明することは出来ないからなのだろうが。
「ねえ、これで貴女の気掛かりだった問題は解決したわ」
「ええ」
実際は春陽の件など、まだ解決していないことは多々あったが、赫夜自身はもう全て終わったと考えていた。春陽の件は、自分の関知すべきことではなかった。
緋楽姉さまは結局、春陽をお許しになられるでしょうけど………。
それが姉の美点なのだし、姉はそれでも上手くやっていくだろう。
だが、自分だけは春陽の罪を忘れない。
頑なにすぎる、といえばそうなのかもしれない。けれど赫夜はどうしても、戦いのために命を散らした何万の民たちのことを思うと、その元凶であるガクラータ王国に与した春陽を憎まずにはいられないのだ。
「貴女はずっとこの朝楚にいるの………?」
そっと静かに螺緤は尋ねてきた。そこに懇願に響きはない。彼女は心底それを願ってはいるが、強制はしない。
赫夜は微笑んだ。
「陛下。わたくしの祖国は陽香以外になく、これからも陽香を愛し続けます。ですがわたくしはこの国で年を重ねるでしょう」
その答えに螺緤は、赫夜とは違う理由で微笑んだ。
彼女は今では一番の忠臣となった張功梨と岨隆貴のふたりから、この友人に想いを寄せる者の存在を、意地の悪い笑みとともに密告されていた。それを念頭に入れて深読みすれば、今の赫夜の発言は、自分への忠誠と友情から出た言葉という以外にも、あるいは別の意味合いが含んでいるのではないかと、邪推できぬこともない。
尤も現時点で、赫夜の心にもその存在が棲みついているという事実はなく、それは勘繰り以外の何物でもないが、今の事実が同時に将来の事実でもあるとは限らないのだ。
妾の為にも、岨隆貴の息子には頑張ってもらいたいものだわ。
螺緤がこっそりとそんなことを思っていることは、今のところは誰も知らない。
取り敢えず礼淨がこの先しばらく、三十歳にもなって青臭い話題で周囲の人々に遊ばれるだろうことだけは決定していた。
* * *
雨は未だに降り止まない。
まるでこの心に同調したかのように、静謐に世界を全て濡らし続けている。
床に横たわる陽孔明は、頭だけを動かして窓の外を見続けていた。しばし人を遠ざけている。最近は痛みと熱に浮かされてる時間も短くなってきており、今日はひさしぶりに気分が良い。そのためか、ついつい思惟に耽けってしまう。
今、国はどうなっているのか。それを知る手立ては、現在のところ妹の話を聞くしかない。一刻も早く復帰しなければならないのに、身体は泥のように重たい。
おそらくこの先回復しても、自分は以前のように剣をとって戦うことは出来ぬだろう。馬に乗ることすら出来ぬかもしれない。しかし、それでもう困ることもないのだ。戦いは終わった。――なのにどうそしてわたしはこんなにも無力感い苛まれているのだろう。
陽孔明はまじまじと己の手を見た。一度も自分の思い通りの運命をつかむことの出来なかったこの手は、そして愛しい者を抱くことの出来なかったこの腕は、あまりに小さい。
わたしは一体、何と戦っていたのだろう。握り締めた己の拳を見つめながら、自問する。ガクラータや朝楚が我が国に戦いを挑んだ理由を緋楽から聞かされてからというもの、その思いが頭から離れない。
様々な者たちの思惑が重なり合い、それが一つの大きな流れとなり、やがて歴史となる。ガクラータ国王のキーナ三世の野望。朝楚前女王・螺栖の疑心暗鬼。それらが根底にあり、戦いは自分たちになだれ込んできた。
武器を手に、馬を駆けた。より多くの者を殺すための指示を出し、ときに自ら前線に立った。陽孔明にとってガクラータは強大な敵であった。酷く残虐な侵略者と思って、彼は戦ってきた。我が国とガクラータ王国、そして朝楚を併せて六万人以上もの死者を出した、殺伐とした戦い。その結果がこれ程に呆気なく、切ないものであったのか。
「ガクラータ王太子………か」
レセンド=シュリアス=ベクス=ガクラータ。
――先日、緋楽から彼の手紙を読んで聞かされた。
焼け付くような嫉妬を感じたが、それ以上に何も知ることのなかった自分にどうしようもない諦観を覚えた。
わたしが戦っていたのは、ガクラータという国家ではなかった。私が戦ったといえるのは、あのときの王太子だけだったのだ。ただひとりの男として彼と一騎打ちした、あの戦いだけ。
大きな流れの中で、陽孔明はその中に立っていただけに過ぎない。何をも為すことはなかった。彼は戦いをはじめた者でもなく、戦いを続けた者でもなく、戦いを終わらせた者でもない。ましてその間、皇太子として満足に国政をしたわけでもない。
自嘲や自棄でもなく、事実としてそう思う。――自分は、ただ皇族の血を引くだけだ。必要とあらばその義務を負うが、もっともふさわしい者ではない。
(これも天帝の紡ぎ給うた紬――か)
それは誰に聞いた言葉だったろうか。紬とは絹のことである。絹糸を紡ぎ、絹布を織ってゆくさまを歴史が造られてゆく過程に譬えたのだろう。絹糸は別名、紡ぎ糸という。紡ぎ糸によって織られた紬。確かに幾億人もの生きざまの重なり合った歴史に似ていなくもない。
急に雨脚が強くなり、その音に陽孔明は我に返る。
風に伴って雨が部屋に振り込んでくる。敢えて窓を閉めぬままに、彼はその冷たさを味わう。水滴の清々しさは今の自分に心地よかった。
浮かぶのは、いつだったか自身の即位を天命と言い切った父帝の姿。
それは己の意志を超越した思いだった。
次の瞬間には、そうなのか、と納得していた。父帝と同じ天命は自分の上にはないのだ。
言伝もなしに、ただ兄に呼び寄せられ彼の寝室に向かう緋楽は、訝りながらも回廊を歩く足を速めた。このところ、兄とはあまり顔を合わしたくないと思っていたので、本当は踵を返したかったのだが。
自分に宛てられたガクラータ王太子からの手紙を兄に知らせるかどうかは、緋楽自身かなり逡巡した。その迷いゆえに、陽孔明の反応を見るのが恐ろしかったのだ。
兄は見かけは長身で豪胆だが、本当は繊細な人間だ。自分を律することに長け、父譲りの眼光と勇ましさを他の皇子と同様に持ち合わせていたため、それを知るのは彼に近しい者に限られているが。そして春陽こそが、兄の強いはずの自制心を失わせる存在であるのだ。
しかし、これで良かったのだろうとも思う。
「殿下、緋楽公主がいらせられました」
彼女が寝室に到着すると、すぐに兄に取り次がれた。
「緋楽、待っていた」
存外しっかりとした声が聞えて緋楽が入室すると、陽孔明は床の上に座っていた。起き上がれるようになったのだ。緋楽は思わず目じりが熱くなった。だが頬が赤いところを見ると、まだ熱があるのだろう。あまり無理をさせてはいけない。
「突然、如何なさったのです」
椅子を進められたので座してから、緋楽は訝しげな様子を崩さないままにそう問う。
妹のその様子に、陽孔明は流石に急ぎ過ぎたかと、思い立ったらすぐ実行の自分の早急さに苦笑した。だが、一度決意してしまうと、妹に考える時間を与えるためにも早く伝えるべきだと思ったのだ。
「まぁ、まて。茶でも飲んでゆっくり話そう」
すすめられるまま緋楽は咽喉を潤す。それを見届けてから、陽孔明はしずかに語りだした。
「――ようやく、ここまできたな」
「……ええ」
万感の思いを込めて、緋楽は頷く。
思えば、あの落都のときから、一年がたとうとしていた。
「あっという間でしたわ……」
「わたしが不甲斐ないばっかりに、今まで何度もお前につらい決断を強いてきた。申し訳なく思う」
兄に頭を下げられて、緋楽は仰天した。この国で成人男子――それも実の兄が軽々しく妹に頭を下げるものではない。しかも彼は皇太子である。生まれてこの方、兄から謝罪されたことはあっても、頭を下げられたことなどなかった。
動揺する緋楽に頓着する様子なく、陽孔明は続けた。
「……お前に告げなければならぬことがある」
「兄上………?」
「緋楽、今から言うことはけっして軽く口にしてよいことではない。それを敢えて言うのは、わたしが真剣だからだ」
真顔での前置きに、緋楽は困惑した。今から兄は何を言おうとしているのだろうか。
「けっして聞き流すな。頭越しの否定もするな。わたしの言うことにお前は反発するだろうが、真剣に考えてほしい。いや、お前が皇族であるのならば、わたしの話を真剣に考えることは当然のことだ」
「前置きはよろしいです。分かりました。それは重大なことで、聞くわたくしの方にも覚悟が必要というのですね」
陽孔明は頷くと一旦瞳を閉じ、それからゆっくりと開いた。黒の双眸が自分を射る。
兄が口を開くその一瞬前、何らかの予感に彼女は戦慄した。
「緋楽。皇帝になるのはお前だ」
「───っ!!」
衝撃が緋楽を貫いた。
そしてしばらく声を失う。
脳髄がくらくらした。だがそれは混乱ではなかった。そうではなく、圧倒的な流れが自分に押し寄せてきたという自覚ゆえの目眩であった。
直ぐには衝撃は醒めやらなかったが、なんとか緋楽は声を絞り出す。
「戯言を………」
兄が本気だと知りながら、しかし認めたくなくて緋楽はそう窘める。そんな反応は想像済みであったのか、兄は穏やかにそして厳しく自分の言葉を制した。
「戯言ではない、と言った」
「ならば余計に悪うございますっ」
緋楽はきっと睨めつけた。
「兄上は、なんと重いものをわたくしに押し付けるおつもりですか。もし兄上が皇帝になる自信をなくして、そうおっしゃっているのなら、それは逃げというものでございましょう」
「お前が皇族である以上、天子になるよう求められたならば、真剣にその是非を考える義務がある。そしてお前は分かっているはずだ。わたしよりもお前の方に資質があるということに」
兄の瞳は語っていた。これは諦めではなく、自虐でもなく、これは厳然たる事実なのだと。
緋楽は必死になって反駁の言葉を探した。
「資質? もしそのようなものがあるとしても、わたくしは政を学んだこともありませぬ。そんなわたくしに国を預けようなどというつもりに、よくなれますね」
「政治は学べばいいだろう。皇帝に必要なのは人を見る目と、決断力、冷静さ。そして人を惹きつける力だとわたしは思う。お前はその全てを持っているではないか」
陽孔明は揺るがない。彼は落都によって自分以外の皇子が全て命を落としてから一年もずっと、自分が皇帝に適しているかどうか考え、その度に否と結論を出してきたのだから。
「誰が納得するというのです。女であるわたくしが即位するといって、誰が」
「させればいい。お前以外にわたしは適性のある者を知らない」
「そんなことは嘘です。わたくしはわたくしなりに、至尊の重みを知っております。超然を求められた父上の苦悩も、兄上の葛藤も、わたくしは身近で見てまいりました。だからこそ、わたくしはその器ではないと申し上げているのです」
「ではお前はわたしにその器があると言うのか。わたしはあるいは蒙帝のようになるかもしれぬというのに」
蒙帝陽騎。それは彼らの祖父であり、最大の昏君。
孤独ゆえに栄芙明に溺れた哀れな天子。
皇帝になるよう望まれた兄は、そうなる自分を考え続けたのか。
兄の台詞が持つ重みに思わず緋楽は沈黙した。
「わたしは自分の弱さを知っている。今は意志で押さえ込むことができよう。何事もなければ名君を装うこともできよう。しかしいつか限界のときがくることを、わたしは感じているのだよ」
「───兄上っ」
堪らず緋楽は声を上げるが、兄はそれに頓着してくれなかった。その瞳は迷いを知らず、穏やかではあったが勁い。
「初めて春陽への恋を自覚したときに、わたしは一生この思いを伝えまいと心に誓った。だがわたしは貫くことが出来ず、彼女を罪の道連れにしてしまった。わたしは弱いのだ。自分の心を押さえ付けることが出来ない。いくら冷静ぶっても、結局は変えることが出来なかった」
「………わたくしはそうでないと?」
「お前にも弱さはある。それは知っている。けれど、お前は大切なもののために、全てを隠しきる強さがある。誰に誤解されようが、どれほど心が傷つこうが、お前は最後にはなし遂げる」
兄の説得に、緋楽は抗い続けることに困難を感じていた。胸に競り上がってくる苦しさ。
呼吸が上手くできず、彼女は涙を堪えた。
「酷いことをおっしゃるのね、兄上。わたくしは確かに陽香を守りたいと思っております。けれど皇帝になど。そのようなものになれば、わたくしは一生心を穏やかにしなければならない」
心を穏やかに装わなければならない。
心を荒らすことを許されない。
皇帝もまた人間である。だが人々にとっては、皇帝は人間ではない。
迷うことは許されても、それを表に出すことは許されない。
皇帝とはまさしく君臨者でなければならない。暴君が現れる危険性ゆえに皇帝の絶対性を否定するならば、いっそ共和制にする方がましだ。
緋楽はそれを知っていた。だからこそ、恐れた。
突然に身に降りかかった重圧。
異様なまでに高まった緊張に、緋楽の唇を噛み締める。兄が痛ましげな視線を向けてくるのに気づいたが、慰めにはならない。兄はけっして自分の意見を取り下げないのだから。
「確かに酷なのだろうな、わたしの言っていることは。それでもわたしは確信してしまった。………考えておいてくれ」
言葉はそこで途切れた。生じた沈黙を埋めるように、兄妹の外で雨は降り続ける。
* * *
その後、ガクラータと陽香の和平への交渉は、書面のみで淡々と行われた。
ガクラータ国王のキーナ三世の病はますます篤くなり、今では政を行う能力がないのだという。思えば、ガクラータにとっては陽香との和平はちょうど良い時期だったのかもしれない。
ガクラータの軍事力が圧倒していたのは、かの王の力が大きい。政治の面ではともかくとして、戦いにおいてかの王の才は突出していた。軍のことごとくが王に心酔していたからこその強さだったとも言える。覇王たるキーナ三世が崩御するようなことがあれば、他国はガクラータを侮るだろう。だがそれはかの国の問題であり、陽香の頓着するところではない。
緋楽とレセンドが顔をあわせたのは、和平への承諾書に署名と捺印する段になってからである。永歹の砦に場所を設け、一国の歴々が出席したその署名式は、しかし酷く簡素なものだった。
宣誓文を読み上げ、署名する。ガクラータの流儀にあわせ、そこで緋楽とレセンドは握手をした。
和平がなった。
陽香の人間はこみ上げるものを抑えようと必死だったし、反対にガクラータの人間は何も得なかった戦争を思って苦々しい表情を浮かべていた。
王太子は型通りの口上をしたあと、その場に立ち会わせていた両国の臣下たちに、退くように言った。陽香側の人間は勿論、ガクラータ側の人間たちの反発も大きかったが、レセンドと緋楽の両名ともがそれを望み、結局は従わざるを得なくなり、部屋には彼らふたりだけとなった。
途端にレセンドから演技めいた笑顔が消えた。
「緋楽殿」
「ガクラータ王太子、貴方が和平を決心してくださったことに陽香は感謝します」
公主としての正装した緋楽は、朱の袖を合わせて拱手する。
「感謝には及びません。───わたしが和平を選んだのは多分に個人的な事情ですので」
「春陽のことですね」
レセンドは頷いた。
かつて傲慢さや酷薄さが潜んでいた彼の口元は、今、己の愚かさを自嘲する静かな笑みだけを刷く。
溜め息すらももう出ない。
緋楽は黙って彼を見つめた。
氷のような瞳を持つ彼の眼差しと同じものを、どこかで見たような気がした。
(――嗚呼)
それは兄だ。兄が抱くのと同じ諦観を青年はその身に宿らせている。
「わたしは――彼女ひとりを愛し、そのために民を巻き込んだ。そんなわたしを貴方は笑うでしょうね」
「笑いませぬ」
間髪いれずにそう言ってから、もう一度彼女は言い直した。
「笑いません」
彼の愛し方は間違っていた。春陽を愛している者としても、一国の王太子としても。それでも緋楽にはレセンドを嘲ろうという気持ちがどうしても起こらなかった。――なぜならわたくしは、王太子の心の深淵を垣間見てしまった。
緋楽の返事に王太子は何事かを言いかけ、しかしやめた。その言葉を追求したいように思ったが、それはただ徒に彼の心を傷つけるだけの行為だろう。今、目の前にいる彼は、以前のような追い詰められたがゆえの焦燥や攻撃性はなかった。しかしその分、諦めや空しさに支配されている。
自分とレセンドはそのようなことを話す間柄ではない。ただ一国の王太子と公主である。
「御機嫌よう、遠い国の次期国王よ」
そう言って、背を向けた。
レセンドと分かれた緋楽は随従していた者を呼び、これから春陽を迎えに行くことを告げる。
他ではないレセンドがそれを望み、陽香はそれを受け入れたのだ。春陽はもはや陽香にとって罪びとでしかなかったが、それでも死を賜ることはないだろう。
案内されながら永歹の砦を歩く。その間、緋楽は先ほどのレセンドの様子を思い出していた。
(春陽。だからこそ貴女は彼を選んだのね)
勁さと弱さ、陽香と陽香に属する大切な人間を求める気持ち、そしてそれらを混在させる彼女そのものを投影した黒曜石の瞳。前回会ったとき、本質において彼女は変わっていないことを緋楽は知った。にも関わらず彼女は王太子を選び、悲しみを抱き込んでいる。何故か。───春陽が変わったからではなく、変われずにいたから、なのだ。
今なら断言できる。春陽がレセンド王太子を選ばずにはいられなかった理由、それは孤独を纏う彼に自分の姿を重ねていたからだ。
陽の名を持って生まれたこと。その名に相応しくなれと施された教育。政変に巻き込まれ幾度となく命を狙われたこと。様々なことが少女から無邪気さを奪った。高潔であることを求めこそすれ、誰も彼女に無垢な魂を求めなかったのだ。皇帝の真意は誰にも量れぬまま、彼女は人々から一線を画した存在となってしまった。生来の彼女自身の性格もまた、それを助長したのだろう。彼女は孤高の少女であった。
それゆえ春陽は人を愛するのがとても苦手であった。彼女は人を認め、受け入れることは出来たが、簡単に愛しはしなかった。緋楽から見てもその頑なさは排他的で冷淡とさえいえた。
春陽が愛を知らないとは言わない。彼女は自分や赫夜の愛しい妹であり、兄の吉孔明と恋を結んでいた。だが同時に、それでも春陽はどうしようもなく孤独であったことを自分たちは知っていた。救い難いほどに。
ガクラータ王太子レセンドの孤独がどういった性質のものかまでは、緋楽にも分からない。ただ、確実に彼は春陽と同じくらいに孤独であった。春陽は彼の側でいることで彼の孤独を癒し、同時に自分の孤独を癒したかったのだ。
(………父上、貴方は間違っておられた)
皇帝であった父の真意など知らないし、これは結果論に過ぎないのは承知している。自分が父であったなら、同じようにしたかもしれない。
だが、父の行為は確実に春陽を孤独にした。
(それも、流れと?)
流れ──父がよく口にしたことだ。
天命など関係なく自らが信じた道を歩き続けることと、人知など及ばぬ領域で物事が形作られてゆくこと。一見して反するそれぞれの事象は、けれどけっして矛盾しない。
そうして過ぎてゆく時代を流れというのだと。
孤独だったのは春陽だけではない。父もまたそうだ。
何故なら、そう言った父は双眸を厳しく天に向けていたから。
(父上。わたくしは貴方の後を継ぎ、この国を統べます)
今、それを決心した。
父はそのようなこと、想像もしていなかっただろう。
しかし、これがわたくしたちが戦い続けてきた結果であろうと、天命という逃れ得ぬものであろうと、どちらでもよい。
現実があるだけだ。
わたくしはこの国の礎として生きるだけだ。
そうだ、これはやはり流れなのだ。
───緋楽が春陽に再会したとき、春陽は部屋の隅に蹲ってただ泣いていた。
陽香の暦で開輪二十七年の五月。
レセンド王太子がキーナ三世の許しなく、軍を完全に陽香から撤退させたのは、春の長雨が通り過ぎ、彼方まで蒼弓が続く日のことだった。開戦から四年あまりの歳月を経て、ようやくここに戦乱は終焉を迎える。
三日後、第三公主春陽は紀丹宮内にある塔に幽閉された。
* * *
六月、ガクラータ国王キーナ三世崩御。陽香との戦いの敗北が、彼の死期を早めたことは間違いなかろう。
同月の下旬、このころには臣下と対面できるほどには回復した皇太子陽孔明が、驚くべき考えを明らかにする。早く即位をと奏上した臣下に向かって、即位するどころか、自身の皇太子位を妹に譲ると言い出したのだ。当然、紀丹宮では未曾有の大騒動となる。
心ある家臣ほど大反対をし、諌言の数々を雨のごとく降らせたが、しかしそれが撤回されることはなかった。
七月、ガクラータ王国では動乱勃発。反王太子派の者たちが、幼いのランシェル王子を擁立せんとしたものだった。王妃の生んだランシェル王子こそが真の正嫡だと彼らは主張した。
父王の死後からそのときに至るまで、王太子は慣習通りに喪に服し、即位を延期していた。しかしあと半年もすれば、喪は明ける。王太子が国王になってしまえば身の破滅である彼らは、追い詰められていた。
王太子が乱の平定に要した時間は僅か一週間。関係者は全て断首台の露となった。物心もつかぬランシェル王子と、夫の死により腑抜けになっていた王妃は、ただ一派に担ぎあげられただけということで、刑一等を減じられ命を永らえたが、それぞれ廃位された。
だがレセンドが彼らを殺さなかったのは恩情ではない。兄弟殺しという汚名を被れば後々やりづらいと計算したがゆえである。その容赦のなさに、家臣たちは王太子の本性に初めて気づいた。女性関係や側室腹であること以外では、理想的な次期国王だと思われていた彼の姿が、実は仮面であったことに、例外なく慄然とする。
王太子に対する人々の不審は積み重なる一方であったが、しかしこの事件は、ランシェルという最大の政敵を打ち倒せたことで、却って彼の地盤を固めなおす切っ掛けとなる。
十月、陽香では陽孔明がついに妹の緋楽に太子位を譲る。彼女は陽香高祖から続いた習い通りに、陽の文字を冠された。
───そして十一月。
緋陽は眠れずにいた。
すでに空は暁となり、やがて夜は明ける。
燦然と曙が陽香を覆いつくすだろう。
夜が明けると、陽香という国は滅びる。
新しく興るのは陽呼という国。
「陽呼………」
舌に馴染ませるように、緋陽は声に出してその名をなぞった。
彼女が皇帝になることを認めさせるのには苦労したが、彼女の即位とともに王朝を代えることには満場一致での賛成が得られた。
十一代も続いた陽香の歴史を自ら終わらせることに躊躇がなかったわけではないが、復興を目指す民たちに、かつて自治を奪われたという過去を持つ国は相応しくない。
戴冠式は午だ。儀式を経た瞬間、わたくしは皇帝になるだけではなく、陽呼という新しい国の高祖となるのだ。
緋陽はそっと思いを馳せた。
儀式は豪華で盛大ではあるが、荘厳で簡潔であるはずだ。
百官の居並ぶ正殿内の謁見の間に、帝位継承者が現れ、玉座に向かってゆっくり進む。
玉座には天子しか許されない紫色の竜衣が打ち掛けられている。それを継承者は纏い、玉座に坐す。
竜衣と玉座、それだけで即位は成る。
そして新帝に百官は祝言と号を捧げ、新帝が初勅──彼女の場合は新しい王朝を興すこと──を発すれば、登極の儀式は終わるのだ。
儀式が終われば、紀丹宮まで押しかけた民人たちの前に姿を現す。そして陽香はそれから一週間、昼夜を問わず国を挙げてのお祭り騒ぎとなるはずである。
「ああ………」
緋陽は溜め息まじりに苦笑した。戴冠式のことなんぞを考えていたから、ますます目が冴えてしまったではないか。
まあいい。どうせ、もうすぐ明け方だ。
彼女は眠ることをついに諦めた。牀から抜け出すと、女官たちを呼ぶ。女官たちは頷くと、儀式の準備のために緋陽を湯殿に連れて行った。そして身を清めると肌に白粉をはたかれ、彼女は裳に袖を通した。
その後、いつもよりも一刻も時間をかけて念入りに髪を結われ、化粧を施される。だがこのとき緋陽は、女官たちにひとつだけ釘を刺した。
自分は嫁下するのではなく、天子となるのだと。
古参の女官は意を酌み、常に纏っていたはずの艶やかさを緋陽から剥ぎ取った。生来の眼差しの強さを更に際立たせるように描かれた眉、身体の円やかさよりも姿勢の良さをを強調する着こなし。
優雅であれど嫋かではなく、全てを終えたあと残ったのは、男たちが敬遠する、意志強げな女傑であった。ここは朝楚ではなく、男が代々治めてきた国だ。天子は、身体はともかく、心は女であってはならなかった。
衣装を撫でているうちに込み上げてきた感慨に、気持ちを鎮めるよう緋陽は細長く吐息をついて、瞳を閉じた。
静かに官の迎えを待つ緋陽の胸に、雑多な思いや記憶が飛来する。
代々の皇帝はどのような気持ちで今このときを迎えていたのだろう。最期を民に惜しまれた皇帝はあまりに少ない。
父のようになるのはあまりに難しい。
───炯帝をして賢帝ならしめたものは、その伴侶ではないだろうか。
如何な父であれ、烈しいまでの道を壊れずに歩むことが出来たのは、支えてくれる女がいたからこそなのかもしれない。
自分には、父帝のように己を委ねられる伴侶はいない。
蒙帝と同じく、玉座はただ孤独であろう。
だが、いいのだ。
玉座は孤独であろうとも、そこが自分の在るべき場所。
わたくしは間違い、迷うだろう。
けれどけして帝であることに絶望したりはすまい。
緋陽は閉じていた瞳を、ふっと開いた。
どれほどの厳しい道を歩ませることになるか承知していながら、何故、兄が自分を皇帝にしようとしたのか、緋陽はこのとき本当の意味でそれを理解した。───素質や統治者としての才覚ゆえだけではなく。
緋陽以上に国を愛する者は、きっといない。
半刻後、緋陽は謁見の間に大扉の前に立っていた。
その瞬間を前にして、緋陽の胸に後悔はない。
懼れもない。寧ろわたくしは、自分が愛するこの国の礎になれるのだという悦びに、打ち震えてさえ、いるのだから。
扉が開かれると、ぴんと張り詰めた空気がその身を包む。
────彼女はゆっくりと孤独に向かって歩きだした。
戦乱に飲み込まれ、落日を迎えた
そのとき果てた国を陽香という
狂い月の長き夜は、しかし終わりを告げる
それは新たなる暁
導かれ、世界は緋色に染まった
そのとき生じた国を陽呼という
(緋楽の章・了)
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