緋楽の章 [9]





 全てはゆるやかだった。
 地に伏すふたりの青年を、それぞれの陣営が馬上から掬いあげるようにして抱きかかえる。その一連の流れは、その場にいた全ての兵士たちがそろって声を失ったかのように、ただ静かだった。
「ひ……め」
 戦場の動きをグラスで必死に見詰めていたテイトは、そのとき初めて春陽の異変に気が付き、目を瞠る。
 隣に立ち尽くしていた異国の姫の身体が、やけにゆっくりと崩れていくさまは、恰も夢のようだった。黒髪が空に棚引き、はらはらと舞った。絹のように、いと滑らかな艶をもって。
 膝立ちになった春陽は無表情のまま、瞬きもしない。無意識だろう涙が謐やかに溢れている。
 束の間、時間を失った。
 しどとに濡らす頬を、テイトは息を止めるようにして見詰めていた。心臓を鷲づかみされたような衝撃に眉を寄せる――知らなかった。
 わたしは、知らなかった。
 こんな風にして、声も出せずに絶望する人間がいることを。
 ともすれば、このまま息絶えてもおかしくない。ただ戦場を凝視する春陽の姿は、そんな思いすら起こさせた。

 アアアアアアアァァァァァァァァ……

 そして音が蘇った。
 割れるような数十万の大音声―――。

「……あに、うえ――」
 かすかな声を、テイトは聞いた。



*   *   *



 両軍が撤退した数十分後、レセンド王太子は軍営地に戻っていた。
 背に受けた矢が彼を苦しめていたが、急所をずれていたがために重症ではなかった。矢を引き抜いて創部を酒精で消毒し、焼きごてで止血する。矢に穿たれたためだけでなく、その治療の後遺症である痛みにレセンドは顔を歪めたが、歩けぬほどではない。
 裸身に包帯を巻き、その上から軍服を申し訳程度に羽織る。ようやく典医から開放された彼は、おぼつかない足取りで自らの天幕に戻った。
「――殿下……ご無事でしたのですね」
 そこでは春陽が青ざめた顔で立っていた。
 滅多に表情を変えぬ春陽のことである。その彼女の肩が細かく震えている。おそらく沢山の涙を流したのだろう。黒絹の髪をかきわけ、かさついた頬に手を這わすと、緊張の糸がきれたかのように彼女は嗚咽した。それでももはや涙は流れない。
 その姿はレセンドの記憶を引っ掻いた。彼の脳裏に、過去に見た夢が再現される。
 王太子は乾いた声で言った。
「春陽。お前の異腹の兄皇子・吉孔明――そう、陽孔明といったか」
 震えていた肩が、ぴたりと止まった。そのことを苦々しく思いながらも、淡々とレセンドは告げる。感情という感情から熱が失われたかのように。否、それらはすべて先ほどの戦いで吐き出してしまったのだ。
「彼の顔を、今日はじめて間近で見た」
「――ええ」
 皇太子・陽孔明と囁き声が聞えるほど傍にいた。戦いに集中してたが、不思議とその間の時間は緩やかだった。そう、彼の顔をじっくり観察できるほどには。
「私は彼に関する夢を見たことがある」
「――?」
「いつごろだったか――そう、お前が私の宮殿に移ってきたばかりのときだ」
 突然変わった話に、春陽が虚をつかれたようにまじまじと王太子を見た。その眼差しに答えることなく、ただレセンドは話を続ける。
「わたしは今日このときまでお前の兄の顔は知らなくてね。それが彼の夢だとは気づかなかった。ただ、どうしても印象に残る夢だった」
「どのような……夢であらせられましたか」
 聞くのが怖いような心地がしながらも、春陽は聞いた。それよりも更に沈黙が恐ろしかったのだ。
「――夢はどうやら、彼が出兵する前の晩のようだった。詳しい内容は覚えていないが、陽孔明は恋人と抱き合って別れを惜しみ、抱き合っていた。陽孔明は自らの腕輪を恋人に贈り――」
「っ」
 もはや繕い様のないほどに、春陽は青ざめた。
 なぜ、王太子がそのようなことを知っているのか。――彼の言うことが本当なのであれば、なぜ彼がそのような夢を見る?
 レセンドは強張る彼女の頬にやっていた手をはずし、そっと抱きしめた。春陽は抗うことなく、されるままになっている。
「あの腕輪、まだ持っているのか」
 恋人がいることは、出会ったときから知っていた。以前、諍いのもとになった腕輪は、もとの恋人から贈られたものであろうことも察していた。だがまさか、それが陽孔明のことだとはさしものレセンドも思っていなかったのだ。
 春陽はあの腕輪を嵌めて、わたしを襲った。あのとき彼女が纏った冷たい美しさを、わたしは忘れられずにいる。――わたしを殺すことの出来なかった彼女は、二度とあの凄絶なまでの美しさを持ち得ることはないだろう。怖いほどに澄んだ黒曜石の瞳は、もはやわたしの前で輝くことはない。
「――いいえ、いいえ…」
「そうか、それならいい」
 春陽を抱きしめた。
 なんとも言えぬ倦怠が彼を包み込んでいた。それは戦いで受けた傷ゆえだけではない。しばらくするうちに、治療の際に呑まされた麻薬が効いてきたのだろう。意識が混濁しはじめ、彼は彼女を抱きしめたまま、瞳を閉じた。



*   *   *



 早馬での伝兵によりその報が齎されたとき、先帝の懐刀にして陽孔明の指導役を務める李国衛は、はっとして反射的に上座にいる緋楽公主を見つめた。
 はっきりと自覚していたわけではないが、緋楽が泣き崩れるのではないかと危ぶんだのかもしれない。
 果たして、緋楽は厳しい表情を浮かべはしたが、凛とそこに在った。泣き崩れることはおろか、動揺することもなく。いや、彼女の内心までもそうであったかどうかは分からない。だが少なくとも、表面上はそのような感情を読み取ることは出来なかった。
 冷静に報告を聞いている緋楽の姿に、国衛は安堵しながらも複雑な思いに捕らわれていた。
 ――彼にとって、公主といえば第一に春陽であった。
 彼がその御宇を見守った炯帝・陽龍の後継者として育てられた春陽。
 皇太子は陽征だった。しかし、実質的に炯帝が気にかけ、育っていくさまを注意深く見守っていたのは春陽であった。だからこそ、国衛にとって公主とは春陽ひとりだけだった。緋楽は天子の娘に過ぎず、赫夜に至っては視界にすら入っていなかった。
 しかし、どうだろう?
 誰よりも強く、国と父帝のために生きるだろうと思われた春陽公主は敵国に通じた。あまりにか弱く、何もも出来ぬ娘と思っていた赫夜は朝楚の革命に加わり、朝楚と陽香の同盟の復活という偉業の一助を成した。
 そして緋楽は。
 その横顔はたおやかな女性のものだ。しかし国衛は最近、陽孔明の留守を預かる緋楽の補佐をしながら、炯帝が健全であったころに戻ったような錯覚をすることがある。
 聡明ではあるが、政治のことなど学んだことのない、ましては帝王学など持つはずのない女性である。だが彼女はこの激動の時期に、監国の任(諸事情で天子がその役を果たせないとき、代理として国をまとめる)についた。並みの女性であれば、お飾りとして座ることすら出来ないだろう。それが緋楽はどうどうとその任に就き、そして代理以上の仕事をしてみせているのである。
(そうだ、上に立つものが政治を知らなくてもよいのだ)
 有能で善良な臣を登用し、その者たちの意見を聞くことの出来る耳があれば、政治はなる。あとは、威風だ。国を背負う者としての覚悟だ。
「陽孔明殿下は、現在亜南城で治療を受けていらっしゃいます。軍は産西の地まで後退。一時的に指揮権を緯択王に移行し、待機しております。対してガクラータ軍はふたたび本拠地としている永歹の砦に引き返しています。――」
 安堵した国衛は、尚も報告を続ける兵士の言葉に集中した。
 ――しかし、実のところ緋楽は表情に驚愕を出さないことで精一杯だった。
 兄は戦いに身を投じていたのだ。これは、当然覚悟してしかるべき事態だった。しかし緋楽はなぜか兄がそのような目に遭うことを、全く想定していなかったのだ。なんという甘さだろう。
 さらに、陽孔明の負傷の経過を聞いて、緋楽は耳を疑った。
(なぜ、そのような無茶を……!)
 護衛兵の守護を求めず、なぜ単騎で挑んだのか。
 臣下から聞かされた兄とも思えぬ愚挙に、緋楽は奥歯を噛み締める。
 陽孔明が理解できない。なぜ、時期皇帝になろうという者が!
 知らず、手を握る力が強くなる。
 だが隣に立つ国衛が心配そうにこちらを見詰めていることに気が付くと、ともすれば戦慄きそうになる背中から必死に思いで力を抜いた。
 使者を見やると、彼はただ頭を垂れるのみで、緋楽の様子には気が付いていない。彼女はそっと、誰にも見咎められぬように安堵の吐息をついた。
 容易く激情してはならない。わたくしは今、兄上の代わりに国を預かる監国なのだから。



 それからの緋楽の行動は早かった。
 止める臣下を振り切って都を出立し、すぐさま兄が静養する亜南城に向かったのだ。
 亜南城は明領の端に存在する來群の太守のものである。戦場よりもそれほど離れてはおらず、また警護もしやすいために選ばれた。この亜南城に到着したのが報告を受けて一週間したのちだった。
 本来は太守本人の部屋である寝室の床に横たわる兄は、その身に暴れる熱と痛みに唸るばかりで、緋楽の存在に気づくことはなかった。
 陽孔明の背を穿った矢には毒が塗られており、その部分の肉を抉り取り、寫血(しゃっけつ)も行ったが、その毒はいまだ彼の身体を蝕み続けている。傷の周りを中心に、皮膚に水泡や潰瘍などが出来ており、目を覆うばかりだった。
 手が冷たい。爪や目の下が青白く色を失っており、緋楽をたまらない気持ちにさせた。典医の話によれば毒により肺に水が溜まり、呼吸が妨げられているせいだという。
「――兄上……っ!」
 まるで死の足音が聞こえるようであった。それほどはっきりと、陽孔明は力を失っている。
 緋楽はその手を握り、強く祈った。
「兄上、どうかどうか……」
 あなたがいなくて、どうするというのか。
 緋楽はしばし、そうして兄を見ていたが、弱い姿を見せたのはそのときだけだった。
 兄の姿を直接見たことで、現段階で陽香は完全に自分の肩にかかったことを理解する。
 ――もはや、陽香は戦えぬ。
 皇太子がいなくとも諸王たちはいる。軍はある。しかし、その中心がいなければ兵士たちを鼓舞することはできぬだろう。
 いい意味でも悪い意味でも、陽孔明が軍に賭けた情熱は強いものだった。どこか悲壮なものさえ感じ取れたその勇姿に、人々は突き動かされていたのだ。
(だが……それは向こうも同じはず)
 陽孔明と直接戦ったレセンド王太子は、彼ほど重症ではなかったという。
 しかし失った兵士の数は陽香とは比べ物にならない。陽孔明のしかけた罠をすんでのところで避けたために壊滅を免れたが、それでも打撃は大きかった。
 条件としては五分五分。双方ともに、先の戦いで十分なほど疲弊したのだ。
 ならば手はある――すなわち、和平である。
(けれど、わたくしが判断してもよいことなの?)
 本来ならば陽孔明がすべき決断である。今ここで緋楽が決め、命をくだせば、民人は陽孔明が死んだものとして受け取るだろう――あるいは、緋楽が簒奪をもくろむものとして誤解するかもしれない。
 これまで女の身でありながら、陽孔明を外交の面で助けてきた。それを臣下たちは許してくれた。陽香に残った直系の皇族は兄と自分だけであったからである。――だが、否、だからこそ。
 陽孔明を無視するような命令の発動は、自分からは出来ない。・
 緋楽の逡巡は、しかし国衛によって断たれた。
 彼は、公主の考えを知り、しばらく頭の中で考えを巡らした後に「それしかありますまい」と頷いた。
 彼自身、なんどかそれを検討したのだ。しかしそれまでは、けっして実現すまいとして、口を開くことはなかった。だが、今の時勢ならばそれは最上の策だ。
「ならば公主殿下。ことは早い方がいいでしょう。すぐさま臣に御下命を」
「なりません」
「……公主?」
 国衛は眉を顰めた。
「兄の命あるまでは、わたくしは動けません」
 その言葉で、国衛は大体の事情を察した。
「――それでも、臣はあなたの命令に従います」
「国衛?」
「今のあなたを、誰も侮りますまい。あなたは間違いなく、炯帝陛下の息女です」
 誰よりも。
 今このとき、国衛は自覚する。
 脂粉や香も艶かしい窈窕たるこの公主の身に、しかし色を見なかったのだ。――むしろ彼は公主に覇者を見た。
 生涯、自分にとって主人とは炯帝陽龍ただおひとりのみと思っていた。だが、今自分はこの年若い公主に忠誠している。生まれながらの帝王がいるとするならば、緋楽がまさにそうなのだ。血も纏わず、剣も持たず、女の身でありながら。
 だがそれを告げるのは不敬にあたるだろう。
 なぜならまだ、陽孔明は存在している。
 それゆえ国衛は静かにただ一言だけ言った。
「ご決断を」



*   *   *



 ――それは、丁度、陽香全体が落日となりゆく時のことであった。
 戦時中とはいえ、一応自治を取り戻して迎えた陽香の春は華やかである。
 人々は自分の育てた大輪の牡丹を門前に飾って、その美しさを競い合い、また道脇に植えられた梅が咲き染めて、目を楽しませる。特にこの夕闇の頃は、それらの花を見るためだけに路傍を人々が流れる。
 しかし敵国であるガクラータ王国の者たちがその風流な習わしの恩恵を受けることは無論なく、永歹の砦に帰った彼らは殺伐とした雰囲気の中、いつ再開するかもしれぬ陽香との戦いに備えていた。彼らは陽孔明の瀕死を知らなかったのだ。
 陽香からの使者が到着したのは、前回の戦いより僅か五日後のことだった。隙のない身のこなしをした男たちは、しかし完全に武装を解いた形で、レセンド王太子との面会を求めた。
 速やかな報告を受けたレセンド王太子は、嫌な予感を抱きつつも使者たちに目通りを許した。
 そして、その予感が的中したことを驚愕とともに知る。


(ふざけるな)
 誰が認められるか、和平など。
 このようなあっけない結末などで、納得できるか!
 口では理知的に、理論的に和平を成立させた場合の弊害を説きながら、内心では腸が煮えくり返るほどの怒りをレセンドは抱えていた。
「王太子殿下! 何故に貴方はそれほどまでに頑なでいらっしゃる」
 年相応の落ち着きがあるはずのソヴァンス公爵が堪らずに声を張り上げた。彼はレセンド王太子の聡明さを知っていた。国にとって最善の道は和平であることを、彼が分からぬはずがないというのに。
 レセンドはあくまで堂々と、おかしげにそんな彼を見る。
「異なことを言う、ソヴァンス公。わたしは理由もなしにお前の意見を退けているわけではないぞ」
「ですが、和平を申し出てきた陽香の内部事情を知るためにも、一度くらい交渉の席を持ってみてもよろしいではないですか。和平を受け入れないにしても、それは無益な行為ではないはず。何故に話も聞かずに一蹴しようとするのです」
 ソヴァンス公の理に適った、搦め手を使ってはいながらも真摯なその言葉に、王太子と同じく拒否の立場にいた者たちも心惹かれた様子を見せた。
 ソヴァンス公は地位だけではなく、その見識と風格に誰もが一目を置いていた。だからこそ、彼の言葉に人は耳を傾ける。そして人々は納得する───その通りだ、結果的には和平を拒むとしても、まずは試しに会うだけでもしてみればいいのだ。
 常ならばレセンドの命令は絶対であった。しかし春陽に執着を覚えてしまった身である彼はここ最近の状況に焦燥し、声は艶めきと余裕を失っていた。それゆえにレセンドの言葉は巧みではあったが、ソヴァンス公を超えるほどの吸着性を持っていなかったのだ。
 天秤が一気に傾いたのをレセンドは感じた。
 よもや彼らは、無意識のうちではわたしの変化を気づいているのではないか。表層は取り繕ってはいても、恋に溺れ、国を巻き込んでまでその欲望を満たそうとする、わたしの堕した本質を。
 そう考えたために、レセンドはこれ以上、意固地に交渉自体を拒否することは出来なかった。王太子である彼が望めばこのまま押し切ることも可能であったが、今まで理知的で理想的な王太子として振る舞って来た彼がそこで我を通せば、人々は不審に思うに違いない。まだ彼が春陽に溺れているという噂(それは本当なのだが)も醒めやらない今の時期、不審に思われる芽は摘むべきだった。
 彼はけして破滅を望んでいるわけではなく、この先もずっと春陽とニともに生きてゆくつもりであったから。──それが可能かは彼自身、疑問に思うところであったが。
 ───春陽。
 溜め息とともに彼女を想う。
 今となっては、何故自分が彼女にこうまで囚われているのかは分からない。自分の立場が傾いてゆくのを手に取るように感じるのに、彼女を手放すことが出来ない。
 失えない。このような不毛な関係であっても。


 その会議において、和平の交渉の席を持つことが決定され、早速陽香に早馬が出される。
 両国の間でいくつかの遣り取りがなされたあと、日取りと場所が決定された。



*   *   *



 ───和平。
 突如として開いたその可能性に、春陽は喜ぶのではなく、寧ろ動揺した。
 このまま両国が和平を結べば、自分はどうすればよいのかと。
 ガクラータ王国と陽香が、刃を収めてそれを話し合う日が来ようとは思ってもいなかった。レセンド王太子が持つ陽香を滅ぼすという情熱は、彼自身を燃やしかねないほどの激しさで滾っている。しかしそんな彼が今日、しぶしぶとはいえ和平の交渉に臨む羽目になってしまったのだ。
 交渉の当日、春陽は陽香からの使者が到着する前から落ち着かなかった。
 場所は永歹の砦で行われる。ガクラータの本拠地であるこの砦で和平の交渉をするなど、よく陽香が承知したものだと思ったが、実のところ向こうの方から望んだことだという。――つまり、春陽の生死を確かめたい、と。
 春陽の内心の怯えを見てとったのだろう。レセンドは表情を浮かべぬまま、口元だけにかすかに笑みを浮かべた。――あの日以来、レセンドと春陽はずっとこのような感じであった。春陽は目に見えぬ何かに怯え、レセンドはそれを斜交いに笑う。どこか乾いた冷たい眼差しで見つめられることを、春陽は身を硬くして受け止める。
 この頃、春陽はひどく脆いとレセンドは感じる。それは小動物を真綿で絞め殺すような、ひどく虚しい気持ちだった。
「安心していい――向こうとて敵地に皇太子を送り込むまいよ」
 侵略者であるガクラータとて、さすがに正式な交渉の場で殺戮をするような野蛮国ではない。だがレセンドがそう言ったとおり、万が一のことを考えて、陽香側の公証人は皇太子以外のしかるべき身分のものを立てるだろう。
 そろそろ使者が到着する時間だ。わたくしはどのような顔をして、陽香の人々に会わなくてはいけない?
 春陽は自問自答する。赫夜のときのように装えば、人々は納得してくれるだろうか。
 そのようなことを考えていた春陽はしかし、突然舞い込んできたその報せに、春陽は驚きに目を見開いた。
「緋楽姉さまが………まさか」
「間違いございませぬ」
 兵士の神妙な答えに、春陽はしばらく言葉を忘れた。
 緋楽は政治の表舞台に出てくるような人ではなかった。聡明であったし、女らしい肝の小ささとも無縁で、豪胆とさえいえたが、その思慮深さゆえにいらぬでしゃばりを避けていたのだ。
 その緋楽が、たった今到着した使者の中に交じっているのだという。それだけではない。今この扉の外にいるのである。
 急のことで、異母姉と会う心の準備が出来ていない。しかし春陽が対面を拒否することは出来なかった。現に、先触れもなく異母姉は扉の前にいる。これは春陽の意志よりも、早く会いたいという緋楽の意志が尊重されたということだ。和平を交渉するにあたって、虜囚になった公主の安否を確認するのは陽香にとって当然のことであり、ガクラータ王国が拒むわけがなかったのだから。
 しかし安否の確認というのは建前であった。陽香は春陽の無事を確信している。だから今回、緋楽が春陽との対面を申し込んだのは、赫夜の言葉の真否を確認するためである。
「お会いするしか………ないのですね」
 これ以上ないというほど憂鬱に春陽は消極的な了承を示し、彼女と異母姉を隔てていた扉はゆっくりと開かれた。



 春陽を自分の前としたとき、緋楽は泣きたくなった。
 彼女が身につけていたのは、奇怪にも思える異国の衣装だった。しかも髪が赫夜同様に短くなっている。赫夜よりは幾分ましとはいえ、踵まであったのを胸元ほどの長さになってしまった。
 しかし緋楽が泣きたくなったのは、異母妹の変わった装いゆえではなかった。………黒曜石の瞳を見てしまったから。
 それを目にしたとき、何もかもを理解したと思った。
 実際には春陽に国を裏切らせた背景など、緋楽には知り得なかったし、もう一年も隔てた後の再会であるがゆえに、春陽の内面が変化している可能性が高く、そうである以上は緋楽が彼女の何もかもを理解できるはずがなかった。
 それでも緋楽はそう思った。
 そう思わせるほどまでに、春陽の黒曜石の瞳は変わっていなかった。
 春陽は無表情に自分を見つめている。
「お待ち申し上げておりました」
 静かに口火を切ったのは春陽だった。
 眼前で緋楽は真摯な表情で佇んでいる。穏やかで包容力のある、それでも虚実を許さぬ眼差し。
 この姉の前では、陽香と決別するためにガクラータの衣装を身につけ続ける自分が、単に意固地になった子供であるように思えてしまう。
 騙せない。
 緋楽姉さまを欺き通すことは不可能なのだわ。
 春陽は緋楽の様子に、そう悟る。ならば真実を以て語るしかない。
 ───それは、姉に真なる苦しみを与えることであろうけど。
「春陽。何か言うことは」
 緋楽はそう尋ねた。彼女は、春陽に対して姉として接するか、皇太子の名代として接するかを決めかねていた。
「申し上げるべきことは、わたくしには何もありませぬ。ただ、姉さまがお尋ねなさることがあるというのなら、お答えします」
 距離が、遠い。
 その距離を感じて春陽は、飢えた。
 見定める未来の群像が、望みが、心さえ。
 わたくしと姉さまは、すべてがあまりに隔てられていた。違い過ぎた。
 かつては寸分違わず同じであったのに。
「何故、王太子を殺さなかったのです。使者は届いたのでしょうに」
 緋楽もまた、確かに春陽が自分と違う道を選びとったのだということを感じとった。それゆえに鋭い問いを放つ。
 心は戦慄いたが、無視した。
「分かりませぬ」
 春陽は正直に言った。
「分かりませぬ。何故、わたくしがそれを出来ないのかは」
 それを恋というのではないか。
 緋楽はそう指摘しようとしたが、やめた。今すべき議論ではない。それに緋楽には、春陽が陽孔明のことを忘れたとは思えなかった。
「では、そのことはもう問いません。けれど、ガクラータ王国を憎めなくなったからといって、なにも祖国の敵になることはないでしょう?」
 陽香の公主でいることが出来ないのなら、せめて一歩下がって、ただの傍観者としてこの戦を静観しなさい。
 緋楽のその言葉は、せめてもの愛情であった。しかしそれさえも、春陽は受容できなかった。あまりにそれが矛盾する、愚かしい行動だと自覚しても。
「わたくしが陽香に心を留めると、王太子は苦しむのです。あの方を苦しめることは、わたくしにはどうしても出来ない」
「───それはあなたが、身も心もガクラータに嫁したということかしら」
 心が千々に引きちぎれそうな心地がして、春陽は瞳を瞑った。
 ああ、そうだ。何故わたくしはレセンドに拘る!?
「どうか、どうかそれ以上をおっしゃらないで、姉さま………っ!」
 手のひらで顔を覆って、やっとのことで春陽はそう言った。
 どうしてこの人の言葉は、いちいちわたくしを揺るがすのか。
 我慢できない。弱さを晒け出してしまう。けれど、もはや陽香に帰るつもりのないわたくしがそれをするのは、あまりに卑怯すぎる。
「春陽」
 やっと本音が出た、と緋楽は春陽に近づいた。
 圧し殺しきれなくなっている、春陽の自分に対する思慕ゆえに。
 春陽が緋楽に敵うはずがなかった。異母姉の言葉は的確に急所を突いてくるのに、その中に潜む自分に対する愛情の深さが、彼女には分かるのだ。
 彼女に許しを請いたいと、願ってしまう。
 圧倒的な程だった。
 緋楽が更なる問いかけをしようと口を開け、しかしそれを遮る声があった。
「わたしの妻にいらぬことを吹き込まないでいただきたい」
 どくん、と緋楽の胸が脈打った。アーマ語。通訳を介してようやく理解できたその言葉は、しかしレセンドの力ある声を以て、彼女の心臓に直接切り込んできた。
「貴方………っ」
 敵国の世継ぎの君。
 緋楽は、再び急速に己の中の“姉”という要素が消失してゆくのを感じた。今、ガクラータ王国王太子の前にいる自分は、陽香公主としての自分。
 皇太子名代として使命を負った、自我の許されない自分だった。
 緋楽は素早く膝を折った。だがけして屈したのではないのだと示すために、炯帝譲りの瞳を厳しくひからせる。
 レセンドはとろりと笑った。
 使者の中に緋楽公主が紛れ込んでいて、知らぬ間に春陽と会っていると聞かされ、不快感のあまりに駆けつけた彼ではあるが、実際に緋楽を目にすると不快感は拭い去られた。緋楽の厳しい眼差しは、出会ったばかりの頃の春陽を思い出させたのだ。───胸の痛みなど、とうに忘れた。
 ガクラータ王太子と陽香の第一公主はしばし見つめ合った。
 それは歴史に残る対面であった。後の史書は挙って緋楽の女らしかぬ英雄性を賛辞した。二人の立ち姿は確かに美しく、また象徴的だった。
「わたしは暇ではない。手早く用件をお聞きしたい」
「我が国が望むこと、それは和平ただひとつでございます」
 余裕さえ窺わせる美しい声音で、緋楽はそれを口にした。レセンドは小馬鹿にしたように鼻で笑った。不本意なことに和平の交渉を持つことにはなったが、彼には真面に議論するつもりはいささかもなかった。彼には和平を成立させる気などないのだから。
「戯言を」
「いえ、そうではないことを、殿下はご承知のはず。心底それを望むがゆえに、皇女であるわたくし自身が、単身で殿下の元に参ったのです」
「本気でそのようなことを頷くとでも思っていらっしゃるのか」
「殿下の御国の民が、度重なる戦いに倦んでいること、わたくしどもが知らぬとでもお思いか」
 緋楽が抜け目なくそう言ったのを、レセンドは忌ま忌ましく思った。
 知らないうちに自分はこの女性を侮っていようだ。目の前にいるのは、春陽の姉だ。どんな切り返しがあってもおかしくはなく、それを覚悟すべきだった。
「殿下は当初、我が国への侵略を反対しておいでであったとか。その理由は、国が軍事力に偏り過ぎてしまうことと、軍費の異常なまでの膨大を忌避したがゆえ。けれど国王陛下ご自身が強く出兵を望まれ、国民がそれを支持したために、殿下の意見が聞き入れられることはなかったと」
「………」
 予想以上に内部事情に通じているらしいことを知って危機感を強めるレセンドに、緋楽は滔々と語る。陽香はなにも、ガクラータ王国の攻めに対して常に受け身であることに従容としていたわけではない。それぐらいの調べはついているのだ。
「ですが、それは過去の状況。現在では、国王陛下は病の倒れ、国民にも少しずつ厭戦の意識が浸透しつつあります。我が国にこれ以上の干渉する意味は、少なくとも殿下にはないのでは?」
 ───確かに。
 レセンドは緋楽の台詞の正当性を認めた。以前のわたしならば、公主の言うとおり、これ幸いであるとして軍を引いただろう。この戦いは、ガクラータ王国の武力を誇示する役にはたっても、富みをもたらすものではなかったから。この戦いに、それ以上の意味を見いだしてはいなかった頃のわたしならば。
 けれど今のわたしは、喜んで無意味な戦いに身を投じている。
「わたしは国王陛下に軍を預かった身。王太子とはいえ臣であるわたしが、未だご健全であらせられる陛下の意に添わぬ行動を起こすことは、即ち明らかな越権行為であると理解しているが、如何かな」
 言い訳であるという自覚はあった。本当は、理由さえあれば、弱った父王を口で丸め込むことは、けっして難しくない。自分が口八丁に長けていることは事実であったし、それを罪悪と思ったこともない。レセンドが軍を引かない理由は、あくまでも彼自身の意志である。
「それでは、国王陛下に打診することだけでもお願い致します」
「考えておきましょう」
 レセンドはそう言ったが、自分はけしてそうしないことを知っていたし、緋楽もまた感じとった。
 緋楽は、瞳をすっと細めた。
「………随分とご執心のようですね」
 不意打ち、しかも意図して単語を省いた言葉に、春陽がぴくりと反応する。彼女の内面は、先程の緋楽との会話でずたずたになっていた。だからこそ無防備で容易く動揺する。それがレセンドを心配させる。
「それが?」
 蒼白な春陽を意識して、殊更レセンドは冷静に問い返す。レセンドは緋楽を恐ろしく思った。苦労して築きあげた足場は、けれどあまりに不安定だということに、改めて気づかされた。緋楽の乱入、ただそれだけで崩壊を予感させるほどに。
 緋楽はそのとき、すでにレセンドの弱点を見抜いていた。彼を陥落させることが出来るのは、自分だけだということも、よく承知していた。
「貴方の愛する娘は、誠実な娘。優しい娘。孤独な貴方を捨て置くことが出来なかったのでしょう。そしてまた、娘の中にも孤独があることを貴方も見抜いた。だからこそ貴方は惹かれた」
 何もかもを見抜いているとしか思えない緋楽の言葉に、春陽はようやくある真実に気づいた。呼吸すら忘れ、姉を見入る。
 春陽の異変に、レセンドは敏感であった。春陽は異母姉の言葉に吸い寄せられている。わたしの姿はもう、目に入っていない。
 ───やめてくれ。
 やめろ。この足場が崩れることにわたしは耐えられない!
 しかし緋楽はレセンドから目を離さない。許さない。
 ふたりが傷つけば傷つくほど、彼女は追い詰める。何故ならそうするしか、この戦は終わらない!
 内心の激しい感情を隠しきり、緋楽は淡々と更に言葉を紡ぐ。
「けれど、貴方は分かっているのでしょう? 娘が、春陽が祖国を忘れられないことを。忘れるために心の奥に封じ込めると、今度は精神に歪みが生じる程にこの国を愛していることに」
「姉さま………っ!」
 悲鳴を圧し殺すようにして、春陽は緋楽の言葉を阻んだ。
「どうかっ……、もうお帰り、下さ」
 ───崩壊、する。
 緋楽はそれを確信し、敵であるはずのレセンド王太子を少しだけ、哀れに思った。



*   *   *



 何もかもが終わってしまう。
 夢のように、幻のように、それらは消えてしまう。
 残るのは、わたくしが作り出した愚かさだけ。
 自室に戻った春陽はしばらく呆然と床に座り込んでいた。そんな女主人を心配しながらも、彼女は他人を拒絶しているかのような雰囲気を纏っており、エーシェは声を掛けることが出来なかった。
 しかしそのうち、エーシュは春陽の顔色が無視出来ないほどに蒼白になっていることに気がついた。
「顔色がお悪うございますわ」
 慌ててそう言ったエーシェに、春陽は大丈夫だと言おうとした。だが、それは果たせなかった。そのとき、ぐぐっと腹に鈍い、しかし強い痛みが起こったのだ。───がくり、と春陽は腹を押さえて蹲った。
「姫さまっ!?」
 痛みは鎮まるどころか、増してゆく。
「あ……あ」
 吐き出すように、彼女は攣きつるような声を出す。
「いた………い」
 刀傷とは違い、我慢できるような種類の痛みではなかった。彼女は呻き声をあげることを自分に許してしまった。
「姫さま!?」
 エーシェの切羽詰まった声に、外で待機していた護衛兵たちが慌てて室内に入って来た。
「如何なさいました!?」
「どうかご典医をっ」
 エーシェがそう声を張り上げると、護衛兵ははっと色を失い、ひとりが駆け出した。残る者たちは動揺しながらも、レセンド王太子のためにそれぞれの役割を果たす。
「他に回っている侍女を呼び集めて、介抱してさしあげろ。それと早く寝台の準備を。こちらの方が先だ。────早くっ」
「王太子殿下にご報告申し上げろっ」
「なりません……。何人たりとも、このことを……口外、しては………」
 だがその言葉を聞く者はなく、また最後まで紡がれることはなかった。 そして春陽は意識を飛ばした。



*   *   *



 これで還えることが叶う。───この国に。
 この国と同化できる。
 この国はわたくしにとって、ただただ愛しいもの
(───ああ。)
 唐突に気づかされた。思い出させられた。
 わたくしが陽香を愛していることを。
 どうして忘れることが出来たのか。
 どうして裏切ることが出来たのか。
 こんなに愛しいというのに。



*   *   *



「春陽………っ、春陽………っ!」
 駆けつけたレセンドは真っ青になりながら、朦朧とする春陽の頬を叩いて意識を取り戻そうとする。
「殿下っ、どうかお離れくださいましっ………! このままでは姫さまのお命がっ」
 老いた医者がそう言うが早いか、レセンドは春陽から手を放し、ばっと医者に掴み掛かって怒鳴った。
「春陽はどうしたというのだ………っ!?」
「───姫さまは今、流産しかけていらっしゃるっ」
「な……んだと………?」
 医者の襟元を掴んだ手が、するりと解けてゆく。医者は身の安全を確保すると、荒い息で声を張り上げた。
「姫様は妊娠しておられたのです! けれどこのままでは、御子もろとも姫さまのお命は彼岸のものとなりましょう。かくなる上は、御子を早く姫さまの身体から取り除くことしか方法はありません」
「妊娠………? 春陽が」
 まだ事態を把握していないレセンドに、医者は事実を突き立てる。
「ここまでに至れば、姫さまのお命を犠牲にしたところで、御子が助かることは万に一つもございません。ならば、せめて姫さまのお命だけはお守りするため、御子を堕胎させていただきたく存じます。御子のお命をお救い申し上げることの出来ぬわたくしどもを、どうか、どうかお許しくださいませ」
 レセンドははっと春陽を見る。驚いている暇はなかった。このままでは春陽までも死んでしまう。
 彼は硬い表情で、頷いた。
 ほっとしたように老医は王太子のもとを辞し、春陽を別のところに連れて行くよう指示した。
 それを呆然と見ていたレセンドの心は麻痺していた。
 春陽は何故、妊娠を隠していたのだ。いや、そうじゃない。何故流産してしまったのだ!
 そしてレセンドはどうしようもない事実に直面する。
 ───分かっている。わたしのせいだ。



       レセンドは生まれて初めて、慟哭した。





*   *   *



 悪夢の日から三週間が経った永歹の砦。
 この日、一時は死線を彷徨った春陽の容体が完全に落ち着いたというので、レセンド王太子は初めて春陽を訪ねた。
 知らぬうちに宿っていた自分と春陽の子供が、その存在を知ると同時に流れた。そのことはレセンドを驚愕させ、そして絶望させた。
 春陽が回復するまでにかかったこの三週間という長い時間は、レセンドが彼女に会う決意を固める時間という意味では、それでも足りない位であっ
た。しかし彼は自分の殻に閉じこもってしまいたいという誘惑に耐え、春陽の部屋に足を向けた。
 全てを終わらせ、彼女を解放するために。
 そう考えた途端、すうっと彼の胸に喪失感が漂ったが、彼は頭を振ってそれを追い出した。
 国王から和平の許しはまだない。だがそれは、父王が頑なに陽香進出に拘っているからではなく、病がいよいよ深刻となったために未だ報告が伝わっていないからだ。勿論、父王が健康ならば、絶対に許さないと言っただろうが、言えないのだからこっちのものだ。
 突然それまでの主張を一転させたことで、ソヴァンス公を初めとした人々の不審を買うことは避けられず、本国に戻っても一悶着あるだろうが、それはまあ仕方ない。万が一、再び小康を得た父王が文句とつけてきたとしても、陛下の健康が心配だったと言えば咎めは免れる。どうせそれでも長い命ではないだろうし。
 兵を引き上げるよい建前があって良かった。陽香は安定し始めた。本国には厭戦の色が濃くなり、財源は逼迫している。陽香から手を引くには、十分な理由だ。春陽の異母姉である緋楽公主が指摘した通りに。
 だがレセンドは、国民に対する建前が春陽だけには通用しないだろうと覚悟していた。それだけ自分が彼女を追い詰めたのだから。
 レセンドが春陽の部屋を訪ねると、春陽はまだ寝台の人であった。彼女は訪問者がレセンドであることを知ると、ついと顔を伏せた。
 真面にレセンドの顔を見ることは出来なかった。春陽は彼に対して、子供が流れたことに罪悪感を抱いていたのだ。
「身体はどうだ」
 優しく告げたレセンドに、春陽は小さく「大丈夫です」とだけ答えた。 その肩の細さに溜め息が出る。子供を身籠っていたとは思えぬ華奢さであった。
 依然として黒曜石の瞳を隠したままである彼女に、レセンドは胸に痛みを覚えながらも、なるべく穏やかに切り出した。
「お前には迷惑だろうが、もう少し我慢してくれ。今日は告げることがあって来たのだから」
「殿下………?」
 その台詞に潜んだ覚悟の音色に、春陽はただならぬものを感じて、一度は逸らした視線を再びレセンドに向けた。
 その不安げな春陽の様子に、レセンドは泣きたくなるような愛しさを感じた。しかし、否、だからこそ彼はひとたび固めた決意を翻さない。
「我が国は明後日を以て兵を引き上げる。お前を残して」
 春陽は弾かれたように身を起こした。
「何故………?」
 春陽はあるいは、責めるような顔をしていたのかもしれない。
 何故今更───引き返せぬ所まで来ておきながら、そのようなことを言うのだ、と。
 レセンドは春陽を見つめていた。
 言葉はなかった。言葉は春陽を縛ってしまう。
 もう愚かな行為はしないと決めてしまっていたから。
 彼とて、遅すぎたことは分かっているが。
「どうして、何もおっしゃらないの」
 春陽は、けれど彼女に似合わぬ卑小さで言葉を求めた。
 いや──わたしを選んでからというもの、彼女が彼女らしくあった試しなどない。
「わたくしは、貴方を殺せばよかったのですか………?」
 もしそうしたなら、わたくしは祖国を裏切らずにすんだ。
 目の前にいる人を必要以上に傷つけずにすんだ。
 縋るようにレセンドに視線をやると、彼は無言を守ってはいたがその表情が問いかけを肯定していた。
(ああ、何もかもが無駄になってしまう)
 わたしがこの人を選んだことも、祖国を裏切ったことも。
 レセンド王太子が今、戻れぬはずの道に戻るというのなら、何もかもが無駄になってしまう。
 ではわたくしが今まで犠牲にしてきた人々は?
 何もかも無駄だったというのなら、何のためにわたくしは!?
「そんな顔をさせたくてっ………」
 言いかけて、けれどレセンドは飲み込んでしまう。
 そんな顔をさせたくて言ったのではない。わたしはおまえを解放したいだけなのに。
(それほどまでに、罪深きことであるのか)
 ────祖国を裏切ったということは。
 彼女はすでに、祖国から許されているというのに。
 もう彼女は陽香に戻れぬのかもしれない。
 レセンドは初めて、思う。
 自らの罪に───その罪深さに押し潰されて。
 ならばその罪は春陽のものではない。
 彼女が罪を罪として認識し、苦しむのならば。
 わたしを選んだのは、彼女の本意ではない。罪と知りつつ手を染めたことでさえ、彼女の罪ではない。
 罪の在りかは、わたしにこそある。
 厳格で、自らの穢れをもけっして許せぬ彼女を、こうまで堕しめたのはこのわたしだ!
 わたしが春陽を殺そうとしなかったことこそが、全ての始まり。
 あのとき真剣に春陽の殺意に応じなかったこと。甘んじてその刃を受けようとしたこと、それが彼女を狂わせた。
 わたしは敵対者でなければならなかった。侵略者として彼女の前に現れたのだから、最後までそれを貫かねばならなかったのだ。なのに彼女の殺意の前に立ったわたしはすでに、彼女を想うだけの男だった。
 だからこそ彼女はわたしを殺せなかった。祖国への愛情に殉じることが出来なかった。断首台で命を落とそうと、わたしに返り討ちにされようと、春陽にとってそれが最期の誇りだったはずなのに。
 彼女を殺すことこそ彼女を救うのだと知らなかったわたしは。
 わたしこそが先に理を外れた。
 ああ、わたしはこの手で彼女を汚していった。
 何故それを甘美だと思えたのだ、わたしは!?
「終わりにしよう………」
 ゆっくりそう告げることが、彼の限界だった。
 いやいやをするように春陽が首を横に振ったが、もうレセンドは彼女を抱き締めることはしない。
 レセンドが逃げるように去った後、春陽はひとり取り残される。









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