緋楽の章(8)


緋楽の章 [8]





 相変らず戦況は一進一退し、両陣営ともにじりじりと消耗するばかりだった。
 戦地を見晴るかせる場所に張った天幕の中、血戦を見守るガクラータ陣営の官たちは、困惑していた。
 その様子を目立たぬ位置に腰掛けている春陽は静かに観察する。
 彼らは戦において、負けを知らない。
 貴族すなわち軍人たるガクラータにおいて、名将と呼ばれる貴族は数多い。しかしどのような名将であれ、王太子の武勇には届かない。彼は覇王を以って鳴らした父親の勇猛さは受け継がなかったが、代わりに怜悧な頭脳を持っていた。彼の指揮する軍は無駄がなく、力の乏しい兵士たちの寄せ集めだったとしても、なにかしらの戦果を上げた――今までは。
「これだけの力が陽香にあるとは……」
 不心得者の呟きに、同意まではしないものの咎めだてる者もいない。まさにそれは、繰り広げられる戦場を目の当たりにしたガクラータ人全ての心を代弁する言葉だった。
 一度、確かに自分たちの手で滅ぼしたと思った国であった。だが、陽香は新たな主を戴き、いまや同等の力を以って立ちはだかってきている。ガクラータは陽香を滅ぼしきることが出来なかったのだ。常勝と謳われたレセンド王太子の戦歴に瑕がついていくのを、本人よりもむしろ周囲が当惑していた。
(陽香はもとより、ガクラータもまた後がないのだわ)
 この戦の中にあって一番戦況を――そして外交を理解していたのは春陽かもしれなかった。彼女は一度は陽香の中枢に存在しながら、今はガクラータ王太子のもと、全ての情報を与えられている状態にある。彼女自身が厭うたとしても、彼女はその立場から逃れ得ることはない。また、もはやこの段階においてまで、厭うつもりもない。
(おそらく、この戦争は近いうちに終わる)
 ほんの少しの切っ掛けで、戦況はがらりと変わるだろう。
(そのときわたくしはどうしているのだろうか……)
 静かにそう思いを馳せたまさにそのときだった。
 注意深く戦場を見守っていた彼女の目に、とある光景が目に留まったのだ。――左翼に五線の隊列を組む千数百の騎兵が、やや中央から逸れ、外に向って散逸しはじめている。中でも、一番崩れているのはタイラ公爵率いる第十師団である。これは左翼の主力にあたる。
「いけない」
 春陽は扇をはらりと落とし、椅子から立ち上がった。突然の行動に、傍らに居たテイト・カサンナが訝しげな顔をした。
「……姫?」
「第十師団が、崩れかけています。いまに矛戟に狙い撃ちされるでしょう」
 四成大陸特有の武器である矛戟は、剣に比べ、間合いが長い。機動性には優れないが、鍛錬しだいで馬上では剣よりよほど有利な武器となる。
「タイラ公爵が陣地の取り合いで敗北すると、薄く張ってある中央が、陽香の主力に突撃されます」
 はっとして周囲の官たちは挙ってグラスを目に当て、陣形を注視する。背筋に冷たいものが走った。
「――早く伝令を! 左翼全体を配置に戻さなければ。第十師団の援護を!」
「今からでは間に合いません――被害は覚悟の上で、むしろ左翼をさらに左に移動させ、突出させてください。中央に突撃したころを見計らって、側面を突く」
 静かではあったが、鋭い春陽の言葉の意味に気づいた者が叫んだ。
「お前は……! 閣下を見殺しにせよと申すのか!」
「早く! ……タイラ公爵だけでなく、殿下まで失いたいのですか!?」
 間髪入れずに、春陽はそう切り替えす。暗に、どちらにせよタイラ公爵率いる軍は無事では済まないという意を込められた言葉に、瞬間官吏たちは押し黙る。
(これでは従うしか……あるまい)
 テイトは苦々しくそう判断した。王弟たるタイラ公爵を見殺しにするなど、臣下ではない春陽だからこそ言える言葉だろう。だが、春陽以上の案を出せる人間はここにはいない。
 果たして、誰もが無言の中、伝令の兵は春陽の言葉こそが従うべきものだと信じ、転びまろびつ遁走した。
 不本意ではありながら、人々は春陽の戦術の確かさを今では認めている。自分たちの半分の歳もない小娘を。春陽の策が当たるたびに、人々は彼女を信用し、そしてそれと同じぐらいだけの嫌悪を募らせるのだった。以前であれば、春陽の境遇に同情する者は密かに存在したが、今はいない。彼女は紛れもなく売国奴だった。それは、なによりも恥ずべきことと認識されている。
 春陽の孤立は深まってゆく。だがそれは、彼女自身の咎ではあるまい。おそらく彼女にその運命を齎したのは、レセンド王太子その人である。
 春陽が彼に、道を踏み外させたのではない。逆なのだ。レセンド王太子こそが、彼女を澱の世界に連れ込んだのだ。
(……哀れな人だ)
 テイトはそう胸の中で呟く。
 それは春陽に向けたのか、それとも王太子に向けたものなのか、テイト自身にも分からなかった。



*     *     *



(……暑い)
 軍服の下を汗が滴り落ちてゆく。
 馬が蹴り上げる土ぼこりが舞い、絶えず怒号が飛び交う。断末魔の悲鳴。嘶き。剣戟の音。全ての音が、すなわち死に直結している。
 血に狂った者がいた。理性を手放すことができず、悲愴な表情で槍を突き出す者もいた。あるいは職業軍人として、ただ無心に銃を構える者。
 肉が断ち切られる厭な匂いが風に乗って運ばれていく。あまりに酸鼻な光景に、己に付き従う親衛隊の新米の一人が、馬上で嘔吐しているのが視界の端に映った。
(愚か者めが)
 王太子は胸中で吐き捨てる。前線で身体を張る兵に比べれば、指揮者たる自分を守る任についている限り、戦地に立っていようとも、命の危険はまだしも低い筈である。なのに、何を怯えることがあるのか。
 そのような護衛は要らない。
 レセンドの中で、将には許されぬ衝動が湧き上がる。僅かな精鋭の兵だけを連れ――あるいは単騎のみで、皇太子旗めがけて斬りこみたいという馬鹿げた妄動。
 無論、そのようなことは無意味である。皇太子を殺せても、それでは陽香は滅ぼせない。
 分かっていても、衝動は消えない。むしろ、陽香を滅ぼすという想いよりも強く、己の春陽への情動を全て馬に託し、敵軍に向って駆けてゆきたいという思いが高まってゆく。
(――何を考えている、私は……)
 ぎくりとして、王太子は手綱を握り締めた。
 本当に、何を考えているというのだ。
 己もまた、血に酔っているのかもしれぬ。



*     *     *



「……よし」
 報告を受けた陽孔明は、小さく頷いた。遥か後方より指揮しているときならいざ知らず、臣下と同じく戦の只中にいる今は、自ら戦況を判じることはできない。冷静に分析する努力は惜しまぬつもりだが、個人の小さなたくらみなど通用しない大きなうねりに飲み込まれている。
 もたらされた報告は、ほぼ望みどおりのものだった。敵軍左翼が崩れてきている。
 計画は半ば成功したようなものだった。だがそれでいて、計画が成功するか否かは今の時点でさえ五分でしかない。そういう不確かなものに賭けて、人々は戦う。ただひとりの名将の活躍による勝利など、もはや古歌でしかない時代に入ろうとしていたのだ。それぞれ単独で存在した戦術が体系を成し、武を用いる人々にとって常識となったとき、武力は平均される。ガクラータと陽香はまさに、その代表のようであった。
「征け」
 淡々と伝兵に伝える。だがその声は馬の蹄の音に掻き消されることはない。雷に打たれたように伝兵は硬直し、そして叫んだ。
「玉令、しかと拝命いたします!」
 命が迸るような、今すぐ熱い血が流れてしまうような声だった。陽孔明は去っていく兵の背中を、ほんの少しだけ見つめた。
「……玉令、か」



*     *     *



 空気が変わった。
 突然胸を掠めた思いに、レセンドは馬上で眉を顰めた。予感と称しても不都合のない感覚であったが、実際のところそれは経験によって培われた観察力に他ならない。
 だからこそレセンドは刹那感じた違和感を気の所為と断じることはしなかった。すぐさま各軍に報告を求める伝令を遣わせる。
「……何が起こっている…?」
 そっと唇の動きだけで自問する。声に出すことはしない。大きく息を吸い、そしてゆっくりと吐き出した。落ち着け。呪文のように繰り返す。この先、何が起こっても、お前だけは落ち着け。たとえ敗北の淵に立たされても、けっして取り乱すまい。無様な醜態を晒すまい――私はガクラータ王太子だ。
 その命が尽きる瞬間まで。
 これで終わりかもしれない、とレセンドは思った。飽くほどに連綿と繰り返してきた戦いが、あっけなく今、幕を閉じるのかもしれない――突如現れたその想いが圧倒的ですらあり、王太子は全身が痺れた。
 ああ、やはりそれは予測などではなく、予感だったのかもしれない。
 ほどなくして、王太子に報告がもたらされた。
「申し上げます! 左翼が左方に散逸。中でも第十師団が苦戦し半数が死傷。タイラ公爵閣下負傷!」
「――怪我の程度は」
「詳しくは不明ですが、戦闘不能! 未だ、戦場を離脱できず!」
 どうすればいい。
 手綱を握り締めながら、レセンドは考える。
 もはや手遅れだと思う。敵兵は一度崩れたものを、そう簡単に戻させてはくれないだろう。右翼が敗れると、自動的に薄く張ってある中央が破れる。それはすなわち敗北だ。これまでのような小さな敗北ではなく、敗戦そのものだ。
 罵倒が喉の奥から競りあがってくるのを、歯を食いしばる。
(冷静になれ――戦の流れに飲み込まれている場合ではない! 俯瞰しろ。感情を意識から引き剥がせ)
 己に己で命令を下す。激情は時間にすれば、たった十数秒のことだった。
 そして彼が考え出した対策は、奇しくも情人と全く同じものだった。
(だが時間がない。果たしてここから指示を出して間に合うだろうか……!?)
 レセンドの焦燥は、しかし思わぬ形で消失する。彼が伝兵に新たな命令を下してから数分も立たぬうちに、彼の元に報告が届いた。
 曰く――元陽香公主・春陽姫の指示によって、レセンドの命令はすでに成されたあとである、と。
 レセンドはしばし、自失した。そのとき彼の胸に訪れた感情は如何なるものであったのだろうか。春陽への愛だろうか。哀れみだろうか。それとも単純にただ尊敬だろうか。
「……やられた……っ!」
 レセンドは笑った。
 以前、窮地にあるのは変わりない。だが、このときレセンドは心の底から笑った。笑わずにはいられなかった。それがどういう感情から湧き上がるものか自覚することのないままに。



*     *     *



 うわあああああ!
 怒号とも悲鳴ともつかぬ声が戦場を揺るがした。はっとして陽孔明は先を睨む。
「討ち取ったり!」
 左翼の戦いに勝利したのだ。高らかに宣言する自国の言葉に、いよいよ戦が大詰めになってきていることを知った。矛の先に掲げられる首級――おそらくタイラ公爵のものだろう。丹精な顔立ちが苦痛に歪み、切断された首の付け根から、血を滴らせていた。
 もはや合図は必要なかった。太子旗を掲げるよりもはやく、堤防が決壊するように陽香の主力が、ガクラータ中央に雪崩れ込む。
 血に酔いすぎている。兵士たちの意識が統一されすぎている。
 全軍の高揚が絶頂に達したとき、しかし陽孔明は言い知れぬ不安に苛まれていた。
(……なんだ、この厭な気分は…!)
 すべてはうまくいっているはずだった。不測の事態さえも自分のものとし、ここまでやっと漕ぎ着けたのだ。なのに、どうしても振り払える気がしない。この生暖かい不安の匂いを!
 陽孔明の恐れは、すぐに現実のものとなった。
 主力を注ぎ込んだガクラータの中央は、しかしあまりに手ごたえがなかった。兵たちが目先の勝利にとらわれ、浮かれ始めいたとき、ただひとり吉孔明は叫びだしそうになった。――逆に誘われているのか!?
(――図られた……っ!)
 知らぬ間に移動していた左翼が、攻撃に夢中になっている陽香の側面を突いてきたのだ。怒涛の勢いで押し寄せてくる敵軍を、捌くことなどできない。
 新たな活路を見出す術すらなく。
 泥沼の混戦となった。



*     *     *



「分かっていらっしゃるのですか」
 自分でもぞっとするほどの底冷えた声だとテイトは思った。この先訪れるかもしれない最悪の事態に、知らず身体はこわばる。――その責を春陽だけに負わせることはできない。自分たちもまた、彼女の案に頷いたのだから。それでも……あまりに、恐ろしい。
 我らの次期国王が、このようなところで失われるかもしれぬ。
「相打ちになるやもしれません」
「――ええ」
 きつく握り締めた手の白さを、テイトは見ない振りをした。
 彼女の感情を感じ取りたくはなかった。自分が戦の場で、ことさら春陽姫に冷たく対応するのは、彼女の理性に無意識のうちで依存していたからかもしれぬと彼は自覚した。王太子が戦の只中にいるとき、天幕の全権を任された己には、何にも動じない「筈」の春陽姫が必要だったのかもしれない。
 暑かった。
 まだ冬の匂いを残す筈だというのに、ここはなんとも言えず暑い。戦地より遠く離れている筈のこの場所に、しかし兵士たちの汗のにおいがと血の熱さが充満している。
 テイトは再び前を見た。彼に出来ることはもはやない。隣にいる姫を守ることすら出来ないだろう。まして死を選ぶ彼女を止めることなどもってのほかだ。テイトには戦を静かに見守ることをおいて他に出来ることはない。
 それは春陽にとっても同じことだった。彼女もまた、乱される心を抑えながら戦場を見詰める。もしレセンド王太子が戦死した場合、自分は逸った兵たちに殺されるだろう。そうなる前に、自ら命を断つつもりだ。――では。
(では、王太子ではなく吉孔明さまが亡くなったときは?)
 心が冷水に浸されたように、凍えてゆく。
「なんたることだ!」
 誰かの慄きが聞こえる。
「こんな……こんな戦いがあるか!?」
 戦術も駆け引きもなく、将も兵もなく、敵も味方もなく、勝利も敗北もなく、血と肉に塗れ、殺しあう。
 そこには混乱しかなかった。
 もはや、両軍は己たちの将を守るどころの話ではなかった。目の前の敵を殺さなければ、自分が死ぬだけの話である。弓や銃といった間合いの広い武器など到底使えない。相手の吐息すら聞えそうなほど兵士たちは接近し、己の持つ鉄で相手を屠る。
 両軍の抱える大将旗はどこにも見当たらない。泥沼の戦いの中で打ち落とされ、馬に踏みつけられたのだろう。春陽には見える気がした。土に塗れ、降ってくる血をただ染み込ませるさまを。それは、己を愛したふたりの男性の化身のような気がした。
 自分が誰の死を望み、誰の生を望んでいるのかも分からない。双方の死を望み、双方の生を望んでいるのやもしれない。自分で自分が分からない。指先が震えていた。滑稽なほどに。涙が溢れている。気がつかなかった。
 わたくしは。



*     *     *



 喉がひりつく。
 繰り返される大きな呼吸に肺が痛んだ。
 レセンドは喘ぐように大空を見上げる。馬鹿馬鹿しいくらいに晴れ渡った空。
 肩が焼けるように熱い。敵兵の剣先が掠めたのだ。誰とも知れぬ雑兵にこのような手傷を負わされたのは初めての経験であったが、それを屈辱と憤る暇はない。気を抜けば、剣の雨が降りかかってくる。陽香にとって、ガクラータ王太子たる己の死によって購えるものは、あまりに多い。
 生きなくては。
 強く思う。
 生きなくては。
 それと同じぐらいに強い思いがあった。ともすれば、凌駕するかもしれない。
 春陽の前に立たなくては。生きて、彼女に会わなければ。
 ――それから己がどうやって混戦の中から抜けだせたのか、ほとんど記憶に残っていない。
 ただ意識が白く、戦場はあまりに静かだった。ゆるやかに喧騒から隔絶される自分をレセンドは感じている。全身の感覚が、痛いほど研ぎ澄まされ、澄んでゆく。
 揉み合う両軍の中から飛び出したレセンドは一騎すらも護衛を伴わず、単騎そこにいた。

 敵軍の将・陽孔明と同じように。



*     *     *



 気がつくと、戦いの波から弾き飛ばされていた。
 誰かが身を挺して、己を庇ったようであったが、その者の顔を確認することは出来なかった。強烈に鼻につく血の匂いだけが彼の元に残る。
 逡巡することは出来ない。謝罪や死の誉れを与える暇もない。
 ――乱れた指揮系統を敵よりも早く元に戻さなくては。
 己の身を守るのは、唯一この手にした抜き身の剣しかないことを痛いほど自覚しながら、陽孔明は周囲を見回した。
 身体が震えていた。しかしおかしなことに、それは恐怖からではなかった。怒りからでもなかった。いずれ直面するだろう己の運命に対してのものだったのかもしれない。
 かつて、偉大なる父帝が崩じ、兄弟皇子たちが薨じ、国が滅びた瞬間でさえ自分はこのように感じなかった。例外は春陽が敵国にわたると知ったときだが、しかしそれは諦めに似た感情であり、今感じる震えとは違う。
 陽孔明は形容しがたき力に引きずられ、馬首を返した。

 そして背後に、敵国の王太子・レセンドを認めた。



*     *     *



 目が合った。
 彼らが互いをこれほどの至近距離で凝と見つめることは、これが初めてだった。
 彼らはお互いの瞳を、体躯を、迸る感情を、観察する。
 奇妙な沈黙があった。
 時間としては数秒。もしくは、一秒にも満たぬ時間だったのかもしれない。
 陽孔明はレセンドの瞳に浮かぶ狂おしさに縛された。
 レセンドは陽孔明の瞳に浮かぶ静けさに縛された。
 縛から抜けるのは同時。剣を構えるのもまた。
 未だ血の残る刃が太陽の元に煌いて、場違いな静謐さを見るもの全てにもたらした。
 キン!
 甲高い音を立てて、ただ一合切り結んだのみで、すぐさま離れた。
 それらは実際には素早い動きであったが、酷くゆるやかに思われる時間だった。



(――今私は陽香の皇太子と相対しているのだ)
 レセンドの中に、奇妙な感慨が生まれる。
 ――嗚呼、私は何故、陽香を滅ぼしたいと願ったのか。
 それすらも曖昧となる。
 当初は、春陽を絶望させることだけだった。彼女の縋る全てを破壊し、ただ自分だけを見詰めさせるためだった。彼女の目の前で沢山の陽香人を殺すはずだった。
 だが、どうだろう。
 今は、戦うためだけに居る。全てを終わらせるために。
 陽香を滅ぼしたところで、何も変わらないかもしれない。それでも、何かしらの決着をつけるためには、自分は戦いに赴かねばならなかった。



 陽孔明には、何故レセンドがそのような瞳をしているのかが分からなかった。
 己を見つめる彼のまなざしは憎悪とも、懐かしみともつかぬ不思議なものであり、陽孔明を困惑させた。
 憎悪ならまだ分かる。自分たちは、存分に殺しあった。このように生身で対峙することはなかったが、兵士という代理人を立てて、自分たちは憎悪しあったのだ。だが言葉を交わしたことなどない。彼と自分の関係は、戦をもって始まり、戦をもって終わるだけのものに過ぎぬ筈。そこに懐かしみの入る余地などない。
 しかし同時に、レセンドの思いが理解できないなど嘘だ、とも陽孔明は思った。
 自分は知っている。自分たちがこうして身を守るものなど何もなく、ただ一対一で向かい合う意味を。
 国と国ではなく、軍と軍ではなく、将と将としてですらなく、ただの陽孔明とレセンドとして。



 レセンドと陽孔明の対峙に人々はようやく気がつき、混乱は潮が引くように静まっていった。狂乱の代わりに言い知れぬ緊張感が場を包み始める。両陣営がそろそろと後退し、戦いは収束していく。だが、彼らは対峙をやめることはなかった。ただ向かい合う。
 斬り合うふたりを兵士たちは遠巻きに見詰めるしかなかった。加勢したくとも、下手に手を出して将を傷つけてしまうかもしれないという恐怖に駆られた彼らは、ただじっと手助けをする時機を窺うしかない。
 息を詰める音が聞える。
 誰のだろうか。雑兵のか、それとも目の前にいる男か、それとも自分のものか。
 彼らはわからなくなっている。
 灼熱のようであった戦いの熱が冷えていく。
 息を吸い、息を吐く。
 それが合図となった。
 同時に馬を走らせ、まず陽孔明の方から激しく剣をぶつける。それは斬るというよりもまさに叩きつけるといった剛剣であった。大半の力は受け流したものの、レセンドの手首はじんじんと痺れたが、無視する。そのまま刃を避けるのと同じ流れで馬を翻し、こんどはレセンドの剣が陽孔明の側面を狙う。これもまた、斬るではなく突くといった必殺の剣であった。だが、陽孔明もまた余裕で避ける。
 一合、二合、三合と同じ調子で切り結ぶ。それが十合目に達したとき、もう耐えられないとばかりに目をそらす兵が続出した。時間にしてみれば、数分のこと。しかし、十合も切り結んでおいて、まだ決着のつかぬ戦いなどそうないことだった。
 だが彼らは何も、相手の力量を探っているわけではない。一撃で殺せるような、そういう死の剣を以って挑んでいる筈だった。だが相手はいつまで経っても死なない。自分もまた、もうだめだと思っても倒れない。剣の刃は毀れ、使い物にならなくなっていく。自分がつぶれるのが先か、刃がつぶれるのが先か。
 勝負の流れが変わったのは、十六合目を打ち終わった後だった。向かってくる鋭い剣をなんとか避けた陽孔明は、レセンドの背後に回りこんだ。あわててレセンドも対応しようとするが、少々遅い。陽孔明は無理な体勢になるのもかまわず――なんと、馬の尻尾をつかんだ。
馬が激しく嘶いた。
(――嗚呼!)
 声にならない悲鳴を人々はあげる。
 暴れはじめる馬に、落馬の危機感を抱いたレセンドは必死に手綱を取ろうとする。そうはさせじと勢いづいて、陽孔明は剣を繰り出し………、



 ―――ドサ。



 砂埃が舞う。
 乾いた音を立てて、落馬したのはレセンドではなく陽孔明だった。
 彼の背中には、二本の矢が生えていた。
 続いて、恰も復讐するかのように今度は陽香の矢がレセンドを貫く。
 敢え無く落馬するレセンド。
 項垂れ、意識を失っているそれぞれの青年の姿を人々は凝視する。


 時が止まり、沈黙は極まった――耐え難いほどに。
 赤黒いものが大地を染めて、いっそ美しくさえあった。









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