緋楽の章 [7]
再び始まったガクラータとの交戦から、はや一カ月と半が経った。この頃には気温は暖かくなり始め、冬の間枯れていた木々が若葉を茂らせ、まさしく春となっていた。
このころより、両軍に疲れが滲み始めた。
緋楽の元に随時届けられる報告によると、両国の戦いは膠着し、小競り合いが続いているということだ。どちらかが小さい勝利をあげると、次にはもう一方が勝利するといった具合に、双方ともに決定打に欠けるのだという。陽孔明はどうしてもガクラータ王国が拠点としている砦まで辿り着くことが出来ずにいたし、逆にレセンドの方も紀丹宮への道を陽香軍に阻まれ、前進することが出来ずにいた。
開戦した開輪二十三年より、今年で四年。昨年ついに勝敗が決した形となったが、ここにきてガクラータがランギスという伏兵に背後を攻められたことで、陽香は再び国を取り戻し、全て振り出しに戻った。四年の戦乱は、兵を倦怠に包むには十分な時間である。
一方、紀丹宮は慌ただしいままであった。
皇太子・陽孔明が出兵すれば、紀丹宮に残った文官の仕事は終わるというわけではない。宮廷では戦地から様々な報告が成され、それに基づいて物資や人材、そして情報を送るという仕事がある。また戦いの隙をついての他国の干渉を、陽孔明に代わって防がなければならない。
次々と運び込まれる報告を聞き、それを頭で選別し、兄に知らせるか自分の権限内で処理するかを決める。今まで、政治に関わったことのなかった彼女には言うまでもなく重荷である。それでもやらなければならなかった。
淡々と仕事をこなしていく緋楽の姿を、百官はどこか畏敬の念すら抱いて見守っていた。緋楽自身、はじめは彼らに学ばねば何一つ政治のことなど分からなかったというのに、日に日に自分が彼らの頼りにされていくのを感じていた。
宰相たちの権限を越える決定の際には、緋楽がひっぱり出されることも多かった。緊急の問題が持ち上がったときが主だが、それ以外でも彼女の名前が必要とされる場面は意外に多い。そういうとき、緋楽が立派に勤めを果たすものだから、今や彼女の存在は不可欠なものとなりつつある。
文官たちに若い娘の下で働くことにさほどの違和感や反発はなかった。陽孔明は日頃から緋楽の言を重く用いていたし、緋楽は陽孔明に次ぐ身分を紀丹宮内で保持していたからだ。また、以前に監国となったやはり小娘である春陽の指示で宮廷が動いたという前例があったためでもある。
緋楽は内政に目を光らせ、他国に足元を掬われないように努めながら、戦いの行く末を見守っていた。
冷静に。冷徹に。細心と大胆さを以って。
――胸の中に息苦しく沈殿してゆく想いを、押し殺して。
数日後、赫夜が朝楚に出立する日がついに来た。絮台にいる螺栖新女王に、必ず戻ることを彼女は約束しており、とうとうその日が来たのだ。
「行ってしまうのですね」
緋楽は、出発前の挨拶をしに自分の元まで来た赫夜に、名残惜しげな眼差しを向けた。そんな異母姉に赫夜は申し訳なさそうな顔をする。
「姉さま………。このような時期に国を出るなど、本来はすべきではないのでしょう。けれど女王陛下にとっても今が一番大切なときで、かの方を支えることが結局陽香のためにもなると思います」
「ええ、わかっているわ。貴女の判断をわたくしは疑わない。寂しいと思ってしまうだけ」
優しい異母姉の言葉に、赫夜は敵わないな、と思った。かつて自分が持っていた劣等感を克服した今でも、その思いは変わらない。このような辛いときでも、この女は人を気遣い、微笑むことが出来るのだから。
───緋楽の葛藤は見事に隠しきられ、赫夜が気づくことはない。
(ねえ、春陽……)
赫夜と別れを告げた後、ひとり長椅子に凭れ掛かりながら緋楽はひとりごちる。
(わたくしは三度、妹を殺すの)
思えば、あれからずっと気が張っていたのだと、近頃緋楽は思う。
国のためなればと、春陽を死地に送り出し、人質に取られた赫夜を見殺しにした。深く嘆くことはあっても、その選択を迷うことはなかった。迷うことは出来なかった。自分は、公主だから、と。
けれど、今のわたくしに、同じことが出来るだろうか。
一度切られた糸を再び張ることは出来ない。
わたくしの弓糸は、春陽の死を受け入れた赫夜と兄上の姿に、ぷつりと切れてしまった――。
馬鹿なこと、と緋楽は自嘲する。強くあれ、ときに非情であれと兄に迫ったのは自分だ。だが、自分が一番弱かったのではないのか。割り切れず、どこまでも妹を追い求め続ける兄の姿に、どこか安堵していたのではないか――。
自分だけが、非情であれば良かった。兄には、いつまでも変わってほしくなかったのだ。本当は。
愚かなのは紛れもなく自分だ。
赫夜が紀丹宮を出ていき、朝楚女王の元に身を寄せ始めてから、ますます緋楽の気鬱は進んでいった。精神的に弱くなっている今、陽香の内政の責任を一手に負うことは、いくら優秀な家臣が揃おうとも、彼女に消耗を強いた。
それでも彼女は鉄の女の鎧を纏う。それはときに、鎧でありながら彼女自身を傷つける拘束着と成り果てたが、いまさら脱ぎ捨てることなど出来るわけがなかった。緋楽がそれを手放せば、陽香の要たるこの城はたちまち危うくなる。軍ではなく、内政から瓦解するだろう。
(……天子とは……)
もはや、人間ではないのかもしれない。
こうやって、国主の代理をしはじめて彼女が改めて気づいたことである。それは、国を背負う父や、それを継ぐはずであった今は亡き陽征――そして春陽の姿を見て、以前からうすうすと感じ取っていたことであった。
もちろん、自分とて女であり人間である前に、公主である。必要とあらば、その身を投げ出す覚悟はある。だが、天子に負う責任とは、それと比べ物になどならないだろう。
金に紫の布がかけられたあの玉座に座っている限り、まともな人間にはなり得ない。まともな恋など、愛情などに浸れるわけがない。いつ、それを壊すかもしれないというのに。
刹那、激情が緋楽の中で迸った。
この世に生を受けて以来ともいうべき嵐が、身体の中で吹き荒れた。
「……どうしてっ……どうしてわたくしは……っ!!」
なぜ、血を分けた妹の命を選んでやることが出来ない。
涙は流れてこず、嗚咽だけが漏れる。こんなときにも涙が出ないのか。
酷く身体が消耗しているのが分かる。
牀に崩れ落ちるように横になった彼女は、切ない気持ちで瞳を閉じる。
消えてなくなってしまいたかった。このまま息絶えれば、優しい思い出だけを手に旅立てるものを。
近頃良く眠っていなかったせいだろう。 牀に身を任せていると、少しずつ睡魔が忍び寄ってきて、彼女の瞼を閉じさせた。
天はまだ滄い。
だが、疲れきっていた緋楽は、どうしても政務の続きをしようという気持ちにはなれず、ただその眠りに身を任せる。今はただ、泥のように眠ってしまいたかった。
意識を手放す瞬間、花の香りに包まれたような気がした。
* * *
(花の香りが………)
仄かに。あるいは噎せかえる程に。濃淡のある香りは、緋楽の記憶を撹乱し、混沌と溶け合い、だが鮮やかに蘇らせる。
そして夢の訪い。
───春夜。
緋楽がまだ十二であった、過去のあの日。
異国の色とりどりの花ばかりが咲き乱れる庭園で、泣いている青年がいた。いや、まだ少年と呼べぬこともない。
彼の長い髪と頬を照らす月の光は、紗が掛かったかのように淡い。
「征太子さま………?」
見知った者であると知った途端に緋楽は思わず声をあげ、しかしその瞬間にでも後悔した。
目の前にいる少年とも青年ともつかぬ人が、わざわざ夜のこの場所を選んで、忍び泣いていたのだ。迂闊に声をかけてよいはずがなかった。
征太子とは皇太子・陽征の通称名である。
「緋楽殿」
彼もまた驚いたような顔をして振り返った。兄や自分とよく似た、つまりは父帝によく似た顔立ちである。同性である分、自分より兄の方に近いかもしれない。だが醸し出す雰囲気は兄とは全く別物であった。優しげで穏やかそうな柔和な頬の線。時折見せる眼差しの鋭さがなければ、容貌が酷似していることにさえ気づかなかっただろうと思わせる。
「あの………申し訳ございません」
後ろめたくて、緋楽は恐る恐る謝った。
陽征は、自分の涙を盗み見たのが幼い少女であったことに、少し安堵したようだった。
「どうなさったのです、このような夜に。いくら宮の中で警備が厳重とはいえ、完璧というわけではありません。女性がひとりで出歩くものではないですよ」
陽征はそう微笑んだ。年下であり、身分も自分より下の緋楽に向かって、皇太子である彼がそのような丁寧な口調で話しかけるのは、異母ということに遠慮している以上に、その性格が原因していた。
穏やかで誠実な陽征。
緋楽はそんな陽征の瞳に涙が消えたことから、自分の存在が、彼から完全に泣く機会を奪ってしまったことに気がついた。人の目から逃れることで、征太子さまはようやく泣くことが出来たというのに。
緋楽の胸は罪悪感で胸がいっぱいになった。
「そうですね、わたくしもう帰ります」
陽征のために緋楽はそう言ったのだが、彼はならばと申し出た。
「わたしは先程危ないといいましたよ? お送りしましょう」
「そんな………。ここは王宮です。わたくし一人で大丈夫ですわ」
「無茶を言わないでください」
慌てて辞退しようとする緋楽に陽征は苦笑した。それから少し躊躇しながらも彼は手を差し出し、緋楽もまた戸惑いながらも掴まった。
彼女はこの異母兄を、今まで線の細いように思っていたが、その手は武器に馴染んだ、男の掌を持っていた。
「………緋楽殿には、みっともないところを見られてしまいましたね」
しばらく歩いていると、陽征はそう切り出した。
征太子さまの涙の原因が気になって仕方ないわたくしのために、教えてくれるのかもしれない。そう考え、緋楽は激しく自己嫌悪した。
「実はちょっと自信を失っていたのです。とても皇太子としての才覚があるようには思えない自分に苛立って」
自嘲するように陽征は言った。
しかしその様子は、先程ひとり涙していたときとは比べものにならないくらいに冷静で、穏やかで、忍耐強かった。ほんの少しの動揺すら読み取らせぬほどに、それは徹底されていた。───けっして人前では弱さを晒け出さぬように。
それは尋常でない精神力が必要なことのはずだ。
(本当は勁い人、なのだわ………)
初めて見る陽征の一面だった。冷徹なまでに、自分を律し、哀しみを押し込める。それは己が皇太子であるという自覚から来ている振る舞いではないだろうか。
なんて禁欲的な。
「誰も彼もが父上のようには出来るわけではありません」
慰めるように言った緋楽に、陽征は唐突に立ち止まり、尋ねた。
「緋楽殿は父上のことをどのように思っていますか」
「尊敬できる、勁いお方だと思っています」
条件反射的に、訝る前に緋楽は即答していた。
「………そうですね。天子であるに相応しい、素晴らしいお方だ」
ゆっくりと、陽征はその言葉に同意する。しかしそこに別の含みがあると気がついて、緋楽は陽征を見た。
月の下で、陽征は何処か人を拒絶するかのような雰囲気を纏っていた。
「けれど………」
自分と視線を合わせず前だけを見ながら、彼は呟く。
「父上は哀しい人だ」
───緋楽が皇族が負うべき責任の重さと、国を統べる者の孤独を知ったのは、この瞬間だった。
* * *
最低な気分で彼女は目覚めた。
緋楽の手のひらは、握り過ぎた爪で傷ついている。絹糸のような踵までの髪はほつれ、艶を無くしかけていた。
悲しみというより、純粋な苦しみが再び緋楽を襲う。
────何故。
それは声にはならなかった。
何故、わたくしたちは。
ただ笑い合うことすら、許されないのか。
───わたくしは本当は弱い。おそらく兄よりも。
偉そうなことを言えた身ではない。装っていただけだ。
目覚めても尚、なかなか牀より起き上がることをしなかった緋楽を、そのとき訪ねた者がいた。叩扉の音を、はじめは無視しようと思ったが、この部屋にいることは周知のことだ。しかたなく誰何すると、相手は国衛であった。彼は父帝が重用した能吏であり、現在はその有能さゆえに陽孔明に紀丹宮の留守を頼まれた男である。
緋楽は重たい溜め息をついた。
何か、公主である自分の名前の力を必要とする事態が持ち上がったに違いない。だが今はとても、そのようなことをこなせるとは思えない。
出直して。――そう言おうとして、しかしその言葉は音になる前に緋楽の喉に引っ掛かり、そして消えた。彼女の身体は自身の意思すら無視をして立ち上がると、裳や髪の乱れを正す。
刹那、緋楽を染め上げたのは己に対する驚きか、嘆きか。
やめてしまえばいいのだと、内なる声は緋楽を誘う。国のことなど今は忘れ、ただの女として、泣けばいいのだ。
(………それでも、わたくしはまだ)
気がつけば選んでいた自分に、選ばずにはいられなかった自分に、緋楽は千々に引き裂かれそうな苦しみを覚え、しかしこのとき彼女は心の叫びさえも封じられていた。
(装い続けるのか)
彼女はふと昨晩の夢を思い出した。
自分を律するため、本来の姿を殺そうと足掻いた征太子。
彼の本当の苦悩を………今なら分かる。
緋楽はその頬に苦しい笑みを刷くと、次には毅然とした態度を取り繕い、自ら扉を開ける。
「どうなさいましたの?」
わたくしは、わたくしの道をゆくしかないのだ。
* * *
現在、ガクラータ軍は永歹という名の砦を拠点としていた。
――静か、だった。
どの侍女が話相手になろうと、どの兵士たちが騒ぎ立てようと、静けさを拭い去ることはできなかった。
もう二度と、この国には来たくなどなかったのに。わたくしは彼の要求に背くことがどうしてか、できない。
今回レセンドが春陽が陽香に連れてきたのは、彼女の目前でこの国を潰す、という当初の思惑よりは、一時も春陽を手放せないということの方が理由としては濃い。
今が何月の何日であるのか、再び戦いが始まってから幾日ぐらいが過ぎるのか、ともすれば忘れがちになる。
望まれることがあれば戦いの趨勢を予想し、助言してきた春陽は、その知識においてはガクラータ人たちの信任を得るに至ったが、それと比例するように、彼らが彼女を見る目はますます憎々しいものとなりつつある。それまで彼女の境遇に同情していた者さえも、売国奴めと彼女を蔑んだ。
だが、どれほど軍議に参与しようとも、春陽の手からこの戦いの現実感が遠く乖離するのを留めおくことはできなかった。これではいけない、見届けなければ――そう思う傍から、心がともすれば空に散っている。知らず、現実逃避しているのだという自覚は、あった。
「姫………さま?」
エーシェが声をかけてきたので春陽は顔をあげた。ふたりで茶を楽しんでいる最中に、思惟に耽ったしまった自分を心配したのだろう。
エーシェがここにいるのは、春陽の精神状態を心配した王太子の計らいだった。前回の出兵のときに春陽が何度も呆然自失した場面を目にしてきたレセンドは、彼女の精神状態に気を配らないわけにはいかなかったのだ。ならば彼女を陽香に連れてゆかなければいいのだけのことだが、もはやレセンドには春陽を手放すことすら出来ないのだった。
「大丈夫………なんでもないわ」
何度目かになるエーシェの問いかけに、同じ回数だけの同じ答をしてきた春陽は、今回もそれを準えた。侍女というものには主人の言葉が絶対なので、春陽が大丈夫といえばエーシェはそれ以上の言及は出来ないのだった。それゆえ春陽は申し訳ないと思いつつも、エーシェの心配をこれまで悉く撥ねつけてきた。
だが今日のエーシェは、いつものように引き下がらなかった。常に滑らかな光沢のあった春陽の柔肌がかさつき、黒曜石の瞳に力が失せてゆくのを目の当たりにするのは、もはや耐えられそうになかったのだ。
「それほどにお辛いのでしたら、姫さまだけでも殿下に御帰還のお許しを願ったらいかがでしょうか」
帰還。わたくしにとって本来、それは陽香に対して使うべき言葉。なのにその言葉を抵抗なく受け入れている自分がいた。わたくしはもう、陽香の人ではないのか。
「出来ないわ。わたくしはこれから目を背けるわけにはいかない」
これは間違いなくわたくしの愚かな行動から出た結果。
「………なれば」
エーシェは次の言葉を口にするために深呼吸をした。本来、侍女にすぎない自分が口にしてよいことではないと自覚しているからだ。
「戦い自体をやめていただけるよう殿下にお願いすれば………」
「エーシェ!」
初めてともいえる春陽の叱責に、反射的に謝罪の言葉を口走りそうになりながら、しかしエーシェは前言を撤回しなかった。
「姫さまがお願いなされば、あるいは王太子殿下は剣をお収めになられるやもしれません」
真剣なエーシェの言葉に、春陽はすぐに彼女を叱責したことに自己嫌悪した。だがエーシェの言葉を受けはしない。
春陽にも分かっている。正しいのは、エーシェだ。ガクラータが陽香から手を引けば、わたくしはこれ以上、祖国と王太子との間で板挟みになることはないし、両国の血が無駄に流されることもない。ゆるやかに傾き始めているガクラータ王国も今なら再生が容易く叶うだろう。だがそれは出来ないのだ。レセンド様は、わたくしは、けして。
何故ならレセンド王太子は餓えているから。陽香を滅ぼしわたくしの大切な人を殺すことで、心の平穏を保とうとしている。わたくしでは、本当の意味での安らぎをあの王太子に与えることは敵わない。わたくしの存在はかえって彼に猜疑心を植え付けただけだ。
そしてそんなわたくしは、祖国ではなく彼を選んだ時点で、もうレセンド王太子を否定できなくなったのだ。彼を全面肯定するほどの決意なくして、祖国を捨ててまで彼を選ぶことなど出来ようか。
「………無理を申しあげました。お忘れくださいませ」
結局、最後にはエーシェはそう言うことしかできなかった。死んだ花鳥のように、春陽を癒すことが出来ない自分を知っている彼女は、哀しかった。だがそれを表に出さないようにと努める。
「ですが姫様。せめて薬湯は飲んでくださいまし」
その薬湯というのは、もともと陽香のもので、薬効が確かだというのでガクラータ王国まで伝わったものだ。全身の血の巡りを良くし、老廃物の代謝を良くし、沈静効果がもたらされる。よく効く代わりに味や香りもきつい。春陽も苦手としていた。
それをよく承知しているエーシェは場を明るくするために、わざと冗談めかした微笑みを浮かべて、好き嫌いしないでくださいね、と春陽にお椀を差し出した。いつもなら春陽は嫌そうにしながらもおとなしく飲んだのだが、このときは躊躇した。
「………いえ、薬湯は」
この期に及んでまだ、体調は良いから薬は必要ないとでも言うつもりか。エーシェの表情は自然と厳しくなる。
「姫様。わたし、これだけは引き下がれません」
「違うの。分かっている、わたくしは確かに本調子ではないわ。だからおとなしく横になる。けれど今のわたくしに薬はよくないわ」
「姫様?」
薬を飲みたくないばかりに言い逃れするような子供っぽさは春陽にはない。ならば春陽の言葉は本当なのだろうが………。
納得いかないというふうな顔付きをした侍女に、もはや隠してはおけないことを春陽は認めぬ訳にはいかなかった。どのみち、いずれこのことは周知の事実となる。それでも、どうしても口にすることは憚られた。
「如何なさいました」
女主人の不自然な沈黙を訝って、エーシェは問いを重ねた。春陽は覚悟を決める。
「わたくしは………」
春陽の告白した事実の大きさゆえに、エーシェが目を瞠る。
* * *
「……ったく、やってられねえよなぁ」
「あーあ、早く国に帰りてぇ。こんな国を手に入れて、なんになるんだか」
テイトの部屋に向っていたレセンドは、突然聞こえてきた粗野な声に、無意識に足を止めていた。王宮でなら、一兵卒と廊下で鉢合わせることなどありえなかったが、ここは戦地であり砦だ。王太子である彼と軍で一番下の階級となる彼らの敷居は、限りなく近くなる。
どうやら、子爵であるテイトの部屋の前を見張りしている兵が、仲間の兵と長引く戦について愚痴をこぼしているらしかった。
(……そうか)
レセンドは、咎め立てせずにその場を静かに引き返した。下手に叱責して、狭量を見せ付けることもあるまい。恐怖で軍を掌握できるとも思わぬ。彼らを戦に酔わせるのは、褒賞と戦果に他ならない。
しかし、そう己を納得させてみても、胸に残る忸怩たる思いは消えそうになかった。
見晴るかせる戦場。
慣れと倦怠に浸る兵卒。
ここで賭けられ、失われてゆくものは生命だということを、忘れたがっているかのようだ。
肌寒い風がレセンドを嬲り、過ぎてゆく。
彼の銀の瞳は尚も荒々しさに縁取られ、熱が滾るというのに。
(わたし、だけか)
挑むように、自嘲するように、彼は胸中で呟く。
───戦いを望む者は、もはや。
誰もが平穏を望むようになってきている。
眼差しを前方へやれば、じりじりと前線が押されているのが見えた。
持ちこたえることが出来るか。反撃の糸口はあるのか。
彼がそれを算段したのは、一瞬の間だけのことだった。常人の倍の早さで動く彼の脳は、すぐに答えを弾き出す。
不可能だ。この陣は敗北する。
そうと決まれば、後は動くだけだ。
彼は退却を指示した。
ガクラータ軍が退き始めたのを感じた陽香兵たちは、しかし勢いづいて深追いすることはなく、それゆえ両国はその日はそれ以上、剣を合わせることはなかった。
だからこそ、決着がつかない。
非常に統率された、おそらく四成大陸一である陽香軍。だが初めての交戦のときは、ここまで脅威ではなかった。勿論、他の四成大陸諸国に比べれば、ずっと強かったはずだが、それでも陽香兵たちは平和が長く続いたために、戦に慣れていなかったのだ。それがわが国と張り合うまでになったのは、徹底的なまでの軍事教育を施されたからだろう。
そう考えたレセンドは、ふと思い至った。………自分以外の戦いを望む存在を。
(皇太子・陽孔明だ………)
彼もまた、自分と同じく戦いを望んでいるはずだ。陽香軍は、慎重で冷静でありながら、ときに苛烈で容赦なく、条件さえ整えば好戦的でさえある。陽香軍に皇太子以外の軍師がいたとは聞いていない。間違いなく、あの陽香軍の攻め方は、そのまま皇太子の意志であると思われる。
彼がこのガクラータを倒すことを強く願い、それだけの労力を払っているのだと分かり、レセンドは少し───安堵した。
* * *
(今日は勝てたか………)
陽孔明の表情は、しかしけっして晴れやかとは言えなかった。
かろうじて勝ったとはいえど、陣地を僅かに取り戻しただけ。戦果を挙げたとは、到底言えない。
これでは消耗戦である。徒らに民の命を捨てるようなもの。互いに少しずつ兵力を減じてゆくだけで勝敗がつかない。嫌な展開だ………。
それでも、陽孔明は鮮やかに笑って見せる。兵士たちに向けて、偉大な皇太子を演じる。
もはや、ガクラータなど問題ではないのだと、言い切ってみせる。そこに疲れはない。まして、痛みなど存在するはずがないのだ。なぜなら自分は時期皇帝。そんなものを感じる筈のない人間……。
春陽が自ら望み、身を寄せている国に刃向かう。それは、自分の中で解決したこと。もし彼女が人質になったとしても、自分は譲歩することはできない。そのときは、春陽の命が散るときもそのときだろう。自分はもはや、選択してしまった。
許してくれとは言わない。
ガクラータへ渡ることが君の選択ならば、かの国の人となったのも君の選択だ。わたしは、この国の為に戦う。最後に見せた君の涙を信じているから、それに報いるために。
いや、違う。ただ愛しているのだ。
君への愛ゆえに、この国のために生きるのだ。他でない、君が愛した国ゆえに。
兵士たちの、自棄にもにた歓声が陽孔明を包む。小さすぎる成果はともかく、勝ちは勝ちだ。今夜は祝杯をあげなければならない。
* * *
そうして動乱の中で生まれた停滞は、再び竜の紡ぐ流れによって払拭されようとする。
それを望む者も拒絶する者も区別なく、流れは全て呑み込んでゆく。
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