緋楽の章(6)


緋楽の章 [6]





 この血が彼の国の要たる一族に組み込まれることをわたくしは恐れる。
 この血肉は四成大陸のもの。
 陽香国のもの。
 吾が子もまた、彼の国の者にはなれはしない。
 緩慢な狂気が宮を包み、やがてわたくしは傾国の妖女となる



* * *



「な……何を」
 赫夜の言葉に、はじめ陽孔明は何を言われたのか分らぬ、といった顔をした。緋楽は、すぐさま目を背けたい衝動に駆られながらも、固唾をのんで見守る。――兄の受けるだろう衝撃を慮り、胸を痛めずにはいられなかった。
「あの娘はいまや、身も心もガクラータ王太子の愛妾と成り果てました」
 赫夜は、以前再会したときの春陽の変貌について語った。また、緋楽もまた、それを補足する形で、ガクラータに密使として送った朝楚人の楽師・洞垣堆の報告を告げる。
 ふたりの妹から次々に明かされる事実に、陽孔明は眩暈のする思いだった。
 ―――彼女たちは、いったい何を言っているのだろう。
「馬鹿な……」
 彼が思い浮かべるのは、未だに脳裏に焼きつく、最後の夜の記憶である。出兵前夜、彼のもとを訪れた春陽。不安を必死で押し殺し、目に涙を浮かべることなかった彼女が愛しくてならなかった。抱いたその肩は華奢で、伏せた睫の先まで、なにもかもが清かった。
「……ありえない」
 そう陽孔明が呟いた途端、その答えをすでに予想していた赫夜は間髪入れずに告げる。
「事実です」
「……っ!」
 思わず玉座から腰を上げた陽孔明は、しかし寸でのところで己の衝動を押さえつけ、再び座った。それを見詰めていた赫夜は、少しずつ痛みが胸に沈殿してゆくのを感じながらも、続けて口にした。
「前回のガクラータの進軍のときに、春陽がこの王宮に滞在していたのは短い期間でございますが、それでも何人かの陽香人と接している筈です。彼らに確かめてみればよろしゅうございます。――そうですね、傀儡の皇帝にしたてあげられた那尖さまなどはいかがでしょう。彼ならば、春陽と接していた筈でございますから。おそらく彼らもわたくしの言葉を裏付ける証言をしてくださいますでしょう」
 ほろ苦く微笑んだ赫夜の、あまりに確信に満ちた言いように、陽孔明は酷く混乱した。
 ありえなかった。
 国に自ら殉じようとするほどに、この国を愛した春陽が裏切りをおかすなんて――。
「たとえ」
 陽孔明は、低い声でそう言う。
「たとえ、万が一春陽が敵国の王太子と恋仲であるのが事実であろうと――春陽がこの国をもはや愛していないということだけは、ありえない」
「……お言葉を返すようですが……っ」
「言葉を慎みたまえ、公主!」
 激高のままに一喝すると、たった三人きりの政務室がしんと静まり返った。だが、それでも赫夜の視線は彷徨うことなくしっかと陽孔明を定めている。その強い力に、はたと我に返った陽孔明は、戦慄きそうになるのを必死で耐えながら、なんとか言葉を振り絞った。突然怒鳴ったせいで、喉が僅かに痛む。
「……申し訳ない」
 そして、祈りのように、叫びのように、渇望を込めて彼は語る。
「だが、赫夜公主。わたしにはどうしても、それが納得できないのだよ。恋とは、なるほど意志の力で左右できぬもの。春陽が敵国の王太子と恋に落ちたというのならば、それもありえよう。だが、春陽が国を愛する心までが、容易く失われるものだとは、わたしには思えない」
 口にしながら、陽孔明は暗い思いに囚われた。赫夜に告げた通り、春陽は己の恋人でありながらも、陽孔明は春陽と敵国の王太子の関係について、ありえぬ話ではないと考えていた。そう、恋とは意思でどうにかなるものではない。わたしが、血の繋がった春陽への思いを断ち切ることが出来なかったのと同様に。
「……少し、独りにしてくれ」
 力なくそう陽孔明が口にしたので、緋楽と赫夜は黙って退出した。



 皇太子の前を辞したふたりは、そのまま緋楽の自室に向かった。
 緋楽の自室は、一年前の別れのときと全く変わっておらず赫夜を浅からぬ感傷の海に引き摺りこもうとする。遠い異国で織り成された敷物。朱とはまた違った不思議な赤で塗りたてられた美しい柱。春陽が緋楽に送った鬣の美しい想像上の生き物の銅像。変わらぬ麝香の匂い。
 それでも、浸ることはできなかった。赫夜は憂鬱な思いを振り切ることが出来ぬまま、緋楽に言った。出来れば、このようなこと口にはしたくなかったのだけれども。
「姉さま。口にすることも憚ることだとは承知しておりますが、敢えてお尋ねいたします。それがわたくしの邪推であったのならば、お許しくださいませ。───もしや陽孔明さまは、春陽に特別な感情を抱いていらっしゃるのではありませぬか?」
 異母であり、また春陽のように姉妹の契りを結んでいるわけでもないため、赫夜は陽孔明を兄とは思っていなかったし、実際、兄と呼んだことはなかった。それほどに関係が希薄な自分でさえ、気づいたのだ。姉が気づかぬはずがない。
 そういった視線を込めて赫夜が緋楽を見ると、彼女はただ黙って嘆息した。肯定したも同然だった。
 だが赫夜はそれが禁忌であると非難することはなかった。そのようなこと、目の前にいる異母姉のみならず、陽孔明にしても承知の上だろう。
 そのかわり溜め息のままに言葉を紡ぐ。
「ならばわたくしよりも、春陽のことを信じたくなるのも頷けます」
「けれど赫夜。兄上が春陽を信じるのは、春陽を身贔屓してしまうからだけではないのですよ」
 抗弁したのは兄の名誉のためでもあるが、彼女自身もそうであったからである。春陽を信じたいという自らの願望を抜きにしても、彼女たちは春陽を信頼、もしくは理解している。
 赫夜が嘘を言っているとは思わない。また、赫夜の聡明さを考慮すれば、的外れな勘違いをしているとも考えられない。しかしそれでも、彼女たちはどうしても春陽のことを信じている。
「春陽が陽香を裏切っているのは事実かもしれない。いえ、事実なのでしょう。それでもわたくしは、春陽が本心から陽香を裏切っているとは思えません」
 春陽が本気で陽香を裏切るのならば、陽香はとっくに彼女によるなんらかの罠に嵌まり、抜き差しならぬ事態に陥っていてもおかしくないのではないだろうか。
 もし自分が春陽であれば、己が陽香を裏切っているという事実をなるべく隠そうとするだろう。その方が身動きが取りやすいし、何食わぬ顔で陽香に帰還し、罠を張ることもできる。それは彼女には容易いことのはずだ。
 緋楽は知っている。術数権謀渦巻く宮廷の中、春陽が己の身を守ってきたのは何も武によってだけではない。宮廷人としても、春陽は確かに類まれな能力を有していたのだ。その彼女にとって、肉親を騙すことも可能だろう。
 しかし春陽は全く逆のことをした。何を考えたのか、彼女はわざわざ手間をかけてまで、赫夜にたっぷりと疑惑の種を植えつけ、自分を憎ませたのだ。
 緋楽の言葉に、赫夜は眉根を寄せた。容易には賛同しがたい意見であった。
 だが実際、考えてみると不自然な点は多い。
 春陽は赫夜に、レセンド王太子を愛したから、ガクラータ王国に与したのだと言った。だが、たとえ敵国の王太子を愛したのだとしても、果たして、簡単に祖国へ愛着を失うことなどあるのだろうか。恋人と祖国の間で苦悩する方がよほど自然だ。少なくとも、彼女の知る春陽ならば。
 春陽は、わざと赫夜に己の裏切りを見せ付けることで、自らの退路を断ったのではないのだろうか。そうすることで二度と陽香には戻れぬよう、自ら枷と付けたのだろう。自分自身の裏切りを許しがたく思い、またそうである以上は二度と自分を信じる者を裏切ることはしまい、と。
「そうかも………しれませんね」
 どうしてあのとき、わたくしは注意深く冷静に、異母妹の行動を見通さなかったのか。春陽の振る舞いを鵜呑みにしたのか。今となっては、緋楽の予測が正しいかどうか、確かめる術はない。───だが。
「姉さま。それでも春陽の行いは………罪深い」
 平然と祖国を裏切ったのではなく、寧ろ罪悪感に苛まれながらの選択だったとしても、それは免罪符にはならない。悪意のあるなしに関わらず、またどのような理由があっての行為であろうと、それは罪だ。国を統べる自分たち皇族は、国を護るために存在するのだから。
「ええ、分かっています………」
 赫夜の台詞に緋楽の胸が痛んだ。春陽が罪を犯してしまったこと自体よりも、その結果、愛しいふたりの異母妹同士が争う関係となってしまったことが、辛い。
「………赫夜。貴女は、春陽を憎んでいるの?」
 緋楽はそっと尋ねた。口にするのでさえ辛い問い。
 本音を言えば、先程まで緋楽は赫夜とは違い、安堵していた。春陽が本心から陽香を裏切ったのではなく、そのことに苦悩しているのならば、少なくとも自分の心の平安は保たれるのだ。憎まれているのではなく、まだ姉妹の愛情は途切れてはいないのだと。
 しかしそれは自分だけの自己満足。赫夜の言うとおり、民にしてみれば、春陽の行為が全て、結果が全てだ。春陽のしていることは、裏切りであり、それはどう足掻いても正当化できない。
 すでに、多くの民が死んだのだ。
 分かっている。それでも身を切るような辛さが緋楽を襲う。姉妹で争いたくない。憎しみ合いたくはない。それは、姉妹のうちの誰かが命を落とすよりも、ずっと強い痛みを緋楽に齎した。
 ああ、感傷は抱くまいと己に誓ったではないか!
「ええ、姉さま」
 偽りのない、それは赫夜の本心だった。
 陽香を彼女は愛していた。陽香という国は、彼女を育んだだけではなく、彼女の愛する様々な人をも生み出したから。両親、緋楽、そして雄莱。そのなかには春陽自身も含まれていたというのに。
「いつか春陽が罪を悔い、陽香に戻ってくる日が来るかもしれません。けれど、そのような日が来ても、けっしてわたくしはあの娘を許せはしないでしょう」
 ………二度と。
 我ながら冷たい言葉だと、赫夜は自覚していた。
 そうとしか言えない自分を、それを選んでしまった自分を、彼女はただ受け入れる。
 眼前で緋楽が激情を耐えようとし、ぎゅっと裳裾を握り締めていた。彼女は、緋楽が自分たち異母妹に注いでくれている深い愛情を、全身で感じていた。心臓を握り締められるように、痛みが走る。
 それでも、赫夜は緋楽に言う。
 春陽は皇族であるからこそ、国を裏切ってはならなかったのと同様に、緋楽や陽孔明が、春陽が大切な異母妹であるからと、判断を狂わせることなどあってはならない。
「───絆(きずな)とは、絆(ほだし)とも読めます。断ちがたい絆はそのまま、足枷となりうるのですね」
 弾けるように反応した緋楽は、異母妹を凝視した。
(わたくしたちは何処へ流れるの)
 双眸は漆黒に濡れる。
 何もかもを受け入れる勁さを手に入れた赫夜が、そんな緋楽を見つめ返し、しかしそれ以上何も言わぬままで、背を向ける。
 退出する彼女を、引き留めることは緋楽には出来ない。
 赫夜は春陽を憎んでいる。けれど、それ以上に悲しんでいる。
 悲しみを抱きつつ、しかし彼女は選んだ。
 いつの間にかそれが出来るようになっていた、赫夜。
(何故、変わらなくてはならない)
(成長できずとも、わたくしたちは倖せであったというのに)
 絶望に何かが染まってゆく。
 呆然と、緋楽は立ち竦む。
 春陽がこの国に二度と帰ることが出来ぬと決まった日から、せめて自分があの娘の心の還る場所になることができればと祈った。
 それさえ、もう許されない。わたくしは、そして赫夜は。
 分かってしまったから。
(けっして昔通りではあり得ぬわたくしたちは)
 変わってしまったわたくしたちには、あの娘に刃を向けるのを選ぶことが出来てしまえるのだと。
(────それが、分かってしまったから)
 それまで緋楽は、落都の際春陽に誓ったときからずっと、兄の補佐として公平に、冷静であろうと努めてきた。どこまでも真摯に、限界までに自分を律し続けた彼女の心が、しかしこのとき───、
 ───静かに、軋みを上げた。



* * *



 ガクラータ王国がランギス国の反逆を平定し、残る処理を一段落させたときにはすでに冬が訪れていた。この時期に進軍を焦るわけにもいかず、陽香とガクラータ王国の両国には短い休息が与えられた。どちらの国の民人たちも久方の安逸を貪り、兵士たちは家族と再会を果たした。しかし国の中枢には休息など存在せず、彼らは繰り返される戦いによって疲弊した軍や財源を整えるのに躍起になった。

 陽香では、国の復興に心血を注いだ。
 ガクラータ王国の占領されていた間に、民たちは飢えた。畑が戦場になったり、敵兵の略奪にあったりなどの理由で明日の糧にも事欠く民たちへの食料の配布は最重要課題であった。また、破壊し尽くされた地方の各都市の城壁や民家を修復し、またある地方では民が激減した為、戸籍の再編成をしなければならない。しかし、それらを為すために必要な膨大な人員と財源、そして時間が悉く足りないのだ。
 民は自分たちの暮らしを元どおりにするので手一杯であり、長期間の労役を民に課すことは出来ない。失業者に賃金を払って人を集めるにしても、陽香中で食料や物資が不足している今、余分な金はどこを振っても出てくるはずがない。しかし城壁などを早急に修復しなければ、再びガクラータ軍が攻めてきたとき、せっかく取り戻した自治をあっさりと奪われてしまう。なにしろ与えられた時間は冬の間だけである。
 それでも、皇太子が出来る範囲で手を尽くし、それこそ寝る間を惜しんで国の復興に努めた結果、それなりに乱れていた国が整い始める。その彼をさまざまな形で助けているのが、彼の同母妹の緋楽であるというのは、有名な話となっていた。


「やっぱり侮れないわね」
 朝楚国・広絽は王城絮台。
 王女・螺緤による簒奪激により国が揺れて一月。ようやく、人心も落ち着き、民という民が新たな王に希望を繋いでみようかと感じ始めたところである。
 そんな折に届いたのが、陽香国第一公主・緋楽からの公式文書であった。
 しどけなく玉座について螺緤は臣下がそれを読み上げるのを聞き――まず抱いた感想が、先ほどの第一声だった。
 そしてしばらく螺緤は無言となり、頬杖をついて眉間に皺を寄せた。艶やかに波打つ癖毛が一房二房こぼれてゆく。
 螺緤さまは、登極されてから、美しゅうなられた――これは近頃人々が口の端に乗せる言葉である。確かにそのとおりだった。肌や髪には、今までにない艶が加わった。黒の瞳はまるで紫玉のような輝きを見せるし、その頬から幼さが削げ落ち、大人びた色を乗せるようになった。
 それは、母殺しという苦悩を背負ったことによるのか、それとも玉座に上り詰めたことに根ざすのか。人々は噂しあったが、真実は知れない。
「如何なさいます」
 傍近くに控えていた岨隆貴が重ねて問うと、螺緤は渋面のまま、仕方ないわね、と呟いた。
「一度背約したという前科があるのだもの。これぐらいの条件は仕方ないわ――民には、迷惑をかけるけれども」
 請願した陽香との和解の代償は、容赦なく重い。それは赫夜や螺緤の個人的な交流を抜きとした、正等な国と国のやりとりであり、螺緤自身が言うとおり、仕方の無いことではある。
 陽香が提示してきたのは、大量の物資の援助。今の朝楚の国力を見越した上で、なんとか了承できる量を設定しているあたりが、嫌味にとれなくもない――なにより。
「武力援助を断られるとは、ね」
 二度と、仲間に背後を狙われるような愚は起こさない、ということなのだろうか。いや、そうではない。これは、全てを忘れて再び両国が手を携える前の――陽香なりの断罪なのだ。
 朝楚と陽香は、何代も続けて友好関係を結んできた間柄だ。それを一方的に破られ、結果的に国が一度滅んだ陽香の、朝楚への恨みはこちらが自覚している以上に深いのだろう。
「これも、母上の犯した愚行ゆえならば、仕方ないのかしらね――」
 妾の代で、なんとか修復しましょう。
 そう苦笑しながら、螺緤は言った。

 一方ガクラータ王国の方では、二月に入る頃には、出兵の準備を終えていた。これは勿論、レセンド王太子の積極的な働きかけによる。
 朝楚で革命があり螺栖女王が命を落としたこと、そして新女王によって彼の国が再び陽香に寝返ったことの報告がすでに齎され、陽香進出は益々難しいものとなっていた。そのためガクラータ王国の内部では、厭戦を口にする者たちも現れ出している。
 勝手なことだ、とレセンドは考える。以前に彼が陽香進出を反対し、また占領を維持することの困難さを説いたときは、ほとんどの者が耳を貸さなかったというのに。それが現実となったとき、その責が己にあることを自覚せぬまま、わたしを責め立てる。
 レセンドは、陽香と戦いを続けることは国王の意に添っているという事実を盾に取り、なるべく自分に非難が集まらないように仕向けた。しかしすでに処刑されたクリストファーの広めた噂――春陽にレセンドが溺れているというものである――を、民はまだ忘れていない。今はそれほどのことはないが、やがてこの戦いの是非に限らず、自分のすることなすこと全て、民は目を光らすようになるだろう。盲目的な信頼ゆえの無批判を、かつてのように民に求めることは不可能であった。
 日々強くなる風当たり、権謀術数渦巻く宮廷に倦んだレセンドは、仕事以外の全ての時間を春陽とともに過ごした。
 春陽は、そんなとき、何も問わずにただレセンドの側にいる―― それは穏やかで、けれど同時に息苦しい時間であった。
「明と斉ならば、明の方が上陸しやすいでしょう。斉は、確かに岩礁が少ないけれど、浜に身を隠せる場所は少ないですし、ここのあたりから連なる崖から、狙い撃ちされますわ。それに比べ、明は……」
 午後の気だるい日差しが差し込む王太子の書斎。いつから自分はこの部屋に足を踏み入れることを許されたのだったかしら、と思い出しながら、春陽は陽香の地図を机に広げていた。かつて、王太子は春陽をけっして懐に入れようとはしなかった。彼は春陽の英邁さを好ましいものとして捉え、愛ではしたものの、同じ理由で彼女に気を許すことはなかった。――しかしそれも、遠い昔のことのようである。
 春陽が父帝に与えられた血肉に等しい豊かな情報は、いまや、すべてこの青年のために注がれている。宮廷の勢力図、国の地理、気象、予想される現在の財力、兵数。そして、ガクラータには伝わらない兵法もまた。王太子が求めることの多くを春陽は返すことが出来た。
 春陽はまだ一度しか祖国との戦いを経験していない。ガクラータ本国がランギスの反逆にあったため、すぐにアーマ大陸に舞い戻ったからである。そのときの戦いでは、積極的にレセンドに知識を与えるということはしなかった。出来なかった、といってよい。だが、今回は違う。次の戦いでは、自分の持つ全ての知識をもって、王太子を援助するつもりだった。
 ふたりは、愛の言葉を紡ぐ代わりに、よくこうやって机を挟んで話をした。彼女たちを包む感情が、優しく純粋な愛ではないからこそ、こうした歪んだ形を以て、レセンドは春陽の心を確かめようとしたし、春陽は己がけっして心変わりしないことを証だてようとした。
 惜しむことなく、自らの知識を披露する春陽に、レセンドは内心戸惑っていた。全てを捨て、自分のものになってほしいと望んだのは彼自身だ。国を裏切ってなお、国を想う春陽の前に、彼女が大切にする人々の首級を並べることを決意したのは、他ならぬ自分なのだ。なのに、なにを戸惑うことがあるのだろう。
(―――分かっている)
 それは、単なる自分の傲慢だ。
 国を想う彼女を許せず、自分と同じところまで汚れてくれろと渇望するのと同じくらいに、彼は国に殉じようとした高潔なかつての彼女を愛していた。
 だが、一度手にしてしまった彼女を自ら手放すことは、もはや出来ないだろう。喪ってしまった春陽の毅い瞳を哀しみながらも尚、彼女を欲さずにはいられぬ自分を彼は侮蔑した。
「そうだな……やはり明か」
 脳裏に走った想いを口にすることなく、レセンドはそう頷き、春陽を見る。
 ―――もうすぐ、冬は終わる。
 今度こそ、陽香を滅ぼす。皇統を根絶やしにし、軍を壊滅させ、完全にガクラータの属国とする。――そして全てを終わらせよう。その後はどの国とも戦わず、皇太子位を辞退し、春陽と静かに暮らそう。自分らしくない暮らしだ。だが、それもいいだろう……私は疲れた。
 なんにせよ、陽香は滅ぼさなければならない。そうでないと、何も終わらない。終われないのだ。
 なんと業の深いことだろう。
 レセンドの視線の先で、春陽は淡く笑った。
「お疲れのご様子ですね。そろそろ休みますか」
 小首を傾げると、肩までしかない艶やかな髪が一房、零れ落ちた。それを手に取り、口吻ける。そして、動きの止まった春陽の唇に、もういちど唇を重ねる。
 ――そのようなこと、なんの約束にもなりやしないというのに。



* * *



 二月二十七日。ガクラータの軍艦が再び炯紺の海に姿を見せた、という報が紀丹宮に入った。
 一番の寒さを越したとはいえ、まだ春の訪れにはほど遠い。予想されたよりも遥かに早い敵国の行動に、かの王太子の余裕よりもその焦燥を見いだせたのは、ごく僅かな人間のみだった。
 風の全く吹かない、穏やかな日であった。まだ、沓の中までに冷気が忍び寄ってはくるが、格子の外の庭木には、ちらほらと葉が揃い始めている。そんな長閑な光景とは裏腹に、寝室にて報を受けた陽孔明は、素早く衣服を脱いだ。命じるまでもなく別の兵士が、皇太子に戦装束を差し出す。下着姿の皇太子が沓を履き、手甲を巻き、そして最後に甲冑を纏うのを兵士が手伝う。
 一切の無駄のない動作で装束を身に着ける体の動きとは相反し、陽孔明はかの敵国の王太子に思いを馳せていた。
 彼が知るレセンド王太子とは、銀の王太子旗を翻し、緻密にして壮大な作戦で戦いを挑んでくる人間であるということだけだ。容姿や性格など知らない。まして、彼と春陽がどのような関係を築いているかなど、知りようがない。
 ただの愛妾と主人の関係ではなく、春陽とレセンド王太子は、互いに思いを寄せ合う恋仲なのだという赫夜の言葉に、喉が灼けつかんばかりの嫉妬が胸に滾り、だが同時に、底冷えるような絶望が身を包んだ。
 この思いを、どう説明してよいのか陽孔明自身にも分らなかった。
 それでも感謝せよ、というのだろうか。
 王太子を選んだがゆえに、国に殉じる筈だった春陽が生きているということを。
 彼女が変わってしまっていてもいい。生きていてくれたのならば。
 では、私は何を希って、剣を取る?
 己にとって唯一絶対なる存在が生きる国に、わたしが剣を向ける必要がどこにあるというのだ。
 自問自答した陽孔明は、けれどすでに答は得ている。探すまでもない。たが、どこまでも甘えた自分の中の子供が、それを受け入れがたく思っていただけだ。
(許せ、春陽)
 それとも、これは君の望むことなのだろうか。
『愛してます。』
 ――殉じることを決意したときの春陽は、ガクラータで垣堆という名の朝楚人楽師に、このような伝言を託したのだという。
 それは、恋人たる己にだけ向けた言葉だったろうか?
 否。
 それは姉妹へ。信頼する家臣たちへ。苦しむ民へ。そして、陽香自体へと向けた言葉だったのだと、わたしは理由なく信じている。
 ――ならば、わたしは戦える。たとえ、この戦いによって君の命がついえようとも。
 戦うことが、出来るのだ。
 陽孔明は、知らず奥歯を噛み締めていた。
 温かなものが、頬を伝ってゆく。

 
 
 報を受け、緋楽と赫夜が駆けつけたときには、皇太子はすでに兜以外の戦装束に身を包み、緋楽と話をしていた。
 武官たちが跪き、皇太子の出陣を待つ中、ほんの数分間、兄妹たちは顔を合わせていた。陽孔明の顔は胸に秘めた必勝の決意のためにやや蒼褪めている。
 陽孔明は容姿だけ言えば豪胆な見かけをしていたし、また生真面目な性格ゆえに軍学や武術においても研鑽を怠らなかったため、彼を将として危ぶむ人間はいなかった。それでも、生来の繊細な性格が、前帝・陽龍のような絶対的な軍の信頼を得るにはいたっていなかった。
 しかし、ただ国のためにと私心を削いで甲冑を纏う覚悟をつけた今、彼は間違いなく陽龍の息子であった。本人が自覚するように、父帝を越えることは出来ないかもしれなかったが、それでも、皇族の血を享けた意味を体で理解している陽孔明に、軍は奮起するだろう。
 春陽の件があってから陽孔明に対する評価を辛くしていた赫夜は、しかし今、その決意を込めた立ち姿に息を呑み――そして、敬意を捧げて拱手した。
「――ご武運をお祈り申し上げます。陽香に、栄光を」
「必ずや」


 皇太子と第二公主が、己に課せられた勤めを果そうと決意を新たにしたとき、緋楽はその様子を、どこか精彩のない眼差しで見詰めていた。



* * *


ここより下は六月三日追加分です

 陽香皇太子・陽孔明が駆けつけたとき、すでに前哨戦の攻防は決していた。
 明領と斉領にある全ての港には、常に兵を配置させていたのだが、明領の港に現れたガクラータの軍船が、港に横付けするのを許してしまった。矢や弩では威嚇するにも限界があり、陽香はまだ大砲を実用化することが出来ていなかった。結局は上陸したガクラータ本軍と陸地で戦いを展開させ、圧倒的な兵力の差で、二万からなる警備兵は遁走することになる。
出兵した陽孔明は、戦地までの道程でその報告を受け、苦虫を噛み潰したような顔を一瞬見せたものの、すぐに冷静に算段しはじめる。ただの一度の戦闘でガクラータを退けることなど出来ないことは、一兵卒でさえも分かることだ。
皇宮を有する都・栄屯は奪還したが、幾つかの砦や県には、ガクラータ王国の支配がまだ残っている。彼らが上陸した明領こそが、その支配を一番残す領地である。彼らは初めての陽香侵略の際、明領の王城・高奏を攻略し、明王の首級をあげた。高奏はすでにレセンド王太子が不在の間に奪還したが、それでもガクラータ王国の明領における地盤は無視出来ない。
 陽孔明は、到着するなり自ら指揮を執り、今度は陽香の方から襲撃をかける作戦を立てた。


 対するガクラータ軍は、難なく上陸を果たしたことに沸いた。
 幸先が良いとばかりに調子付く兵士たちを諌め、王太子率いる軍は明の港を抜ける。こちらの進路は敵に筒抜けであるため身を隠す必要がなく、堂々と都までの最短距離である街道を征く。だが、幾許もしないうちに、早くも陽香軍と衝突した。
 陽香としては、当然のことながら市街戦を避けたかったのだろう。先の戦闘からまだ二日も経過していない。速やかではあるが、それでいて反撃というには遅すぎるその襲撃は、立地を考えると絶妙だった。整然とした動きは、明らかに先の敗走した軍とは別物である――指揮系統が変わったのだ。おそらく、新たに将に加わった人間は、皇太子・陽孔明。
 ひとりひとりの武は、どの国にも負けない陽香軍が、理知的に整備される。その鮮やかさに、敵ながらレセンドは敬服する他ない。
 陽孔明は、間違いなく知将だった。彼個人を知るわけではないが、その戦い方を見ていると性格まで手に取るように分かる。知的で繊細な――そして、鋭い刃の切っ先のような攻め方。
 だが、負けるつもりはない。
 頻回に天幕の中に駆け込んでくる伝兵たちへ指示を繰り出しながら、レセンドは地図を睨む。
 稀に見る詳細な情報の記入された陽香全土の地図を持つことは、レセンドの強みのひとつだった。陽香の地図は、製紙の技術は世界の頂点に立つだけあって、布のように丈夫な紙に書かれたものである。以前、王宮・紀丹宮を制圧したとき手に入れたこの地図を全てアーマ語に直させ、更にいくつも春陽によって注意書きが記入されている。
 時折、豊かな春陽の知識や頭脳に、嫉妬を感じることがある。勿論、今の春陽自身にとって、それは苦しみを増強させる存在以外の何ものでもないだろうが。
 また、新たな伝兵が息を切らせて天幕に現れる。
「報告申し上げまする! 敵軍左翼に、第四騎兵団が突出しています。ご指示を!」
「愚か者め、誘い込まれたな」
 粗末な椅子を蹴りだして立ち上がると、「第六騎兵団に補修させろ」と指示を出す。
 転げ落ちるように伝兵が天幕を出たあと、レセンドは傍近くに控えるテイトに向って言った。
「私が征く。全権はお前に委任する」
「殿下!!」
 はっとして目を剥くテイトに、しかしレセンドは頓着しない。
「お前が、クリストファーの穴を埋めよ」
 吾が腹心なれ。
 将来を見越してその任を振る王太子の真意を悟って、テイトは蒼ざめる。
 父親たるダン伯爵フラント=カサンナならともかく、若輩たる己にはとてもではないが、力不足である。だが、否やを告げることの出来る場面ではない。すでに王者の威を以って君臨するレセンドに逆らえる筈がなく、また王太子を欠いたこの天幕の中では、己しか命を降らせることのできる人間はいない。王宮にならば、老獪な知恵を持つ人間が山のようにいるが、ここには自分ひとりだ。
 戦場にあって、元帥の力は王権に等しい。代理とは言えど、それが今、手中にある。
 眩暈がしそうだ。
 困惑するテイトを尻目に、レセンドは馬に跨り、数騎を供に戦場へ駆け出す。兜についた蒼の房を揺らせて。
 一言の反駁も許されずそれを見送ったテイトは、蒼ざめた顔のままそっと後ろを振り返った。
「……姫」
 そこには、広い天幕の最奥の部屋に隠れていた春陽の姿があった。
 なるべく目立たぬように――そして、いざというときのために、彼女の服装は普段の貴婦人然としたものではなく、騎兵たちのそれと変わらない。女であり、しかも異邦人であるにも関わらず、不思議とその格好は似合っていた。だがこの場に彼女を馴染ませるまでには至らず、天幕に残る文官たちは挙って、不快な表情を隠しもしなかった。
 敵国の者を――それ以上に、女を戦いの場に連れてくるとは。
 とうとう、溺れたのか。
 その言葉を彼らが寸でのところで飲み込むのは、相も変わらずレセンドの出す命が的確だからだ。なんの落ち度もない彼が、唯一判断を誤らせるのが春陽だった。――彼女を憎憎しげに思うのも仕方のない話である。
 戦いで気が高ぶっている今、不用意に彼女に注目を集めさせることは彼女のためにならない。だが敢えて、テイトは彼女を呼び、問いかける。必要なのは、その知識。
 レセンドもまた、この戦況の中で彼女の知識を喉から出る程欲したに違いない。だが彼は、今この場で彼女に尋ねることは出来なかった。だが、テイトにとっては彼女の立場などどうでもいいことだった。
「どう思いますか。この戦況を」
 テイトがそう口にした途端、周囲の人間は色めきたった。
 今に、何か非難の言葉を上げようとする人々を、しかし意識すらしないのか、春陽は静かに伝兵のひとりを見やった。
「……あそこに見える軍――そう、第四騎兵団のやや後方にある陽香軍の将は誰です」
 全力で駆けずり回っていた伝兵は、まだ喘ぎながら、息も絶え絶えに答える。
「分かりませぬ。ただ青緑の房の兜を被り、黒馬に跨った大柄の男です。弓と矛の両方を武器に持った――」
「緯択王麾下の李厘、ね。おそらく」
 勇猛と誉れ高い陽香の勇者のひとりである。そういった者たちに亡き父帝はさまざまな褒章を与えた――李厘には、陽香に珍しい黒馬を与えたのだ。
 気のよさそうな男だったのを覚えている。尤も、春陽は三回程しか彼を目にしたことはなかったが、直接言葉を交わしたことがあり、尚且つ、それが国の勇者であるというのならば、忘れる彼女ではない。
「王太子殿下に伝えてくださいませ! 彼らが誘い込んだのは第四騎兵団だけではございませんわ。いまに、補修に行った第六騎兵団とともに、挟撃されましょう」
「まさか。挟撃するには距離と兵数が――」
「李厘の軍は陽香精鋭ですわ。そして主たる武器は、弓!」
 采配を振るうのが兄なれば、それは意図された配置。そこには必然しかない。ならば、やすやすと応じることは、即ちガクラータ軍の敗北を示す。
「姫、感謝します――おい、早くお伝えしろ!」
「狂ったか、カサンナ家の子倅が!」
 テイトがそう伝兵に命じた次の瞬間、とうとう我慢ならなくなった文官のひとりが声を荒げた。王太子そのひとにはいえぬ言葉であったに違いないが、伯爵の子とはいえどたかだか子爵にすぎないテイトには言えるのだろう。
「貴様は、敵国の姫の言葉を信ずるか!」
「少なくとも、戦を経験しない貴殿の言葉よりは」
 ぶくぶくと肥えたその文官を鬱陶しく眇め見たテイトの不遜な言葉に、顔を真っ赤にして文官がいきり立った。
「年長者には口を慎みたまえ!」
 戦場の危急時に、年長も若年もないだろう。とうとう我慢ならなくなったテイトは侮蔑をあきらかにし、せせら笑った。
「……どうも、ご自分の立場を弁えられていらっしゃらないらしい」
「どういう意味だ」
「おや、市井の者のようにあけすけ申し上げねば、ご理解いただけないらしい。――殿下の愛を受けた身分ある女性を悪し様にし、戦場において全権を委任された私の言葉を阻もうとする貴殿は、さて何者か?」
 伝家の宝刀を抜いたテイトに、その文官は奥歯を噛みしめ、悔しげにうなった。
「……王の威を借りるか、貴様……っ!」
「貴殿の個人的感情に運命を共にするよりはマシですよ――おい、お前。早く殿下にお伝えしろ」
 目の前のやり取りを見ていた伝兵は、一瞬だけどうしようか迷ったようであったが、テイトとその男を見比べた後――迷いを振り切るように戦場に向って駆け出した。


 ――その日の衝突は、ガクラータがやや優先ではあったものの決することなく終了する。
 開輪二十七年 二月末。
 再び陽香の地に戦火の煙が立ち昇ることとなる。








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