緋楽の章(5)


緋楽の章 [5]





 陽孔明、立太子。
 紀丹宮が奪還され、すぐに皇太子が定められるという二重の祝い事に、朝晩を問わず酒が酌み交わされ、文武百官は酔いしれた。簡素が旨とされる立太子の儀とはいえ、都陥落からずっと彼らは身動きも取れぬままに不安な毎日を送っていただけあって、平時よりも悦びは強い。それでも儀式から三日経ち、ようやく紀丹宮は落ち着きを取り戻していた。
 その日、緋楽はある書簡を受け取っていた。それは人目を憚って、紀丹宮に出入りする商人の手から彼女に直接手渡されたものだった。不審に思いながらも、兄ではなくわざわざ自分宛であったことから好奇心が勝り、緋楽は兄に諮る前に、自室に戻るとひとりでそれを開いた。
 そして、懐かしいその字体と署名に目を見開く。
「………赫夜っ!」
 それは、ガクラータの虜囚であったのを自力で脱出し、その後は消息が不明だった赫夜からの手紙であった。驚いたことに彼女は現在、朝楚にいるのだという。そうなった理由と経緯を今は明かせないが、無事にしているというふうに文章は始まっていた。
 緋楽が初めに感じたのは泣きたくなるような安堵。どれほど赫夜のことを心配していたか。いくら自分が切り捨てたとはいっても、赫夜への情が失せたわけではないのだから。しかし食い入るように文面を追ってゆくうちに、彼女の両手首はわなわなと震え出した。
 ……ああ、やはり。
 緋楽は、これを誰の目からも隠し、握り潰したい衝動に駆られた。だがこれを書いて寄越したのは、他ならぬ赫夜なのだ。その彼女が送ってきた書簡の内容は信頼に値する。自分が直視したくないからといって、確かめずに否定するのは愚かなことだ。
(けれど………っ!)
 公平とならなければならない自分の立場上、どうしても口にできぬ言葉を、緋楽はせめて胸中で吐き出す。ああ、信じられない。
 こと細かに記された、それは春陽の変節。
 そう、少し前に腹心の洞垣堆が緋楽に告げたのと、まったく同じ内容のものだったのだ。<br>
 春陽がガクラータ王国に――否、ガクラータ王太子レセンド個人に、と言うべきか――与した。あまりの衝撃的内容に、赫夜も異母姉が信じないことを見越して、この紀丹宮で春陽と会ったときのことを詳細に書き綴っている。そして“わたくしが書いたことをどうか信じてください。わたくし自身もなかなか信ずることは出来ずにいましたけれど”と文は結ばれていた。
 けっして思い込みではなく事実なのだと、赫夜は緋楽に決断を迫っている。春陽はもはや、わたくしたちの異母妹ではない、と。
 緋楽は、先日の洞垣堆との会話を思い出す。
 釈然としない、春陽の行動───その生存。春陽は怖じけついたのだという垣堆の言葉に反発しながら、しかし彼とは違う意味ではあるが、自分も彼女を疑っていた事実。春陽がガクラータ王太子を選んだというのなら、全て辻褄は合うのだ。
 そうだ、春陽は何よりも兄上を慕っていたはずだ。……緋楽はそこに、一縷の希望を見いだしていた。兄上を、そしてわたくしたちを裏切ってまで、敵国の王太子を選ぶような娘ではない。
 しかしそこまで考えて、緋楽はあまりの都合のよい望みだと、早々に気がついた。自分は陽香のために春陽を切り捨てた。いくら春陽自身が望んだことであっても、それは紛うことなき事実だ。春陽が死んだと思い込んだときも、自分は哀しんだものの、取り乱しはしなかった。なのに春陽がわたくしたちと道を違えたという赫夜の言葉に、自分を失うほど動揺している。わたくしは陽香のためではなく自分のために、春陽が高潔であることを期待しているだけなのだ。
 自覚すると、緋楽から動揺は去った。否、それを圧し殺すことを己に課し、成功した。そして出来るだけ冷静に考える。赫夜が全て正しいことを認識しているという証拠はない。しかし事実である可能性も高い。春陽のことを自分自身が確かめるまでは、赫夜の考えを否定も肯定もしてはならない。客観的になることが必要だ。
 緋楽は、自分自身の動揺が完全に収まり、冷静になれるまではこのことを兄に伝えるべきではないと、その書簡を懐に隠した。兄が受けるだろう衝撃は自分の比ではない。そのとき兄を落ち着かせ、ときに諌める存在が絶対に必要であった。
 それほどまでにこの報せは………酷い。



*  *  *



 燭は何本も灯っているのに、母王の政務室はどうしても薄暗く感ぜられた。胸を清々しくさせるはずの玉香の香りも、部屋を淀ませているかのようである。
「なんとおっしゃられました」
 聞き逃したわけではない。その言葉を理解できなかったわけでもない。螺緤王女は、自分がそれに対して賛成できないことを示すために、そう問い返したのだ。
「大茗と手を結ぶと言ったのじゃ。このままでは陽香は皇太子によって我が国を攻めてくる危険があるからな。幸いにも陽香はまだ安定していないよう」
 ガクラータ王国が陽香の王宮の支配を失った。陽香は、皇太子とはいえ、実質は新しい帝を戴いたのと同じで、国が急速に統率されてきている。これ以上、陽香と争って得ることの出来る利など、どこにある。誠意を見せ、和解を求めたなら、無益な戦いは終わるのだ。もちろん我が国の敗北が決定してしまうが、武力で制圧されるよりはまだましだし、陽香の皇帝が話の分かる青年であることを螺緤は赫夜を通して知っている。国の財政の点から見ても、国民の命の点から見ても、和解をした方が損害は少なくなる。
 なにより、殺伐とした戦争の終了を国民は切望している。螺緤とて例外ではない。
 だが螺栖は負けを認めたくない。戦いを徒に長引かせようとする。まるでそうすることで己の威信が守られると思っているかのように。何故なら、朝楚に戦乱を持ち込んだのは女王であったから。もし敗北すると、彼女の行為はただの愚行となってしまう。
 彼女がガクラータ国王に与せずにさえいたら、兵士たちは命を落とさずに、国は乱れずにすんだ。働き手のいない農村が飢えることもなかった。
「何故、陛下は陽香を裏切りましたっ!?」
 堪え切れず螺緤は激昴した。だが螺栖は、泰然として娘の糾弾を受け止める。
「螺緤。よく覚えておくのじゃ。国と国の約束に絶対はないのだと。我が国が裏切らずとも、いずれ陽香はこの国を食いつぶそうとし、どのみち戦乱となっていただろうて」
 そうかもしれない。世の流れや国というものはそういうものだから。しかし何もないうちから疑ってかかっては、何も出来ない。裏切りを重ねる国を誰が信じるか。
 もちろん一国の主ならば、信じることだけではなく疑うことも必要だ。だが、正しい目を持って真実を看破することと、色眼鏡を外すことなく不審の固まりとなることは、全く違う。母王の場合はまさしく後者である。他者を信じることが出来なくなっているのだ。自分の地位を守ろうとするあまり。
「母上、妾は」
 王女はそれを伝えようと言いかけた。咎めなど気にせず、この哀しき女王の心に足を踏み入れようとした。それは、母親の力の前に萎縮するか反発するかだけだった娘の、初めての試みだった。
 しかしそれは叶わなかった───永遠に。
 刹那、朝楚女王は叫んだ。
「何者じゃっ!」
 螺緤王女は何か美しいものが視界に飛び込んで来たと思った。否、王女にはそれが何なのか分かっていた。
 いつかはこうなると思っていた。しかし目前でそれを為したのが他ならぬ“彼女”であったからこそ、王女の思考は妨げられた。
 それはただ役割を果たすことだけが目的の、無造作な太刀筋だった。
(剣、いいや長めの短刀……)
 血に曇ったことのある鈍い光り。
 王女も宮女にも何も出来なかった。
 女王螺栖が、もがくように身じろぎした、ただそれだけだった。
 ぱっと血の花が咲く。
 噴き出した赤が、赫夜の頬を濡らした。
 僅かに蒼みがかった肌に壮絶な色が加わる。
 短い沈黙は全ての人間の吐息と瞬きを奪った。
「公主」
 礼淨の声に、赫夜の虚ろであった瞳の焦点がやっと合う。
「お怪我は」
 そう言いながら、礼淨は背中が静かにそそけだつのを自覚した。
 怪我などしているはずがない。赫夜は躊躇わなかったのだから。
 赫夜は別に、とそっけなく返して姿勢を正した。それから乱れてしまった衣装の裾を捌いて一寸の隙もなく整え、まるで何事も無かったかのようである……被った血を除いては。
「王女」
 自分が凄絶ななりをしていることを意識していないのか、赫夜は呆然としていた螺緤に、実に優雅に膝を折った。赫夜が捕虜ではなくなった現在、ふたりは王の子という点で同格であったはずだが、赫夜のその所作は、明らかに螺緤の優位性を認めたものだった。
「取り急ぎ、即位を」
 螺緤王女はそれを凝視する。
 恐怖故の硬直ではないことは明白だった。あの豪胆な女王の血を濃く受け継ぐ王女が、それほどにか弱いはずがない。
「そして我が国との同盟を再び」
 それは脅迫ではなかった。少なくとも二人の英邁な少女の間では。
 螺緤には分かっているだろう、朝楚の取るべき道を。陽香の公主に母親を殺されたとしても。彼女はそれを正しく選ぶだろう。
 何故ならすでに彼女は女王であったから。
「陽香皇帝にお伝えくださらぬか」
 唐突に己にかぶさってきた重圧を、彼女はどう受け止めたのだろう。そのとき螺緤は少女であることをやめた。誰に習ったわけでもない女王として振る舞いを、ごく自然に彼女は行った。
「朝楚女王・螺栖は弑され奉った。その咎は妾、王女螺緤にある。これは ───簒奪だ、と」
 この革命で、赫夜の真の役割は、新女王を戴いた朝楚と陽香が、過去のことを忘れて手を結んでいけるように、その仲介となること。そして螺緤が捨て切れずにいた、母親への情を断ち切らせること。途中で手を引くことが出来ないように、張功梨や岨隆貴らは、赫夜を旗頭にするだけでなく、わざと女王暗殺の下手人の顔触れの中に組み込んだ。しかし王位転覆が陽香の公主によってなされたことを、民にまで知らしめる必要はない。それどころか、却ってその事実は同盟の障害となる。
 だがそれが、正しく王位継承権を持つ王女によって為された革命となると、何の不都合もない。だからこそ、螺緤は咎を己ひとりで被る決心をした。民はガクラータ王国からの解放を熱望し、女王を排斥したがっていた。彼らは王女の英断を褒めたたえるだろう。母殺しという罪に民が心情的に恐ろしいものを感じたとしても。
「女王の取り巻きたちとの争いがおきましょう」
 王女の覚悟の程を試すために、功梨は問うた。彼としても王女を擁立したのは賭けだった。赫夜の存在が、螺緤の覚悟を固めさせてくれると計算していたが、それが自分の勝手な思い込みである可能性もあった。
 到底ごまかしや虚勢が通ずるとは思えぬ功梨の眼差しの前で、螺緤は彼の問いと、その中に隠された期待に応える。
「彼らはとうに滅びるべき者だった」
 これから螺緤の戦いが始まる。玉座に座った者全てに襲い掛かるはずのものとの。
 厳しい孤独を意味する、それは終わらない戦い。
 螺緤は呟いた。
「それぐらいの孤独、……母上を越えるつもりなら」
 その呟きを辛うじて聞き取ることが出来た赫夜は、螺緤を見た。
 自分のすべきことが見えた気がした。
「陛下。わたくしはしばらく貴女の側にいましょう………友として」
「………赫夜公主?」
 真意を量りかねた螺緤に、赫夜は真摯に告げた。
「玉座とは、孤独なものですから。孤独は人を殺します」
 螺栖女王のように。蒙帝・陽騎のように。
 螺緤は瞠目した。
 赫夜は螺緤に視線に応えて、微笑む。
 とても温かな、穏やかな微笑みだった。先程、赫夜に感じた事務的な冷たさはなく、あるのは友人を慮る彼女の優しさ。
 立ち尽くした螺緤に、赫夜はゆっくりと歩み寄った。
 朝楚が再び陽香と手を携えようする今なら、許されるのだ。ふたりが友人であることは。
 ───螺緤は、ふと緩んだ涙腺に気づき、きゅっと引き締めた。



*  *  *



 新しい年が明け、レセンド王太子はようやくランギス王国からの帰還を果たした。ガクラータ王国は完全に冬景色で、その日は雪もぱらついていた。陽香に再び出兵するには春を待たなければならない。冬の厳しさのせいでもあるが、それ以上に、戦いづめの兵士たちの疲労の色が濃かったからである。それがレセンドには口惜しく、また歯痒かった。
 王都の入り口では、ダン伯爵が迎えに出て来ていた。その彼と馬を並べて、レセンドは国王たる父にランギス王国との戦いの顛末を報告するため、アンザゲット王宮に向かう。いくら早く春陽に会いたくとも、また王宮に行けば、貴族たちと駆け引きの交じった会話をする羽目となり、鬱陶しい思いをすることが分かり切っても、凱旋の主役は紛れもなく自分なのだから、王宮を避けるわけにもいかぬ。
 途中の市街で華々しく民衆に出迎えを受けて、アンザゲット王宮に到着すると、彼はすぐに己を包む周囲の雰囲気が微妙に変化していることに気がついた。ねっとりと絡み付く視線。………過去に覚えがある。
 かつてこの視線を感じた後にやってきたのは、王宮を揺るがす陰謀だった。今度は何の兆候だというのだろう。
 うっとうしく思いながらレセンドは考えを巡らせた。そして限りなく確信に近い推測を立てるまでに、ほとんど時間を要さなかった。というのも、彼は王宮までの道程の間、ダン伯爵からかつての腹心であるクリストファーの乱心の情報を得ていたのだ。
 今、都では自分が陽香の公主に惑わされ、溺れているのだというのが、もっぱらの噂なのだという。陽香の公主は、祖国の恨みを晴らすべく、この国を傾けようとする妖女だ、と。さきほどの盛大な出迎えを見る限り、まだそれほど本気で口にしている者は少ないようだが、側室腹の彼としては、どんな噂でも注意を払わぬわけにはいかない。
 その噂自体は、恐らく自然に発生したものであろう。だがそれは王宮内のごく一部の者たちでのこと。民人たちにまで広く取り沙汰される程、レセンドは行き過ぎた待遇を春陽に与えているわけではない。ならば誰かがそれを意図的に扇動したことになる。それは誰か。
 ランシェル王子を擁立しようとする者たちとも考えられたが、クリストファー=ザラ卿の不審な行動のことを考えると、やはり謀ったのは彼であろう、というのがダン伯爵の見解だった。
 クリストファーはここ最近参内していない。彼は王宮での公式の役職を持ってはいないが、王太子の腹心として、王宮内の雑多な業務を任されている。その王太子が出兵している間、クリストファーは主人のためにしなければならない仕事は山ほどあったはずだというのに。
 クリストファーの離反行為は予想していたものではあったが、しかしそれが現実となったことにレセンドは重苦しい何かを感じた。それはレイナのあの事件のことを知ったときにも感じたのと同じものであった。喪失の痛みではなく、同病相哀れむというものかもしれなかった。
 きっと、クリスの疑念の始まりは、自分が春陽のことを慮って、陽香の出兵を渋っていたあのときからだろう。そして、隠されたアルバートの最期の秘密を知って、それは確信に変わった。これもダン伯爵から聞いたのだが、クリスは春陽の王族殺しを、レイナが呟きを偶然に漏れ聞いたことで、知ったのだという。つまり最悪な形で、秘密は露呈したわけだ。
 決定的だったのは、自分が戦に春陽を連れて行くと言い出したことに違いない。レセンドがそれをクリスに言ったとき、奴は何の表情も見せなかったからだ。それで彼は、いつかクリスが春陽と自分を引き離しにかかるだろうな、と覚悟したのだが、こうも早く実行に移すとは。
 レセンドは、まさかこれほどまでに自分の保身をせぬ直接的なやり方で、クリストファーが攻めてくるとは思わなかった。いくらレセンド自身のためとはいえ、その手段の段階で彼は主人の評判を故意に落とし、それどころか民衆を扇動している。ここまでやり過ぎると、どんな温和な処遇でも、都追放は必至である。また、彼の主人がけして温和ではないことなど、彼は髄に染み渡るまで理解しているはずだった。
 思案に気も漫ろになりながらも、王宮に着くと、レセンドは様々な上級貴族たちに武勲を口を極めて褒めたたえられるのを、次期国王に相応しい態度で受ける。辟易とし始めたところで、彼は国王キーナ三世の待つ、二番目に大きい謁見の間へ召された。
 国王は今日は体調が良いようで、久しぶりに玉座に坐して、王太子を迎え入れた。
 惰性とも取れる形式的な言葉を、父王はそれでも厳しく口にした。
「お前の武勲は目覚ましく、元帥として恥じぬ働きぶりだったと聞く。褒めて遣わそう」
「もったいないお言葉、恐悦至極にございます」
 そう慇懃に答えて見せるが、彼は己のその態度が、白々しいという印象を父王に与えることは免れないことを確信している。相手が他の誰かなら、演じ切ることは可能だったが、父王ではそうもいかない。そういった意味で言えば、いくらお互いを疎ましく感じているとはいえ、彼らは親子なのだった。
「お前の妃の管理が行き届いておらず、かような結果を生んだことに対する責任については、追って沙汰する。が、今回のお前の働きを評価して罪を減ずることを約束しよう」
 国王のその処置が寛大かどうかは、受け取る側の感じ方によって評価がわかれる所だ。王太子はというと、当然だとは内心思いつつも、さもありがたいというふうに、再び頭を深く垂れた。
「大義であった。しばしの間、休をやる。よくよく身体を休みまいれ」
 王より賜る言葉はそれだけのようだった。レセンドは短すぎるその言葉に、不審に思って、顔をあげた。
 玉座を埋めるのは、見たこともない老体であった。病褥についてもなお王者の威厳を保とうとするキーナ三世の眼差しは、しかしその窶れを全て隠しきることはできていない。
(もう長くないな)
 改めてレセンドはそれを実感した。自分の即位もそう遠くない未来だろう。だが、陽香を手に入れるまでは、なるべく長生きしてもらいたいものだ。玉座に一旦つけば、身動きがとれなくなってしまう。
 早々に王太子は国王の前から辞去した。今の父王の側にいることは、何か耐えられない気がしたからだった。国王としての能力はともかくとして、父王には家臣が惹かれるだけの威厳があった。それが病と老いのために衰退してゆく。それは空しい心地をレセンドに与えた。
 謁見の間の大扉の前で控えていたダン伯爵と共に回廊を歩いていると、彼は何者かに行く手を遮られた。
 若い男である。誰かの従者か。
「何者か」
 傲然と誰何すると、その者は膝をついて、応えた。
「クリストファー=ザラ卿が、殿下に申し上げたき儀があると」
 隣に控えるダン伯爵の肩が緊張に揺れたのを、視界の端に捕らえる。
(………ついにきた、か)
 王太子は独白する。
 考えてみれば、もう何カ月もあの腹心とは顔を合わせていない。その空白の間に彼は企み事を着々と進めていたのだろうが、王太子には王太子のすべきことが他にあった。事前に何度も怪しいと察知しながらも、腹心の動向まで気を回すことは出来かねたというのが、正直なところである。しかし彼のことは、早いうちに決着をつけておくべき問題だった。
 クリストファーの事務処理能力を買っていたレセンドだが、こうなると彼に対する未練というものはない。叩き潰すのみだ。
 レセンドは傍らにいたダン伯爵に何事かを囁いて命じた。会釈をして背を向けた伯爵を見届けると、クリストファーの従者について行く。
 レセンドが王宮のなかでも人気のない、宴の際などに使われる控室の並ぶ一画に案内されると、すでにクリストファー=ザラは来ていた。主君の姿を認めると、彼はさっと素早く膝を折った。当然のように示される敬意に、レセンドはやはり彼が憎悪するのは春陽だけなのだと確信する。
 クリスはわたしに失望しただろうが、まだ立ち返る好機があると信じ込んでいる。
「まずは、御凱旋お喜び申し上げます」
「───用件だけを、言え」
「………そういうところだけは、お変わりない」
 クリスは、平然とレセンドの言うことを無視した。だが、徒に言葉遊びをするつもりもまたなく、彼は感情の見えない瞳を主人に向けた。
「わたしのしていることの理由に、殿下はもうお気づきでしょう」
「お前は将来を………わたしに突き付けているのだな」
「ええ」
 もしこのまま春陽を側に置き続けるのなら。クリスは分かりやすくそれをレセンドに警告してみせたのだ。
 ランギス王国との戦乱がレイナによって仕組まれた両国の誤解からきていることを知りつつ、それを回避する努力をしなかったのも、民衆に噂を広げたのも、そして自分自身が裏切ったことさえ、それは主君に対する警告だった。もしこのまま春陽を側に置き続けるのなら、クリスのような者が策を練らずとも自然に、他国からは狙われ、民衆は不審を募らせ、家臣は離れてゆく。
(自明の理、というものだ。わざわざ警告されるまでもない)
「お前はそうして、わたしの目が醒めることを期待したのだな。……自分が不興を被り追放されようとも、かまわぬ覚悟で」
 クリスは沈痛な表情をした。レセンドがけっして改心したわけではないことを、その台詞の調子で気づいたのだ。
「本当に、貴方はあの陽香の公主を………?」
「ああ」
 かつてまだレセンドが立太子されたばかりの頃、彼の周りにはいくばくかの打算的な味方と、それ以上の敵が溢れていた。本当の意味での味方はダン伯爵しかおらず、それにしたってレセンドの母親が伯爵の妹ということを考えてみれば、彼は王太子に味方したのではなく、その血筋に味方したようなものだった。そんなとき、唯一レセンドに無償の忠誠を誓ったのが、このクリストファーだった。彼はまだ十代であったレセンドの才覚を見抜き、心酔したのだった。
 悔しそうに、けれどまだ諦めてはいない瞳で、クリストファーは言う。
「何故、陽香の公主なのですか。彼女ほどに美しく、彼女ほどに英邁な女性など、何処にでも………」
「ほう。お前は、春陽ほどに英邁な女を、何処で見た」
 嘲笑するかのような主君に、クリストファーは逸った。そこに隠れる自虐の響きに気づかぬままで。
「………そんな女性は、いくらでもっ」
 その台詞に、レセンドは自分と彼との間に横たわるどうしても埋められぬ溝を再確認し、溜め息をついた。
 もしクリスが本気でそう思っているのだとしても、彼は春陽の真価を知らないだけの話だ。それに、わたしが春陽を愛するのは、その聡明さだけではない。
 だがそんなレセンドの心中など知らず、クリストファーは自分自身の言葉に力を得て、もう一度同じことを言った。
「そうです、そんな女性など、いくらでもいるじゃないですか」
「くどい。お前は単純に、わたしに本気になって追い求める存在があることが気に入らないだけであろう」
 思いつきを口にしながら、王太子はそれが真相ではないか、と考えた。
「………なんと、わたしの忠義すら疑うまでに、貴方は………」
「勝手にわたしに失望すればよい。そしてわたしの眼前から疾く去れ」
 王太子の言葉に、その腹心だった男は目を細めた。薄い色素の瞳が、危険な色を浮かべる。本能的に警戒したレセンドに向かって、彼は静かに、半ば嬉しげに告げた。
「ならば………消えていただきましょう」
「わたしが、か?」
「いえ………春陽公主に、です」
 そう言ったクリストファーの様子は、却って痛々しいほどだった。レセンドの前にいる彼は、出会って初めて見るほどに、無様だった。レイナの策略と同じく、捨て身で、大それた計画の割りには稚拙で。かつて自分が忠義を誓った王太子を取り戻そうとする彼は、なりふり構ってはいられない。それ程に、クリストファーは焦がれている。
 しかしそれは、レセンドにはやはり愚かなだけにしか感じられない。
 ゆえにレセンドは鼻で笑った。
「春陽を殺せるものなら、殺してみるがよい」
「その余裕がいつまで続きますか。すでに刺客は放たれたというのに。昔の貴方に戻ってくださると約束していただけるのならば、刺客に計画の中止を知らせる合図をお教えいたしますが」
 主君への脅迫は、同時にクリストファー自身の胸に痛みを齎した。それが脅しとなり得る前提は、レセンドが春陽を大切にしているということ。誰にも執着しないはずの主君に惜まれる命が、この世に存在するということだった。
「だから無理だと言っている。あれがおとなしく殺されるような女か」
 内心で心配する気持ちは勿論あったが、今はクリストファーを再起不能なまでにたたき伏せる方が先だった。そうでないと、またいつおかしなことをするか分からない。
「お前はそれだから………愚かなのだ」
 躊躇なく、彼は絆に鋏を入れる。


 襲撃があったのは、それから四半刻のことだった。王宮にいた王太子が間に合うはずもない。
 そのとき春陽は、シュナウト宮殿の自室で、ダン伯爵フラント=カサンナを目の前としていた。ダン伯爵はレセンドの命を受けて、春陽の側に控えているのだった。あるかないかも分からぬ襲撃のためにじっとしていても息が詰まるだけなので、春陽はダン伯爵に茶と菓子を振る舞っていた。 侵入者がやって来たのは、本当に急のことだった。春陽が渋くなった茶を入れ換えるため、ポットを持って立ち上がったとき、色ガラスの窓が音もなく開き、五人の男が躍り出たのだった。
 三階だということで窓への警戒を怠っていた自らの失態に気づき、フラントは舌打ちしたが、すぐに彼は春陽を廊下に逃がそうとし、剣を抜いた。
 部屋の外には兵士たちを配置させている。彼らに知らせるため、フラントは侵入者だ、と声をあげた。しかし、廊下から何の反応もない。
「伯爵さま。外の兵たちの気配がしません。………それに、彼らがわたくしをおとなしく逃がしたりはしないでしょう」
 春陽はそう声を掛け、自身も衣装のスカートの中に隠していた短剣を抜いた。その様になる構えに、彼女が剣を扱えることを驚きながらフラントは知る。物腰から腕利きの暗殺者だと思える侵入者五人から、春陽を護りきる自信のなかったので内心は安堵したが、それでもそんな危険な者たち相手に春陽を立ち向かわせることを、彼が躊躇しないわけはなかった。
「くれぐれも無茶はっ」
 しないでください、という残りの台詞は、侵入者の一人が急に間合いを詰めたので、音になることはなかった。
 ダン伯爵の注意が春陽から逸れた隙を縫うように、残りの男のうち二人が、春陽に斬りかかる。
 一瞬の空白があり、春陽はごく自然に足を踏み込んでいた。やけにゆっくりと感ぜられる刃を柳のようにやり過ごし、そのまま更に踏み込んで、相手の身体に肉薄する。ほとんど密着したまま、反応できずにいる男の背後をとり、その背中、肋骨と肋骨の間に深く短剣を突き刺すと、大きく一文字に走らせた。手をぬめらせる血に、仕方なく春陽は短剣を手放す。
 男の絶叫が迸ったが、そのときすでに春陽は別の相手の懐に飛び込み、胸に重い叩掌を加えていた。呼吸困難に陥った相手の眉間に、容赦なく手刀を放つ。
 ダン伯爵も怠けていたわけではない。ガクラータ王国では貴族とは即ち全て武官を兼ねる。中には卑小な例外もあるが、彼は違った。かつての若さは失せたが、技は磨かれている。春陽がふたりを沈めている間に、彼はひとりに打ち勝ち、あっと言う間に五対二であったのが、二対二となっていた。
 侵入者たちは敗北を悟っていた。誤算は春陽の能力である。雇い主であるクリストファーさえ知らなかったのだから、彼らが計算し損ねたのも無理はない。しかし金を受け取った以上は殺しを遂行しなければならない。
 彼らはほとんど絶望的な気持ちで、獲物であったはずの者たちに相対した。




「宮殿から伝馬が来たぞ。………お前は失敗した。春陽は生きている」
 監禁という屈辱的な境遇に貶められたかつての腹心に、レセンドは意地の悪い台詞を吐いた。
「馬鹿な………」
 クリストファーは瞠目し、自分を失った。説得ではレセンドを改心させることが出来ぬのなら、主人の勘気に触れ、処刑されようと、元凶である春陽を殺すしかないと信じ込んでいたクリストファーは、全ての希望を失った。その様は、お前に興味が全くなかったと、レセンドに宣告されたレイナの様と似ていた。
「全ては殿下の御為でしたのに………」
「自分のためだろう」
 即座にレセンド王太子はそう返した。
全ては独善だ。異母兄を殺すことがレイナの為だと、死ぬまで信じて疑わなかったアルバートと同じように。
「認めろ。それはお前自身の願望だ。お前はわたしに執着している」
「レイナ様ではあるまいし………」
「別に執着は、愛だの恋だのの専売ではない。寧ろお前のように、忠誠や信仰などの方が大義名分があるぶん、無自覚にのめり込みやすかろう。レイナはその点、自身の執着とその愚かさを自覚していたぞ」
 それでも立ち止まることは出来なかったが。
「愚かだと、貴方は!?」
 断罪するのか、わたしを。
 クリスの叫ぶ様を、レセンドはそのとき正視しがたく思った。
(わたしに愚かさを見せつけるな………っ)
「そうだ、愚かだお前は」
「殿下………っ!!」
 目を逸らしたい誘惑に駆られながら、それでもレセンドはクリストファーを凝視する。冷徹なまでにクリストファーを、そして自分自身の行く末を見通そうとする。
 けっして手に入らぬ相手に心奪われた者の末路を。
 なんと皆が同じ道を選んでしまうことか。
 それほどまでに滅びというものは避けがたいものだろうか。
「ああ、愚かだ………」
 ───わたしもまた、かつて己が蔑み、嗤った存在となる。



*  *  *



 その報が陽香に届いたのは、実際に革命があってから一カ月も経てからであった。その頃陽香では、皇太子・陽孔明の仮の朝廷がなんとか機能し始め、よってガクラータ王国により受けた被害というものが明らかになってきたところであった。
 朝楚女王転覆、及び崩御。それを知った陽香は、動揺などという程度の驚きではなかった。まさに激震が走ったという形容こそが相応しい。
「反乱の起こる要因は数多くあったが、まさか本当に革命が起こるとは」
 女王唯一の子供である王女螺緤が、女王を弑したという。母と娘の血生臭い権力闘争を思い描いて、陽孔明は嫌な顔をした。
 とはいえ、朝楚の国主が変わったというのは、陽香にとっては朗報である。現に新女王螺緤からの使者は、それとなく陽香と再び同盟を結びたいという新女王の意志を匂わせている。このまま朝楚との同盟を結べば、ガクラータは味方を失い、陽香は随分と戦いやすくなる。
 そのようなことを考えながら、朝楚からの書状を眺めていた陽孔明の元に、再び朝楚からの使者が遣わされて来た。ただし前回が公的なものだったのに対し、今度は女王の内々の使者であるらしかった。
 陽孔明は早速、使者の目通りを許した。すると、使者の口から思ってもいない名が、いきなり飛び出た。
「………赫夜公主?」



 取り敢えず緋楽を呼べ、という陽孔明の命で、速やかに緋楽がその場に連れられてきた。あらかじめ朝楚に赫夜がいることを知っていた彼女は、朝楚で革命があったと聞いたとき、もしやとは思っていたので、革命に赫夜が関わっていたという使者の言葉には驚かなかったのだが。
「それにしても友人、ね」
 一体、いつの間に敵国の王女と友情を深めていたのだ。
「緋楽。わたしは何も知らなかったぞ」
 憮然として陽孔明は緋楽を見た。緋楽は何故かいつも、自分が持たない情報を握っているから侮れない。どうしてそういったものが、皇太子たる自分のところにはこないのだろう。陽孔明の悩むところである。
 緋楽が隠していた真の情報は、赫夜の消息ではなく、赫夜によって齎された春陽の変節の報であるのだが、それはまだ陽孔明は知らない。
「わたくしも、赫夜がこのようなことに係っていたという事実までは知りませんでした」
 緋楽はそう返すだけにとどめ、まだ春陽のことを切り出しはしなかった。
「女王陛下は、赫夜公主のご助力を大変感謝なされ、またこれから貴国との関係の橋渡しを期待されております」
 使者の言葉に、緋楽は冷静に言う。
「つまりは新女王としても必死なわけですわね、ここで赫夜の名前まで使ってくるというのは。当然の話でしょうけど」
「そうだな」
 口が辛くなるのは、どうしても過去に同盟を背約されたという前例があるからだった。そのせいで陽香が敗北し、ガクラータ王国に付け入る隙をつくってしまった。陽香人が朝楚に対して、裏切り者、という目を向けてしまうのは避けられぬことではある。
 こうなると女王も必死にならざるを得ないのも理解できる。感情的になった陽香が、同盟の話を蹴ってくる可能性もあるのだ。新女王が赫夜の友人であるということすら利用しなくてはならないのも、為政者としては仕方ないことだろう。
 勿論、同盟背約の張本人である螺栖女王の政治を覆そうというのが、新女王なのだから、陽香としても闇雲に嫌ったものでもない。また、使者の前で渋って見せるのも、足元を見られるのを忌避するための、外交術のひとつでもあった。
 つまり腹蔵なく言うと、陽香は受けたがっているのだ、朝楚が申し出てきた同盟を。それがすんなりとはいかないのは、国民感情という単純な、そしてやっかいな問題ゆえである。
 それでも、敢えて緋楽は一国を背負う兄に告げる。
「わたくしは、賛成いたします。赫夜が信頼した女性なのだし、ね」
 そうなのだ。これは、あの赫夜が支持したことなのだ。赫夜は自分が革命に加わるということが、祖国にどれほどの影響を与えるかは熟知していたはずだ。螺緤の人柄だけではなく、陽香の利益をも考えた結果、行動に移したに違いない。となると緋楽には、朝楚と再び同盟を結ぶことに反対する理由はないのだ。
「余も同じ心だ。まだ臣に諮っておらぬゆえ、確約することは出来ぬが、よい返事を送ることができると思う」
 外交話術では、回りくどい言葉運びの才能が必要とされるわけだが、陽孔明の場合、努力してもここまでに止まるというのは、彼の如何ともしがたい潔癖さからくるのだろう。
 緋楽は内心憂慮したが、使者は喜んだ。心から安堵したように笑みを浮かべる。
「それは僥倖。陛下もお喜びになることでしょう。それと最後となりましたが、もうひとつだけ、言伝がございますれば」
「なんだ。申してみよ」
「殿下がたの妹君から承っております。近々帰国を果たし、我が国で起こったことの報告をしたいとお望みのこと」
 望みというほどのことではない。戸惑いながら陽孔明は口を出した。
「勿論、許可する。彼女は余の異母妹で、立派な皇族の一員だ。何も遠慮することはなかろう」
「勿論そうでしょう。ですが公主はそれを一時的な帰国であると。あの方は我が女王のご友人として、しばらく朝楚に止まることをご決意なされておいでだと存じます」
 兄妹は顔を見合わせた。
「どういうことかしら………」
「さあ………」
 不可解だ、というのが彼女らの一致した感想であった。聞かされる赫夜の行動が、どうしても彼らの記憶にある赫夜の印象とそぐわない。
 他国の革命に加わった、というのもそうだ。赫夜は苛烈で、聡明な娘だが、反面とても儚く、行動的とは言い難い。自分の国のための革命ならば話は別ではあるが、他国の革命に加わるほどの力があの娘にあったか。
「あのこもまた、変わったのかもしれないわね」
 どこか寂しい気持ちで、緋楽はそう独白した。
 わたくしや兄上が変わらずにはいられなかったように。
 そして、春陽もまた。
(───逃げるのは、もうおしまい)
 赫夜の口から告げられるのは、きっと春陽の罪。
 覚悟しなくてはならないだろう。



*  *  *



 赫夜が帰国を果たしたのは、更にそれから二週間を経てのことだった。
 彼女は女王の恩人として朝楚では遇されているらしく、三百の護衛をつけての帰国となった。
 到着したばかりの赫夜に対面したとき、緋楽は赫夜が纏う雰囲気の鮮やかさに息を飲んだ。肩口までに短くなっている髪のせいばかりではない。異母妹は、明らかになんらかの変貌を遂げていた。苛烈なものを秘めながらも、儚さが全面に押し出されていたがゆえに、線が細さが強調されていたかつての赫夜は、もうそこには存在しなかった。
 目映いばかりの、脱皮。
 だが緋楽が立ち竦んだのもほんの数秒のことだった。赫夜が恥も外聞もなく、緋楽の胸に飛び込んで来たのである。抱き締めた緋楽の腕の中で赫夜は号泣していた。
 緋楽の瞳も濡れていた。
 今まで離れていた間に起きた、さまざまな辛いことが後から後から押し寄せ、言いたいことがたくさんあったのに、彼女たちは互いに、それをなかなか言葉にすることができなかった。
「ずっとお会いしとうございました。姉さま………っ!」
 涙ながらのその台詞に、不安による脆弱さは含まれていなかった。ただ純粋な喜びだけである。あの別れのとき、赫夜は絶望に瞳を濡らしていた。心が壊れたのではないかと、後々緋楽を心配させたほどに。だが今、眼前にいる異母妹の勁さはどうか!
 赫夜の変化は、けっして悪い方向のものではなかった。それどころか、おそらく彼女は逃亡生活の中で度々辛酸を嘗め、修羅場を見て、そして人間として成長を果たしたのだろう。
 精神状態が安定したふうである異母妹を見て、たぶんあの落都以来、初めて心の底から緋楽は幸せを感じた。それは赫夜にも敏感に伝わった。この場において、前に春陽と再開したときのような冷たさや偽りはかけらも含まれておらず、それが赫夜を無防備にさせた。
 だが抱擁が終わった後、赫夜は姉の温かさを求めたがる自分を戒めた。幸せに浸るために、帰国したのではない。寧ろ自分は、暗雲をこの紀丹宮に知らせるために来たのだ。
 彼女はすぐに、皇太子・陽孔明に会見を申し込んだ。緋楽も春陽のことだなと察し、報告は明日にしてささやかな歓迎の宴を開こうと言う兄に、ぜひとも会見を受けるべきだと勧めた。陽孔明もまた、妹の態度になにかあると思い、赫夜を望みどおりに謁見の間へ召した。
 久方ぶりに陽香の裳を身につけた赫夜は、改まって拱手した。
「わたくしの我が儘をお聞き届けくださいまして、感謝しております。あと、陽孔明さまの立太子の儀、異国の地にありました由にて列席できなかっ
たことを、遅ればせながら申し訳なく存じます」
「いいのだ。それで赫夜公主、貴女がわたしに報告したいということは?」
 人払いをして異母兄妹の彼らだけということで、陽孔明は堅苦しい言い回しを抜きにしてそう尋ねたのだが、赫夜の緊張は解けなかった。陽孔明に緊張しているわけではない。これから春陽のことを口にするための緊張であった。
 単刀直入に口にするのは流石に躊躇を覚えたのか、まず赫夜は事情を知っ
ている緋楽の方に視線を向けた。
「緋楽姉さまには書簡ですでに申し上げている通りなのですが、姉さまはまだ陽孔明さまには………?」
「まだです。まだ申し上げてはいません」
「緋楽?」
 また何かを隠しているのかと、諦め交じりに陽孔明は緋楽を見た。緋楽はそんな兄と瞳を合わせることが出来なかった。
「陽孔明さま。話とは、ガクラータ王国に渡った春陽のことでございます」
「春陽………?」
 赫夜はひた、と陽孔明を見つめた。陽孔明が春陽と恋人であったことを知らないからこそ、出来たことかもしれない。
「飾らぬ言葉で申し上げます。あの娘は、陽香を裏切りました」
「!!」
 陽孔明は、言葉を失った。









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