緋楽の章(4)


緋楽の章 [4]





 暁の夜を思わせる艶やかな金髪の娘は、呟く。
「そう………兄様が死んだの」
 哀しみではなかった。
 誰の死も哀しくなかった。
 娘はただ、期待していた。



*  *  *



 その日、春陽はシュナウト宮殿でダン伯爵フラント=カサンナの訪問を受ける約束になっていたので、自室で侍女に身繕いをさせていた。短くなった黒の艶髪を梳かせ、絹のリボンで結わえさせている間、彼女は寒そうな風の吹く外を眺めていた。今朝、王太子がランギス軍を殲滅したという報告が都に届いたが、これではレセンドがどれほど早く王都に戻って来ても、すぐに陽香へ出陣することは叶うまい。
 なんとも形容しがたい感情を抱いた春陽は、もうすぐ自分が会うことになっている人物のことに思いを馳せた。彼もまた、どうにも救いようのない自分とレセンド王太子の関係を憂慮している人間だろう。
 春陽はかつて、ダン伯爵を警戒していた。ダン伯爵は第二妃ルカの兄で、王太子の後ろ盾であることから宮殿での発言力も強い。勿論、彼自身の才覚がなければ、あの王太子が後ろ盾につくことを許すわけがない。特に春陽が彼に注意を払ったのがその慧眼。彼の人を見る目は折り紙付きだ。何しろダン伯爵は、王太子が春陽に惹かれるだろうことを唯一予想しえた人物で、春陽には釘さえ打っていたのだから。尤もそれは無駄となったが。ともかく王太子の暗殺を目論んでいた頃の彼女にとって、伯爵の存在は人間的には好感を持てる相手ではあるものの油断できないものだった。
 だが、今は少し違う。春陽は、ダン伯爵が持つレセンド王太子への忠誠心とはまた微妙に異なる感情に、希望を抱いていた。レセンド王太子も、ダン伯爵自身も気づいてはいないが、ふたりの距離はそれぞれが思っている以上に近い。ともすれば親子ほどに。ダン伯爵がレセンド王太子の孤独を癒してくれるのではないか、と。
 そのダン伯爵が何の話があるというのだろう。レセンドの側にいることを決めたわたくしには、伯爵を警戒する必要はなくなった。けれど彼にしてはそうにもいかないのだろう。現在、王太子は宮殿を空けている。だからこそ伯爵はわたくしに会い来たのかもしれない──王太子殿下を抜きにせねば出来ぬ話を、わたくしに語るために。
(わたくしは………あの方を駄目にするから)
 春陽がそう胸中で呟いたとき、ダン伯爵が到着したという知らせがあった。春陽は一度瞳を閉じると、履き慣れた沓を履くようにごく自然に毅然とした自分を装った。



「よくいらっしゃいました」
 侍女に人払いを命じてから、春陽はダン伯爵フラント=カサンナに微笑んだ。見る者をはっとさせずにはいられない鮮やかな笑みである。迷いとは無縁とでもいうような高潔さを漂わせながら、けして冷たさがない。
「久しくお会いしませんでしたな。ご健勝であられましたか」
 紳士然として、相手も穏やかに笑顔を見せる。見事な銀髪にわずかに白髪が混じった、品の良い中年貴族である。その銀髪はカサンナ家の血を引く者の多くが持つ色であり、レセンド王太子もまた同じ色を持っている。
「お陰様で」
「今日は息子も連れてゆくはずだったのですが、戦地から王太子殿下からの召還がありましてね」
「ああ、滅んだ……彼の王国の整理のために」
「ええ」
 ひとつの国を滅ぼしたのだ。それなりの整理は必要だ。もっとも今のガクラータにはランギスを併合する余裕などあるはずもない。最終的には、自国に友好的な政治をとることを条件に、新しい君主でも立ててやってランギスを解放するのだろう。
「王太子殿下直々にお呼びが掛かったというのなら、息子さんは有能でいらっしゃるのね」
 春陽の言葉に伯爵はもう一度ゆっくり微笑み、そしてすらりと中剣を抜いた。並の騎士ならば反撃する暇すら見いだせぬほど素早く、しかし無造作に間合いをつめて、彼は微動だにしない春陽のその細い喉仏に刃を押し当てる。――刹那で成された雰囲気の転換。
 互いに何の表情も浮かんでいなかった。
 同時に、それは言葉以上に能弁であった。
 なるほど、とダン伯爵は呟く。
「ご自分が正しくないことをよくご存じのようだ」
 伯爵は目を細くさせた。春陽はそれを凝視する。
「死んでもいいと、殺されても仕方のないことをしていると自覚なさっているのなら話は早い。──否、寧ろ殺されたいと思っておられるようだな」
「………」
 無言を通す春陽に、ダン伯爵は首に押し当てた刃を少しだけ引いた。少女のきめ細やかな肌に、ごく細い朱線が走る。
「沈黙は罪です」
 促されるようにして、無表情のまま春陽は口を開いた。
「貴方様はわたくしの行いを裁くためにわたくしの元を訪れたのではないのでしょう。試しているつもりなら………おやめください。わたくしは刃を向けられると死にたくなる」
 無言で、フラントは刃を収めた。
「貴女はこの国の王家に血を交ぜて良い方ではない」
「妻になろうとは思いませぬ」
 即座に春陽は切り返した。
「それならば貴女は何故───何故、殿下を受け入れられた」
「………何故、でしょう」
 春陽の無表情が一瞬崩れた。それこそが春陽の内面を解体するための鍵なのだと、フラントは気づいた。
「何があったのです。殿下と、貴女の間に」
 春陽は躊躇し、だがすぐに気を変える。彼には明かすべきだ。
「わたくしは………レセンド殿下を殺そうとしたのです」
「───貴女が殺したのはアルバート王子だと、聞いておりますが」
 直球にすぎる真実の告白に、動揺せずに反応できた自分を、フラントは意外に感じた。彼は、春陽がアルバート王子を殺した(のだろう)ことは知っていたが、レセンド王太子の命まで狙っていたことは知らなかった。しかしそれを聞かされてもそれほど驚きはなかった。
「そう。結果的にわたくしが殺したのはアルバート王子。けれどわたくしが本当に暗殺を企んでいたのはレセンド殿下の方」
「何故、当初の企み通りにしなかったのです」
 春陽は簡単に、あの晩に起こったことを伯爵に語って聞かせた。禁忌であったはずのその出来事は、口に出してしまえば自分の滑稽さが浮き彫りになるだけだった。
 春陽の告白に、ダン伯爵は冷や汗が出る思いだった。いままでダン伯爵は春陽が王太子を精神的に受け入れたことを責めていた。だがもし彼女が受け入れていなければ、王太子はこの世の人ではなかったことになる。どうせ王太子が春陽に反撃できたはずがないのだから。
 殿下は苦しい程、この少女に魅いられてしまっている。だがこの少女の方も、殿下の強すぎる想いに抗えなくなってしまっていたとは……。
 ダン伯爵が見る限り、春陽はまだ祖国に縛られている。そして春陽は王太子をひとりの男として愛しているわけではないし、自分の存在が王太子から誇り高さを奪ってゆくことを理解している。だが彼女は………王太子を選び、覚悟してしまった。王太子が望むまま側で生き、彼とともに逝くことを。ガクラータが繁栄しようと滅びようと関係なく。
 確かに春陽姫は殿下を愛してはないが、それと同じ、いやそれ以上の強さで殿下との絆を結んでいるのではないか。
 伯爵は、初めて希望を抱いた
「伯爵さま。これを聞いてどうなさるおつもりですか……?」
 静謐ささえ湛えた春陽の問いに、伯爵は彼女の孤独の深さに気づいた。王太子だけではなく、彼女自身も孤独なのだ。
 この少女に全てを託そう。この少女にさえ出来ないのなら、誰も殿下を幸せにすることは出来ない。
「もし貴女が殿下を選ぶというのなら、けして最後までそれを覆さないでいただきたい。殿下の方はどんなことがあっても貴女をお離しにはなられないでしょう。貴女もその気持ちに応えることが出来ますか……何があっても」
「ええ、分かっております」
 真剣に問いながらも、伯爵は春陽が否定することはないことを半ば確信していた。
「貴女は今、ガクラータ中から疎まれている。貴女の身に何があるかも分からない。これを聞いてもですか」
「わたくしの気持ちの変わりはありません。国を裏切ってまで、あの方を選びました。今のわたくしが優先するものは、あの方以外にありえまい」
 予想通りの返答に、ダン伯爵は涙が出そうになった。たとえそれを口にする春陽が、今現在も常に進行形で絶望しつづけているのだとしても。癒されぬ絶望などあるのか。
「ならば、申し上げることができます。 ――貴女はクリストファー=ザラ卿をご存じですか」



*  *  *



 ばたばたと騒々しい靴音。
 周囲の侍女たちに痛い程の緊張が走る。
「王妹殿下!」
 侍女たちが自分を守ろうと取り囲んだのを、レイナは感慨を持って見ていた。今やわたくしはガクラータ人から敬われる立場ではなく、凶刃を向けられる立場となったのだ。もはやわたくしはガクラータ王太子妃ではなく、彼らの敵国・ランギスの王妹でしかないのだから。
 血塗られた長剣を手にした青年がその部屋に突入したとき、彼女は優雅に立ち上がり迎え入れた。ただの雑兵ではなく、自分の望んでいたとおりに銀の青年がやってきたため彼女は安堵の笑みを――否、むしろ彼女は勝ち誇っていた。
「よくおいであそばせました」
 レイナの行為の卑怯さを知っている者でさえ、彼女の様子は儚く可憐にしか見えなかった。こんな娘の手のひらで、一時的とはいえふたつの国が踊ったという事実が信じられない。
「何故で………何故にございますかっ!?」
 我慢しきれずに、ガクラータ人によって真実を知らされた大臣は血を吐くような叫びを上げた。ランギス王国に滅びをもたらしたこの戦いを企てたのは、ガクラータ王国ではなく――。
「―――姫!」
「わたくしはただ、貴方様を困らせたかったのです」
 レイナが答えた相手は、問いを発した大臣ではなくレセンドにだった。 不可思議とも思えるレイナの行為は、全てレセンドに対するこの思いからきていたのだ。彼の夜の訪れを拒んだのもそう。敵国の王太子に恐れや嫌悪を抱いていたわけでも、自分が彼の子を孕むことによって祖国が被るだろう政治的不利益を憂慮したからでもなく、ただレイナは彼を困らせたかったのだ。
「そうすることでしか、貴方の心に触れることが出来なかったので」
「まさかわたしを愛したとでも言うのか?」
 レセンドは鼻で笑った。わたしを滅ぼすため祖国ごと無理心中を計るなど、馬鹿馬鹿しくて笑いしか出てこない。
「やはりお前はつまらぬ女だ」
「――貴方がっ 貴方がわたくしの心を引き裂いたのです………っ!」
 心底つまらなそうな調子でのレセンドの台詞に、レイナは激昴した。
 それはレイナの、ただ一度だけの本音だった。
(………それでも、儚い)
 ぼんやりとテイトは思う。こんなときでさえ、心の叫びを放った瞬間でさえ、レイナは脆弱さを見せる。まるで、彼女には燃えるような心など有せるはずがないと、錯覚してしまうほどに。
 否、きっとそれは事実なのだ。
 彼女の叫びは悲痛ではあるが、怒りの具現ではありえない。
「わたしはお前の心など切り裂くつもりはなかった」
「言い訳、ですか」
 激昴を抑えこんだレイナは、代わりに歪んだ笑みで言った。
「違う」
 返した王太子の言葉は冷淡極まりなかった。
「引き裂くつもりなどない。お前に興味がないからだ。お前はランギス王国の王妹という地位をもつ王太子妃でさえあれば良かったのだ」
 わたしが求めたのはお前の血だけ。その心まで欲してはいない。
 お前の性格も、拘りもわたしには関係ない。
「………そうでしたね。貴方はわたくしに冷酷な扱いすらしてくださらなかった。全くの無関心………」
 そう呟いたレイナの唇は、戦慄いていた。
 この人には情というものが存在しないのだろうか。
 テイトは胸を痛くさせながら思う。
 春陽以外の者など何ひとつ必要ないのだといわんばかりの態度。全てを捨て去ってまで、自分の存在を相手に焼き付けようとしたレイナに対して、どうしてあれほどまでに容赦がないのだろうか。
 レイナの犯した罪は深すぎることは分かっている。国を統べる一族の者としてけしてやってはならぬことをレイナはした。ランギス王妹としても、ガクラータ王太子妃としても。けれどその大罪を犯したのは外ならぬレセンドのためだというのに。
 レセンドはそこで不毛な会話に終わらせた。彼の本来の目的を果たそうと、口を開く。紡がれたのは宣告、そして断罪。
「大罪犯せし女・レイナ・グローヌ。吾、ガクラータ王国王太子レセンドが秤がけ、断罪せり。罪の名は叛国・背神。罪等は第一級・斬首が本来ではあるが、その生まれの貴(たっと)きと、その身に冠した王太子妃位を慮り、罪一等を減ず。サチス神より王位を授けられし聖上、至尊の君たるキーナ三世の御名において、汝死を賜ることを許す」
 死を賜るとは、つまり自殺が許されるとのことだ。これは先程レセンドが言った通り、彼女が身分を考慮しての減刑である。もし彼女がただの中級貴族程度の女ならば、重石を足に括り付けられ、首に犬のように首環を嵌められ、都を行進させられ晒し者になった後、人々が石を投げる中で公開処刑されることとなったはずである。
 レセンドの宣告に、ランギス王の王妹はこくんと頷いた。なんの表情も浮かばない、虚ろな瞳であった。
(なんてあっけない)
 レセンドは内心そんなことを考える。アルバートを破滅させ、一国を滅ぼした女が死ぬにしては、あっけなさすぎる。全ての元凶が彼女だと知って、レセンドはかなり驚いていたのだが、やはり結局はこの女はこの女でしかないということか。
(まあ、わたしをここまで苛立たせることには成功したが、な)
 それこそがレイナの目的。だが本人には教えてやらない。自分をこうまで患わせたのだ。わざわざ幸せにしてやるつもりはない。
 孤独に死ねばいい。それが恋に狂った者の末路だ。
 レイナと彼女と親しかった侍女を残し、王太子たちは部屋を出た。
 ――しばらくして侍女の慟哭が響いた。



*  *  *



 木刀を打ち付け合う音が、ある規則性をもって幾度となく響いた。一合斬り結べば、もう一合、両者ともに息があがり始め、浅い呼吸の繰り返しに空気が震える。ただの訓練では終わらない気迫に、それを見た者の多くは、片方が年若い娘だということにしばらく気づかない。
「そろそろ休憩なさったらどうですか」
 しばらくしてようやくかかった隆貴の言葉に、これ幸いと礼淨は竹刀をほうり出した。彼が稽古相手となっていた赫夜の方も、膝をつく。初冬の肌寒い空気が火照った身体に気持ちよい。
 隆貴が苦笑と感嘆が半々の声で
「技だけでなく、女君とは思えない体力ですな」
 赫夜も笑った。確かに武器を振り回すような娘は、庶民でもちょっと見られないだろう。
「それにしても情けないのはお前だ」
 視線を転じて隆貴は息子の方を見る。
「お前はそれでも武官か」
「陽香最高の技を学ばれた公主相手に互角の試合ができて、寧ろ光栄に思いますが」
 礼淨は悪びれもせずに答える。もともと朝楚という国に育った礼淨に男尊女卑の考えは薄いし、心底赫夜を認めている彼は、男である自分が公主を打ち負かせないことを恥とは考えていなかった。いや、寧ろ傾倒しているといえるかもしれない。少なくとも隆貴はそう考えたようである。彼は仕方あるまい、という顔で諦め混じりの笑みを漏らした。
「公主。そろそろ用があるのでわたしは失礼します」
「そうですか。礼淨、わたくしたちも終わりましょう」
 隆貴が稽古部屋を出て行くのを見守ってから、二人は立ち上がって、自分たちも部屋を後にする。
 熱が引いた身体に、冬の冷気はきつい。自然と赫夜の歩調は早くなる。
「もう、冬なのね……」
 見事な庭園を臨める回廊を礼淨とともに歩いていた赫夜は、早い季節の変化に戸惑ったように呟いた。
 ――本当に、いろいろなことがあった。
 なにもかも無我夢中で過ごしてきた。その日々の大半は流されるのみで、為せたことはあまりに少ない。
 この数ヶ月のうちに起こったことを、反芻する。回顧が妹公主にまで至ったとき、胸に走った痛みを誤魔化すように赫夜は手を握り締めた。
 緋楽姉さまは、知るのだろうか。春陽の変節を……。
 胸が痛い。胸が痛い。
 それでも、目を逸らすつもりはない。
(公主……?)
 赫夜の隣を歩く礼淨は、何故か彼女が厳しい表情をしていることに気づいた。……何かあったのだろうか。
 触れなば落ちんといった風情の繊細な美貌は、しかし凛と張り詰めている。その様は酷く美しく、そして――哀しいほどに強い。
 礼淨は立ち止まり、彼女を呼び止めた。
「公主」
 振り返った赫夜の目に移ったのは、何やら意を決したふうに表情を改めた礼淨の姿だった。
「礼淨?」
「公主。わたしは………俺は、貴女を慕っている」
 唐突のことに赫夜は瞠目したが、礼淨は頓着しない。
「はっきり申し上げよう。惚れてます。嫁に来てほしい」
「礼、淨」
 何と言ってよいのか分からず、赫夜はとにかく礼淨の言葉を制止させようと、彼の名を呼んだ。しかし礼淨は黙らなかった。彼は数日前から想いを伝えることを決意していたが、なかなか行動に移せずにいた。それが、やっと口に出すことが出来たのだから、ここで黙っては意味がない。
「戯言ではございません。本気です」
「………分かった」
 驚きから脱した赫夜は、突然の求婚に頬を染めながらも苦笑した。なんと不遜なことを言う男だ。曲がり仮にも公主に向かって、嫁に来てほしいと宣う者がいるとは。
 そう考えた赫夜の脳裏に、ある青年が浮かんだ。彼女はその意外さに再び驚き、そしてその青年を思うたび胸に競り上がってくるものの正体を知ったのだった。
「けれど、わたくしには想う人がいるわ」
 赫夜はようやく気づいたことを、素直に礼淨に告白していた。
 そう、あれはきっと恋だったのだ………。
「………それは雄莱という男ですか」
 赫夜は無言で頷いた。
 そのとき礼淨の受けた衝撃は如何ばかりか。
(逓雄莱は、死んだ)
 礼淨はそれを知っていた。
(公主には………言えない)
 雄莱は、自分がこの公主を捕らえるために利用した村の人間だった。雄莱は、ただ一人それに加担しなかったために村人との間に軋轢が生まれ、結果ろくに手加減を知らない若者たちから私刑を受け、命を落とした。
 いわばそれは礼淨のせいだった。
 しかし、礼淨がこの件に関して黙秘を心に決めたのは、保身のためではない。ただ純粋に赫夜のためだった。赫夜はあまりに儚さが似合う少女だっ
たが、礼淨は彼女を儚いだけの存在に戻したくはなかった。
 自分と出会う前の赫夜はそんな存在だったという。それが雄莱と出会い、変わったのだと聞いた。礼淨が赫夜と出会ったのは、彼女が変わったあとである。だから礼淨の赫夜の第一印象は儚さからは無縁だった。
(睨めつける瞳が鮮やかだったな)
 そのときの毅然とした赫夜は記憶に新しい。だがそれがきっかけで雄莱と引き離された赫夜は、再び儚さを纏うようになった。だんだん弱くなってゆく様をつぶさに見て、礼淨は大層意外に感じたのだ。赫夜は儚さが似合うが、彼女の本来の輝きと比べると如何にも平凡で他愛なかった。
 右翼曲折を経て、赫夜は自分の弱さを打ち負かす強さを手に入れたが、心の支柱だった雄莱の死を知れば………どうなるか分からない。悪くすれば絶望するかもしれない。
 そこまで考えて、礼淨はふと我に返る。一世一代の大勝負であるはずの求婚の最中に、意中の相手にはどうしても忘れられない青年がいるという事実を苦もなく受け入れている自分に苦笑した。
 彼は、公主がこの想いに応じてくれる可能性を、万に一つも信じていなかった。初めから玉砕することが分かっていたのだ。
 礼淨は、この想いにしがみつこうとはしなかった。英邁な公主に従う臣下、という立場もなかなか良いと思う。あわよくば戦友にもなれるかもしれない。どんな関係になろうとも面白いだろう、この女とは。敵対する関係ですら、楽しいに違いない。
「公主………お忘れください。単なる血迷いごとです」


 自室に戻ると、にやにやしている張功梨が勝手に上がり込んでいた。
「ついにやったか」
 張功梨は何故か嬉しそうに礼淨の肩を叩いた。
「お前の親父と同様、お前も女っ気のない奴だと思っていたが、普段遊ばない奴ほど無謀なことをするっていうのは本当だったようだ」
 なあ、と功梨が同意を求めて視線を転じた先には隆貴までもがいて、礼淨は呆れ果てた。
「用事があったのではなかったのですか、父上」
「何、気にするな。息子の大事に用事どころではなかったんだろうよ」
 そう答えたのは功梨であって、当の隆貴は憮然として悪友の言葉を無視した。どうやら隆貴の方は自分から進んで息子を揶揄いにきたわけではないようだ。
「で、首尾はどうだった」
「その言葉からすると、流石に最後まで出歯亀していたわけではないようですね」
「当たり前だ。俺が子供のように可愛いがっているお前の邪魔をするわけはないだろう」
 ぬけぬけという父親の友人にそっけない対応をする。
「どうだか。……まあ、結果は貴官の想像通りですよ」
「何だ、やっぱり袖にされたか。ま、相手は陽香国の公主だしな」
「そういうのでは、ないですよ」
 それに対しては礼淨は反論した。地位は関係ない。もし自分が陽香人でしかも高官だったとしても、赫夜公主は自分を選ばなかっただろう。反対に、もし自分のことを好いてくれるのならば、自分が朝楚人だということは全く気にしないはずだ。
「……まてよ。礼淨、お前、公主が御年いくつか知っているか」
 唐突に、功梨が珍しく慌てたふうに尋ねてきた。急な話題の変換に戸惑いながらも、礼淨は答える。
「確か……十八だと聞いておりますが」
「……お前の方は?」
 ここにきて、礼淨はようやく彼の言わんとするところが分かった。誤解された、と思った彼は焦って耳朶まで赤くさせた。
「さ、三十ですがっ、……なんて顔してるのですかっ。違いますよ、───誤解ですっ!」
「だがお前……」
 心底困ったというのと同情するのと半々の顔をする功梨に、柄にもなく礼淨は更に焦りまくる。
「俺は、いえ小官は少女趣味じゃありませんし、公主を少女とも思ってはいません!……ちょっと、父上までそんな顔をっ」
 彼らが陽香人であったなら、礼淨が責められる謂れもなかったのだ。陽香では、年寄りの元に幼い少女が嫁入りするという話も珍しくなかったので。だが男性社会であり一夫多妻が認められている陽香と女系民族が人口のほとんどを占め、厳格に一夫一婦を守る朝楚では、倫理観が違う。
 結婚年齢一つとってもその違いは明らかだ。陽香ではどんなに幼くとも結婚できるのに対し、朝楚では女性が結婚を許されるは早くて一六歳から。これは子供を孕まなければならない女性の身体を守るためにできた法である。朝楚人の結婚適齢期はもっと上となり、男女とも二十二〜三と言われている。これも、特に適齢期が定まっていない陽香とは異なる。陽香では二十代後半での結婚も別に遅いとはされていない。
 というわけで、政略でもないのに三十男の礼淨が十八才の赫夜に求婚したことは、朝楚では、結婚にはまだ早い少女を婚期を逃した男が恋慕しているということになる。明快に言うと、礼淨は世間に“好きもの”と思われるというわけだ。
 同情を込めた顔で功梨は友人の息子を見た。
「お前が今までどんな縁談に興味を示さなかった理由が、ようやく分かったぞ。二十越した女は駄目なんだな」
「だから違いますってば!」
 いい加減腹が立って声を粗げた礼淨を抑えたのは、今まで沈黙を守っていた隆貴の冴えた声だった。
「───功梨、もう満足しただろう。そろそろ本題に入りたいのだが」
「何だ、隆貴」
「何か用があるから、この家に訪れたのだろう?」
「功梨殿?」
 ようやく礼淨も功梨に揶揄われていただけということに気づいたわけだが、何か重大そうなので文句を差し控えて、取り敢えず問う。
 張功梨はここで表情を改めた。
「今日、王彎が投獄された」
「!───とうとう」
 彼の言葉に、隆貴もまた厳しい顔で声をあげた。
 王彎とは絮台に残る数少ない諌言の臣であり、彼らの計画を知る仲間でもあった。名家である王家の当主でもある。功梨や隆貴より五つ年上で、直情的にすぎるところが玉に疵ではあるものの、彼らは王彎を先輩として、また友人として尊敬していた。
「何の咎で」
「あいつは王女の肩を持ったんだよ、女王の前で」
「王彎も迂闊な。けれど、女王もそれだけで重臣を――それも王家当主を縛するなど……」
 耄碌したか、と隆貴は彼らしからぬ過激な言葉を口の中で呟いた。
 事の発端は、ガクラータが陽香から一時撤退したという報告が朝楚に届いたことだった。今まで母親を恐れて口を閉ざしていた螺緤王女がついに陽香との和解を進言したことが、母子の決定的な仲違いいを生んだ。
 王女の提案を歓迎したのは、もともと女王の政治に不満だった者たちだけでない。女王派の中でもガクラータ王国を不審に思う者はいる。彼らは口には出せぬものの、そういうことは敏感に空気に現れるものだ。結果、宮中全体で、この王女の提案を現実にしようという雰囲気になってきた。
 そして、まず彼女を政治に参加させようという動きが起こった。建前は、次期女王である螺緤を教育しなければならないというものだったが、それは明らかに、女王を牽制しようという企みである。
 もともと疎ましく思っていた王女が自分と対立する意見を強く申し立て、それに臣下の一部が賛同し、王女派なるものが生まれた。それは女王を焦燥させるに十分であったことだろう。もし王女の意見が取り上げられることでもあったら、それは王女が女王の権威に対して無力であるという臣下の認識を一変させ、王女の政治的立場は飛躍的に増大する。そうすれば女王は数年後には確実に退位を迫られる。
 陽香かガクラータか。この外交問題は国家の大事であるだけでなく、女王個人の大事でもあるのだ。螺栖としては意地でも譲ることはできない問題だった。
 だが螺栖はこのことを全く予想できなかったわけではない。彼女はいつか娘が自分に刃向かってくることを半ば確信していた。性格はともかく、本質という点において紛れもなく螺緤は女王の子である。いつまでも女王の言いなりになることは、皮肉にも女王自身から受け継いだ王者の血のために不可能だったのだ。
 張功梨たちも女王と同じく、以前からこのように螺緤王女が螺栖女王に逆らうことを予想し、またそうなることを期待していた。彼らはいつか王女が自立するだろう未来に賭けていた。いくら彼らが螺緤を王位につけても、彼女が自立できていないのなら暗愚な王を生むだけになってしまう。だからこそ現在の母子の争いは、螺緤が自立するという意味では計画の大前提であったし、そのために起こる宮廷の情勢の変化自体が、計画を成功させる要素のひとつとなっていた。
 尤も、先程の隆貴の台詞からも分かるとおり、彼らは表向き王女派には属していなかった。実際には王女を擁立するために女王転覆を目論んでいるのだから、筋金入りの王女派なのだが、今女王に睨まれるわけにはいかないのだ。
「隆貴。俺は王彎の投獄は契機だと思う」
「そうだ、な」
 頭の中で目まぐるしく現在の状況を分析した結果、岨隆貴は慎重に張功梨の言葉に頷く。
 王彎は人望のあった男である。彼の投獄に憤慨する者は多いだろう。そして臣下の心はまた少し王女に傾いたはずだ。
「父上。それでは」
 礼淨はふと赫夜のことを思い浮かべながら、問うた。
「ついに、決行するのですね」



*  *  *



 兄から遅れること二週間、緋楽はようやく紀丹宮への帰還を果たしていた。兄や重臣たちとの形式的な挨拶が済んだあと、彼女がまっすぐ目指したのは、自室であった。
「………」
 何も落都の以前から変わりのない自室の様子に、『ここだ』と緋楽は思った。自分が取り戻したがっていたのは、この空間だったのだ。責任を伴った『陽香』という大きすぎるものよりも、無自覚のうちにわたくしが本当に望んでいたのは、この『空間』に象徴される懐かしくて分かりやすいものが、再びこの手に戻ってくることだったのだ。
 何故ならここが、ここで過ごした時間こそがわたくしの幸せ。
 母がいた。父がいた。兄がいた。たまに訪ねてくる、ふたりの愛しい異母妹がいた。それは優しく、穏やかな時間だった。
  ――もう戻ってはこない。
 両親はもういない。最愛の人と隔てられ、皇帝となる兄はもはや以前の兄ではない。春陽と赫夜はわたくし自身が切って捨てた。陽香のために。
 感傷は長く続かなかった。緋楽の胸の内を占めたのは猛々しい、けれど静かな感情だった。
 それは憎しみだろうか? 自分から全てを奪った敵国に対する。
 否、そうではない。それは己に対する確認だった。もう戻ってはこない幸せならば、懐かしむまい。異母妹たちを切り捨ててまで陽香を守る道を選んだのだから、それを突き進むしかない。女だから、公主にすぎないからといって目を逸らさない。汚濁を兄にだけ押し付けて、過去の優しい思い出だけを抱いて泣き暮らすことなど出来ない。
「緋楽」
 背後からゆっくりと話しかけられて、緋楽は振り返った。
「 ――兄上」
 泣きそうな顔をしていただろうか、と少し心配しながら、兄に向かって笑いかけた。
「兄上、どうしてここに?」
 妹の表情に気づかなかった振りをして、吉孔明も自然に小さく笑った。
「わたしの立太子の儀が決まったのでな」
「それは……。いつになりました」
「明後日」
 そんなに早く準備できるのか、というとできるのである。戦時中なので吉孔明の立太子の儀は質素にするのは当然のことだったし、もともと立太子の儀は戴冠式とは違い、奢侈を抑えるのが慣例であった。儀式は紀丹宮の中だけで行い、市井へのお披露目もしない。一応祝宴はするが、国をあげての祝い事にはならないのだ。
「布告は間に合うでしょうか」
「遅れてもかまわない。だが、まだガクラータの支配下にある民たちには、必ずわたしの立太子を布告しなければならない」
 自分たちを救うのは皇太子・陽孔明なのだと民に知らしめるのだ。彼らに希望を与え、ガクラータ人たちに動揺を与えるというのが第一の目的であったが、吉孔明こそが君主なのだと国民に教え込み、また暗躍する奸臣を牽制するという意味もあった。
 亡き炯帝が漏らした台詞がある。『己の存在を知らぬ民を統治することは難しい。己を侮る臣下を御するのもまた難しい』
 それを証明するかのように、まだ戦争だというのにすでに吉孔明を自らの傀儡にしようと企んでいる者たちがいる。斉城と取り戻し、紀丹宮を取り戻したとはいっても、ガクラータにはまだ四万人以上の朝楚兵と二万人のガクラータ兵が残っている。いまだに主要な砦や関を多く彼らに取られたままであるし、略奪も終わっていない。冬を前にして早くも、村が飢えて全滅したという話も届いている。だというのに、自分たちの危機が一段落すれば、またぞろ動き出すのが奸臣というものだった。
 少し疲れたような顔をした吉孔明に気づき、緋楽は慰めた。
「兄上、これから大変だとは思います。ですがいつか実りはございましょう。信頼できる臣を得られれば、その負担も軽くなるでしょうし」
「緋楽……ありだとう。お前の言葉を聞くと安心するよ」
 吉孔明は久々に明るい笑みを浮かべた。








戻る 進む

>>小説目次へ




SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送