緋楽の章 [2]





 斉領は回水関。陽香王朝が事実上滅亡した後、ガクラータ王国が乗っ取った要塞の一つである。
 ───夜。発見されないぎりぎりの距離を置いて、陽香軍は回水関を窺っていた。彼らは、回水関に潜り込んだ仲間の合図をじっと待っている。
「遅いですな」
 櫂王・泰義伯の言葉に、吉孔明皇子は頷いた。少々時間がかかったとしても、正攻法で攻めた方がよかったか、という思いが脳を掠める。しかしそれは繰り言。第一、まだ失敗と決まった訳ではない。
「殿下、あれを!」
 声が上がり、皇子と櫂王は同時に回水関の方を見た。遠い闇の先で、誰かが篝火を左右に降って、こちらに合図をしている。
 では成功したのだ。
 陽香軍はにわかに活気づいた。吉孔明は馬を操り、逸る兵卒たちの前に出た。そして高らかに号する。
「よし、征け────っ!」



 斉城から栄屯へ進軍する陽香軍には、幾つもの障害がある。そのうちの一つがこの回水関であった。回水関は四方を段丘に囲まれ、辺り一面に小さい沼沢があちらこちらに広がっている。その地理の利ゆえに、回水関を攻城するのは難しい。だからこそ、陽香はこの土地に関をつくったのだが、乗っ取られた今となっては、それが災いしていた。
 しかし陽香軍はどうしても回水関を通らねばならなかった。もし通らないのなら、遠回りになるだけでなく、いざガクラータ王国の本軍と戦うというときに、背後から回水関の駐屯兵に攻められ、挟み撃ちされる恐れがあるからだ。だからこそ、後顧の憂いを断つために、陽香軍は回水関を攻め、奪回しなければならない。
 攻城が不利であるとなると、敵兵を城の外に誘い出す方法が考えられるのだが、しかし、それでは時間がかかり過ぎる。そうこうしているうちに、
ガクラータ本軍から援軍が来てしまうだろう。いつかは衝突するのだとしても、陽香としては援軍のない今のうちに、出来るだけ紀丹宮に迫りたかっ
た。それに、いくら陽香軍が城の外に誘い出そうとしても、回水関の者たちは援軍を期待して、一歩も回水関を動かない可能性もあるのだ。
 勿論、そんなことは出兵前から分かっていたことで、吉孔明たちは一計を案じていた。回水関はガクラータ兵だけではなく、朝楚兵も詰めている。
ガクラータ人は属国である朝楚を侮り、朝楚人は本国であるガクラータの仕打ちを屈辱に思っている。両国の人種の違いもあいまって、回水関の守りは、なかなか一枚岩とはいかないだろう。彼らはそこに目をつけた。
 要は簡単である。朝楚兵に暴動を起こさせるのだ。
 まず、ガクラータ人が座興のために、近くの村から強制的に回水関に連れてきた陽香の女たちと接触した。そして彼女たちにガクラータ人の飲む酒に幻惑効果のある薬を混ぜるよう頼むと、想像以上に快く引き受けてくれた。彼女たちの村は、回水関のガクラータ人に食料や財産を何度も略奪されていたのだ。。
 つぎに吉孔明たちがやったことは、朝楚兵のなかに、朝楚人の血を引く陽香人を紛れこませることだった。彼は一見すると、純粋な朝楚人に見えるし、朝楚語も見事に操れるので、選ばれたのだ。
 夜になり、ガクラータの将校たちは、いつものように珍しい異国の女たちを侍らせて宴を開いた。酒が入り、薬も効いてくると、女性に無体を働いたり、見かねて注意した者に酔ったまま決闘を申し込んだり、見るに耐えない醜悪な様を呈した。彼らは平時では紳士を気取っている貴族であるが、祖国を離れて、軽蔑している支配国へやってくると、化けの皮が剥がれた。薬の力が彼らのなけなしの理性を奪うと、後はこの様である。勿論全ての人間がそうであったわけではないが。
 吉孔明の命令により紛れ込んでいた男は、ときを見計らって、血だらけになって、朝楚兵の宿舎に駆け込んだ。驚いて訳を尋ねた朝楚人たちに、ガクラータ人将校たちの状態を説明し、彼らに理不尽に殴る蹴るの暴行を加えられたのだとまくし立てた。男の巧みな弁舌に乗せられ、朝楚兵たちはそれまでの不満を爆発させた。始めは悪口だけであったが、男たちはますます興奮し、それを見回りのガクラータ人に見咎められた。力づくで取り押さえようとされて、かえって朝楚兵は逆上し、またガクラータ人将校の大部分が腑抜けになっているという情報に支えられ、ついに暴動となったのだ。
 将校たちは当然慌てた。しかし薬によって歩くことさえおぼつかない。ようやく薬が盛られたことに気づいたときには後の祭りである。か弱く柔順であったはずの陽香の女たちが、いつのまにか自分たちの喉元に、自分たちから奪った剣を突き付けていたのだから。
 ガクラータ人か、あるいは朝楚人の中に、騒ぎの中にあっても冷静で、なおかつ人を従わせることができる者がいれば、こうも簡単に成功することはなかっただろうが。ともかく陽香軍は混乱したところを攻め入り、大佐と中佐の首級をあげた。



*   *   *



 回水関の烽燧(狼煙台)から、陥落の報が届くと、レセンド王太子はただちに兵を率いて、陽香軍の進路を目指した。今まで何も準備せずに、ただ待っていたわけではない。
 陽香滅亡後、ガクラータが本国に引き上げずに陽香に残したのが二万、今回レセンドが率いてきたのもまた四万なので、現在のガクラータ軍の総力は六万ということになる。陽香は予想では十万ほどいるであろうから、かなりの差がある。属国である朝楚の軍隊を併せて、ようやく五分五分といったたころか。外敵の多いガクラータは、本国に軍をかなり残さざるをえなく、ゆえにその程度の兵数しか用意出来なかったのだ。その朝楚兵も所詮は借り物の軍だ。命令系統が乱れることは必至だろう。土地勘でも陽香には劣ることだし、不安材料は数え切れない。
 しかし不安材料は陽香側にもある。両陣営にそれほどの力の格差はない。
ならば勝敗を決めるのは、軍を動かす者の裁量だ。
 レセンドには絶対の自信があった。それは過去の戦歴に裏打ちされた自信であった。彼は一兵士としての武勇を誇るが、それだけではなく、武将として道を切り開き、王として大局を読むことが出来た。それに加え、レセンドにはどうしても負けられない理由があった。
 負けてはならない。春陽が陽香に執着するのなら、わたしが陽香を壊すという現実を、彼女に知らしめなくてはならないのだから。
 物思いに耽った王太子の側に、馬を並べた者がいた。ダン伯爵フラント=カサンナの息子である、テイト=カサンナであった。いずれは伯爵位を引き継ぐはずであったが、今はただの子爵にすぎない彼が王太子の側にいられるのは、彼が王太子の従兄であるからだった。
「反乱軍たちはどちらの道を使って爛円山を迂回するのでしょうね」
 回水関を出発してすぐに、爛円山という名前の険しい山が見えてくる。まさか大軍で登山するわけはないから、山を迂回する東西どちらかの道を使ってくるはずだった。だが現時点では、予測することは出来ない。
 レセンド王太子は、テイトの言葉に物憂げに振り向いた。
「どちらでもいい。爛円山の手前で待機すれば、どちらの道から奴らが来たとしても、対応できる」
「………そうですね」
 その冷たい口調に、煩わしく思われていることに気づいたテイトは、おとなしく引き下がったが、内心「いよいよまずいな」と呟いていた。
 従兄であるテイトは、理想的な王太子を装うレセンドの本質が、他者を必要としない傲慢なものだと知っていた。しかしそれを知るのは、ほんの一部の者だけで、彼は完璧な王太子の役をこなし、家臣に尊敬と忠義を引き出すことに成功していたのだ。少なくとも、春陽公主が現れるまで。
 レセンドは排他的な自分の性格をあからさまにするようになった。
 一応、政務には支障をきたしていない。彼の下す命令は常に的確で、隙のない身のこなし、その働きぶりは怠惰さの破片もない。春陽にかまけて仕事を中途半端にすることなどありえない。それでも分かる者には分かるのだ。
 いや、事態はもっと表層にまで浮かび上がってきている。そのうち、レセンドの心のうちは誰の目にもあきらかになるかもしれない。そうテイトが思うのも、王太子が出兵中に春陽公主が脱走することがないよう、紀丹宮の者たちによく言い含めているのを見たからである
 テイトは、今回の出兵で王太子に付随しなかったクリストファーのことを思いやった。レセンドが春陽を戦場に行くと言い出したのに対して、クリストファーががなんの対処もしなかったことが気に掛かる。彼なら真っ正面から猛反対するなり、自分も監視のために戦場に付随するなり、なにかしら抗議の姿勢をとると思ったのが。
 もしクリストファーが王太子を見捨てたのだとしたら。テイトはぞっとそう思った。いや、それをいうならば第二夫人・マーサの実家である侯爵家がとっくに旋毛を曲げている可能性もある。父上──王太子の最大の擁護者であるダン伯爵が王太子を見限ることだけはないが、早く陽香を制圧して本国へ帰らなければ、大変なことになるかもしれない。本人の知らないところで、彼の居場所が消されこともあり得るのだ。
 そのようなことを考えていると、テイトは我慢しきれなくなり、とうとう無言で馬を進めるレセンドに尋ねてしまった。このあたりが、テイトの欠点である。思ったことを腹の中に隠すのは苦手なのだ。
「殿下は、なんの利用価値のない春陽姫のことを何故そんなに……?」
 問われた王太子は、もはや春陽への想いを否定することはなかった。自分の気持ちが、腹心の青年や叔父の伯爵にばれていることなど、知っている。今更、否定しても無意味だ。
 だがレセンドは、テイトの想像もしないことを言った。
「利用価値ならば、春陽はレイナと同等だぞ」
 テイトは戸惑いつつも、問うた。
「何に利用できるのです?」
 王太子がランギス王女を娶ったのは、その結果生まれた自分の子供をランギス国王にするためである。傀儡の国王を立てるよりランギス国民の反発は少なく、しかも自分の子供なら操りやすい。だが、陽香にはきちんと皇子がいるため、春陽との間にいくら子供をつくっても、レイナと同じような利用はできないだろう。
「お前は『春陽』という名前を、陽香文字で書けるか」
 唐突な話題の変換に、戸惑いながらもテイトはかぶりを振った。そもそも彼は陽香語を操れない。
「わたしも書けない。だからこそ、知らなかった」
 多くのアーマ大陸の人間の例に漏れず、これまでレセンドは陽香という国の風習について暗かった。陽香とは貿易もあまりなく、地理的にいっても海を隔てているために馴染みがない。おまけに言葉まで違うのだ。だがこの国を統治する上ではそれではいけないので、レセンドは陽香の地を踏んでからは積極的に陽香の学者から学んだ。
 歴代の陽香皇帝の諱(本名)には、全て『陽』の文字がつくのだという。
勿論、レセンドも敵国の国主の名前くらいは知っているから、炯帝の諱が陽龍であったことも、皇太子の名前が陽征であったことも知っていた。しかしテイトと同様に、発音はともかく、表記の仕方までは知らなかったのだ。それゆえ、自力では全くそのことに気づかなかった。
 陽香の『陽』という字は、皇帝とその後継以外には冠されることは許されない。例外は唯一ひとりだけ。それは誰だ、と学者に問うたレセンドは、
驚くべき事実を聞く。そう、それは───春陽だった。
 春陽は、『陽』の聖文字を冠されるだけでなく、皇太子並みの教育も受けていた。所詮女でしかないはずの春陽の常識外の聡明さを、常々疑問に思っていたレセンドは、それを聞いてやっと得心がいった。
「では、春陽姫は陽香において、皇太子と同等か、それに準じる程の地位があったというのですか?」
「ああ。賢君の誉れ高い炯帝が、何のためにそんなややこしい状況を作り出したかは、奴が死んだ今となっては分からんがな」
 レセンドが紀丹宮に残す春陽が脱出しないよう、幾重に手を凝らしたのは、春陽のその価値ゆえである。今の春陽が自分の元を離れるとは思えないが、春陽が拒否しても、無理やりにでも脱出させようとする者がいないとは限らないのだ。杞憂かもしれない。だがその可能性を考えただけで、こんなにも恐ろしい。
 春陽ならば利用価値がある。特に彼女の知名度の高さは有効に使えるのではないだろうか。ふつう庶民が知っている皇族は、皇帝と皇太子ぐらいだ。だが、春陽は皇帝の秘蔵の娘として、庶民によく知られている。それまでほとんど無名であった吉孔明皇子よりも、彼女の方がよほど有名なのだ。──尤も陽香は彼女の地位よりも、才覚の方を利用することにしたよ
うだが。もし彼女がわたしを選びさえしなければ、陽香は容易く自治を取り戻していたことだろう。それを成す程の才覚が春陽にはある。
 レセンドはふと思う。そうなっていたほうが、苦しみは少なかったかもしれない、と。
 ───春陽が自分を選んだという一筋の希望ゆえに、わたしは足掻き続けることを強いられているのだから。



*   *   *



 ガクラータ王太子の居城・シュンナウト宮殿の中でもっとも豪奢な華麗さを誇るのは、第二夫人・マーサが使用する一画である。
 華麗なのは何も建物だけではない。そこに詰める人々もまた、王宮でも見かけないほどに麗しい。常に彼女が抱える芸術家の美青年たちや、行儀見習いの華やかな美少女たちが侍り、彼女がいなくては日も昇らない。
 いつもならば、彼らと戯曲さながらの遊びに興じ、日々の退屈を紛らわせるマーサであったが、今彼女が目の前にしているのは、陰気な顔をした女官であった。だが、それに対して嫌悪の表情を浮かべるどころか、彼女は酷く真剣に問い返した。
「レイナが?」
 女官が頭を垂れる。マーサは信じ難く、もう一度確認した。
「お里帰りをしたのね? する、ではなく、もう出発したと」
 女官は頷く。彼女はレイナの元に放った、マーサの手下であった。間違いはない。
 ───なんてこと。
「急すぎるわ………。何故?」
 ガクラータ王家に嫁いでから、ただの一度も里帰りを望んだことのないレイナが、よりにもよってこんな時期に急に里帰りを強行した。そこに何か思惑があると思っていいだろう。
 あるいはレイナが以前のままであったのなら、マーサはそれを額面どおりに受けとったかもしれない。けれど今のマーサは、レイナがおかしいと知っている。
『そう───もう駄目ね、あの方』
 あのとき、レイナの中に禍々しいまでの執着が見えたのは気のせいだろうか。レイナはこの国に、そして殿下に対して、憎しみ以外の感情などないと思ってきたが、それは間違いだったのではないか。
『溺れてしまわれたのね』
 そのときのレイナの瞳を思い出す度に、マーサは薄ら寒いもの感じる。
 普通の瞳ではなかった。
「なにか、レイナの様子におかしな点はなかったの」
 そう問われ、女官は躊躇するように視線を彷徨わせた。何かあったのだ。
確信して、マーサは問いを重ねる。
「それが間違いでも、わたくしは責めない。だからお話しなさい」
「――承知しました。レイナ妃殿下は、一週間ほど前、差出人の名前のないお手紙をお受け取りになりました。それを読み終えた後、わたくしたちが触れることを避けるように、自らのお衣装のなかにお隠しになったのです。それからだったと思います、レイナ様が急にお里帰りを口になさるようになったのは」
「その手紙は」
「確認することは出来ませんでした。申し訳ございません。ただレイナ様はそのお手紙をお読みになった瞬間、なんとも言えず嬉しそうに微笑まれたのです」
(嬉しそうに微笑んだ、ですって?)
 そんなレイナを、マーサはたった一度も見たことがない。
「レイナについて、もう一度お調べなさい。なんでもいい。徹底的にレイナについて洗うのよ」
 マーサはこれまでもレイナのことを見張っていた。だから、レセンドですらつい最近まで知らなかったこと――つまり、今は亡きアルバート王子がレイナに執心で、幾度となく彼女に会いに行っていたことなど――を知っていた。なにしろ、レイナに愛人がいるという噂を流したのは、マーサ自身である。
 だが分からないことはたくさんある。何故レイナはアルバードに心を惹かれているわけでもないのに、彼を強く拒まなかったか。今まではか弱い性格ゆえ、出来ないのだと思っていたが、けしてそうではないのだと今なら分かる。では何故?
 マーサはふと思う。レイナはアルバート王子が、レセンド殿下を襲うことをあらかじめ知っていたのではないか――ダン伯爵家別邸での襲撃、そしてアルバート自身が下手人となった、出兵前夜のアンザゲット王宮での襲撃、その両方を。
 アルバート王子はレイナを盲愛し、ほとんど独りよがりにレイナの置かれた状況に同情し、ことあるごとに、わたしが貴女を助けてやると言っていた。ならば、レセンド暗殺の計画をアルバートがレイナに報告していてもおかしくない。もしその想像が正しければ、レイナは暗殺の企てを知りながら、阻止しなかったことになる。それどころか、わざとレセンドに対するアルバートの殺意を煽ることぐらいはしたかもしれない。
 レイナがレセンド王太子の死を願ってもなんらおかしくない。いつも恨みがましい眼差しで、自分の世界に閉じこもり、レセンド王太子との間に子供をもうけるのを死ぬほど嫌がっていた彼女なら。
 ああ、けれど彼女の心がけして単純なものではない、と知った今では、彼女が殿下に卑俗的な憎みをもっていたという考えは、疑わしい。彼女はわたくしと同じように、自分にとって都合の良い『自分』を演じていただけではないだろうか。わたくしが殿下の好む気性を演じたように、レイナもまた、殿下を憎んでいる演技をしていたのでは。
(穿ち過ぎ、かしら)
 いいえ、そんなことはないと、マーサは考え直した。
 もしレイナが王太子に執着していたのなら、彼女がおかしくなっても、不思議ではない。何故なら、レセンド王太子自身が、おかしくなってきたのだから。――わたくし自身が、おかしくなってきたのだから。
 マーサはレセンドを愛している。だがそれは愛されたいがために、愛そうとするだけ。本当の意味での愛情ではない。それを自覚しても、王太子はマーサにとって、己の世界の中で唯一確かにそびえたつ城であった。
 わたくしの存在理由は、彼の妻である、ただそれだけだったから。
 彼の妻になるためだけに生まれ、育った。ただの一度も、恋など知らない。今も昔も、これからも。――わたくしは道具なのだ。
 けれど男性には希有なことに、殿下は道具などを欲してはいなかった。だから彼は、一見道具でないように振る舞えるわたくしを気に入ってはくれたけれど、所詮道具でしかないために執着してはくれなかった。
 わたくしは道具でしかなかった。道具としてしか、あれなかった。
 自我のある道具。わたくしはそんな中途半端な存在。どうせなら、母のように完全な道具になれたなら、楽であったのに。
 わたくしは政治の道具である自分を厭い、道具でなくなるために夫に愛されたいと思った。だがそう思う度に、却ってわたくしは道具である自分を痛いほど感じた。
 けれど彼女は道具ではなかった。誇り高い少女。鮮烈なその存在。わたくしは彼女が憎かった。彼女が彼に愛されたからではない。彼女が人形ではなかったからだ。彼女と出会い、殿下は変わった。
 変わったのは殿下だけだった。彼女はなにも変わらなかった。もし、なにか彼女が変わったとしても、それはきっと知らなかった自分に出会ったということだけ。ただ自分をより深く知っただけ。彼女の本質は変わらない。殿下は、なにもかもを彼女によって変質させられたというのに。
 殿下の中は空虚すぎて、彼女を変えるだけのものがなかった。そして彼女はあまりにも鮮やか過ぎたのだ。
 ならばわたくしもまた、変わらぬ者でいよう。人形でありながら誰にも変えることの出来ぬ存在であろう。それこそが砦。最後の誇り。
「あの………」
 その声に、マーサはふっと思考の海から醒めた。急に黙り込んだマーサに、女官が戸惑っていた。
「もういいわ、下がって」
 そう言うと、女官は安堵したように退室した。その背中を見つめ、マーサはため息をつく。最近はよく考え事をしてしまう。不安なことが多すぎて、心がちっとも晴れない。
 つい最近まで安定していたマーサの世界が、不穏なものとなってきている。逞しく、覇王とさえ呼ばれた国王が病褥の人となり、王太子は人を愛し、第二王子が死んだ。そして王太子妃であり、ランギスの王妹であるレイナは、目の届かぬ異国で何かを企んでいるようだ。
 都の方でもレセンド王太子のよくない噂が広がっている。今は僅かな声だ。けれど確実に彼を排斥する声となるだろう。マーサの情報網から推測すると、おそらくは彼の腹心の策謀によって。彼はこのところ、王宮に姿を現さない。
 少しずつ少しずつ、何かが狂ってゆくのに、それが何かが分からない。あらゆる事項は複雑に絡み合い、微妙に他の事柄に影響を与え続け、末端ばかりを見ても、何が起こっているのか、起ころうとするのか分からない。
始めに何が壊れたのか。何が王太子の足場を崩してゆくのか。形が掴めない。確かにそれを肌で感じるのに。
 いや、問題は何が壊れているかではない。何故、壊れてゆくか、だ。
 決まりきっている。それはあの鮮やかな花。
 花がこの国を、この城を傾けるのか。
「それもいい、とさえ思っていらっしゃるのかもしれないわね」
 あの方は自覚しているだろう。壊れゆくものを知っているだろう。
 それでもあの美しすぎる徒花を求めてやまないのだ。



 そしてその一週間後、マーサは配下の女官から、驚くべき報告を受ける。――レイナの部屋から、幾つかの密書が見つかったのだ。
 ランギス国王からレイナ王太子妃へ宛てたものだった。
 それには、近々ガクラータ王国を攻めるから、早く里帰りしなさいと書いてあったのである。
 マーサは愕然とした。真実ならば国はひっくり返る。
 しかしマーサはそこに何か、きな臭いものを感じた。だが、それほどの大事をマーサが隠しおおせるはずもなく、この密書のことは瞬く間に、王妃カゼリナまで届く。彼女はそれを聞くなり、病床の国王に伝えた。キーナ三世はただひとこと、枢密院を収集せよと命じる。
 この一刻の間に、ランギス王国に対するガクラータ王国の感情が、いっきに悪化する。それはまさに、動乱だった。



*   *   *



「陛下」
 少女のときのままに、可愛いらしくレイナは兄王に抱きついた。相変わらずの華奢さに、ランギス国王は溜め息が出た。彼女の無邪気さがよけいに彼の哀れを誘う。
「よく………帰ってきた………」
 ランギス王国の王宮では、二年ぶりの兄妹の対面がなされていた。兄王は、年の離れた妹を愛しく思って、抱き締める腕に力を込める。
 しかしレイナは兄王に抱きつきながら、醒めた瞳で打算していた。ガクラータ王家に嫁いだことで自分は変わってしまったというのに、兄は気づかない。気づかせるつもりもないが。
 何も知らない国王ユリーは、久しぶりの妹姫の姿に、目頭をそっと押さえた。彼は妹を溺愛していた。
 どれほど辛かったことだろう。毎日泣き暮らしていたと聞く。自分に子供がいないがために、こんなに妹を苦労させている。出来ることなら、ガクラータ王国などに嫁がせたくはなかった……。
 ユリーにはまだ子供がいない。王妃と婚姻を結んではや十年が経とうとしていたが、一向に王妃に懐妊に兆しがないということは、国王か王妃のどちらかに欠陥があると考えられた。もしこのまま王妃が子供を生まなければ、王位第一継承者はレイナということになる。しかしランギス王国はいまだかつて女王を戴いたことはない。レイナは国王にはなれまい。ならばレイナの夫か、レイナの息子かが次期国王になるのだ。
 そのため、ガクラータ王国の王太子から、ランギス王国の王女を娶りたいという申し出があったとき、議会は紛糾した。断れば、大国を敵に回す。
しかし同意すれば、ガクラータ王家はランギス王国の王位継承権を持つことになるのだ。
 ガクラータ王太子とレイナの間に男児が生まれたら、ガクラータはランギスの王室の血を手に入れることが出来る。それはガクラータにとってどれほど都合がいいか。自国の次期国王の息子を、ランギスの王太子にできるのだから。
 現在の衝突か、未来の被支配か。苦境に立たされた国王は、結局は後者を選んだ。レイナを側室ではなく正室に置くこと、そしてけして蔑ろにしないということを条件にガクラータ王国に言い含められて、ユリーは結局レイナを嫁がせることを許した。
 レイナが嫁いでからは、いつもユリーはこの年の離れた妹のことが心配だった。それが、初めて里帰りしてきたのだ。彼は妹を国のために犠牲にしたという負い目ゆえ、彼女がランギス王国に滞在している間はよくしてやろうと考えていた。
 だが何故、突然に里帰りしてきたかが気になった。
「ところでレイナ。お前はどうして急に帰って来たんだね?」
 何か、どうしても耐えられないほどに辛いことがあったのかと問う。
 レイナの瞳が、はっと見張られた。否、そう見えるように演技した。そして決心したように彼女は言葉を紡ぐ。
「わたくしは、恐るべき企みを知ってしまったのです」
 レイナの切実な声に、ユリーは眉を顰める。なにがあったというのだ。
 レイナの華奢な身体が微かに震えている。彼女は、振り絞るような声で、
国王に訴えた。
「ガクラータが我が国を攻めるというのです………っ!」
「――――っ!」
 ユリーが声を失うのと同時に、レイナは張り詰めた糸が切れたかのように、ふっと気を失った。ユリーは慌てて妹を支えて、床に横たえた。
 そしてレイナの蒼白な顔色を見ながら、掠れた声をだす。
「ま……さか………」
 そんなはずはないと内心で否定しても、冷や汗を止めることは出来なかった。国王はいても立っていられず、叫んだ。
「大臣!」
 側で見守っていた外務大臣も真剣な面持ちで、呼びかけに応えた。彼はその役柄もあってガクラータ王国に詳しいし、帰郷するレイナを迎えるために、つい先日ガクラータ王国に出向いたばかりである。
「レイナの言うことは杞憂ではないのか?」
 問われ、外務大臣は難しそうな顔をした。迂闊なことは言えないが、王を前に、心に隠し事をすることは許されないだろう。それに、レイナが言い出さなくとも、ガクラータ王国のことは報告しなければならないと感じてもいたのだ。
「わたし個人の意見を申し上げれば、あり得ぬことではない、と。どうやら王太子殿下は、レイナ妃殿下との離婚を真剣に考えておられるようで」
「!」
 国王は目を見開いた。
 ガクラータ王国が自分の国を攻める云々よりも、離婚という言葉の方が、ランギス国王にとって現実味があり、それゆえ衝撃的だった。
 アーマ大陸のほとんどの国の国教であるサチス教では、離婚は許されていない。ガクラータ王国はそれほど宗教色の濃い国ではないものの、サチス教の保護者たる王族がそれを犯しては、民だけでなく貴族たちの反発を得る。
「彼の国の都では、王太子殿下の陽香公主への乱心ぶりが密かに囁かれておりましたし、レイナ妃殿下の側仕えの者に確認してみたところ、王太子殿下は陽香公主を正妃にしたいが為に、度々レイナ妃殿下との離婚を仄めかしていたとか」
 大抵の特定の主人を持つ女官というものは、国王ではなくその主人に従うのだということを、大臣は知らなかった。むしろ、国王に代わって監視する役目を負ってくれているとさえ考えていた。だからこそ容易にその女官の言葉を信じた。それは国王も同じ。
「王太子は、レイナと離婚すればこの国の王位継承権を失う。それでガクラータ王国は、血縁による支配を諦め、武力による支配を考え始めたのだと、そう言いたいのか?」
「あるいはその逆で、レイナ妃殿下と離婚するために、この国を攻める、とも考えられます。つまり、この国を支配下に収めてしまえば、妃殿下を妻に留めておく必要も、その間に子供をつくる必要もない。それならば、貴族の反発もそれほど大きくならないでしょうから」
「そうか………そうとも考えられるか」
 国王の顔もしだいに深刻さを増してゆく。
「けれど、わたしも信じているわけではないのです。王太子殿下は理性的な人物です。いくら陽香公主を寵愛したといっても、そこまでするとは信じがたい。それにもし王太子殿下が先ほど申し上げたような行動を実際にとったとしても、離婚を国王陛下は許すとは思えません。もともとレイナ王太子妃殿下を娶るよう言い渡したのはキーナ三世でしょう」
 外務大臣の言葉に、国王は首を振る。
「許さぬとも、あの英雄ぶった狂王はもうすぐくたばるだろう。そうとう具合が悪いようだからな」
 キーナ三世は、覇王とも狂王ともいわれる。健全時には、多くの血を流し、あらゆる国を吸収していったのだ。彼の祖父のキーナ二世と、彼キーナ三世がガクラータ王国を大きくした。属国の数でいえば、帝国を称してもいいぐらいだ。キーナ三世が病褥に就いたというのは、周辺諸国にとって嬉しい話だった。それはランギス王国とて例外ではない。ガクラータ王国の数多い属国も、独立を考え始めるかもしれない。
「本当にこの国を攻めてくるとしても、ガクラータ王国は今、陽香と交戦中だ。かなり軍も疲弊することだろう。しかも、キーナ三世は倒れた。その隙をつけば、我々にも勝つ希望はあるだろうが………」
 ユリーは、無意識に、レイナの言葉が本当であったなら、という仮定をしはじめていた。彼は、ガクラータ王国が攻めてくることを自分はまだ信
じていないと思っている。確かに彼は、レイナが口にするまでは、考えもしなかった。
 ――だが、彼自身も気づかぬうちに、疑念の種は蒔かれ、しっかり心の奥に根を張り始めたのである。
 そして半月後、ユリーはガクラータ王国が新たに兵を募り、物資を集めだしていることを知る。………そのころには彼は、それが自国を攻めるための準備ということを、信じて疑わなかった。
 ランギス王国は、ガクラータ王国の属国やそれに準じた扱いを受けている国々に親書を送った。──ガクラータ王国が四成大陸進出に現を抜かし
ている今こそ、力を合わせて彼の国を攻め込み、自由を手にしようではないか、と。
 レイナによって、容易くランギス王国の命運は左右される。祖国の人々が知る無邪気な彼女は、ガクラータ王国で死んだ。彼女は、祖国を自分の望みを叶えるための駒とすることに、何の呵責も覚えはしない。


レセンドの破滅が見たい、ただそれだけのために!




*   *   *



「爛円山の麓に、ガクラータ本軍を発見しました」
 放った斥候の報告に、泰義伯は「やはり」と呟いた。彼らは、爛円山の迂回する東西の道で、西を選んで進軍していた。そこに斥候が戻って来たのだ。
「王太子旗を挙げていました。間違いなく、かの王太子自身が出て来ています!」
 とうとう直接交戦となるか。天幕の中にいた、将軍たちの胸に緊張が走る。彼らの多くがガクラータ王国との戦いを経験しており、その強さを目の当たりにしていた。
 胸の中に重苦しいものを感じながら、しかし櫂王は淡々と問うた。
「数は」
「ガクラータ軍、朝楚軍、併せて八万強かと」
 現在の陽香軍の全兵力は十一万。櫂・緯択・斉以外の諸王も集い、また王軍だけでなく、各領主たちも吉孔明が放った檄に呼応して、私兵を伴い斉城に馳せ参じたのだ。だが現在、出兵しているのはこのうちの九万で、あとの二万は斉 城の守りとして残した。ちなみに斉王は高齢なので出兵していない。
 櫂王はこの辺りの地図を広げた。
「これが爛円山。わたしたちは、この地点。ガクラータ軍は、爛円山を迂回する二つの道、つまりわたしたちがいる西道と、もうひとつの道である東道の集合点にいます」
「挟み撃ちの心配は?」
 吉孔明の問いに櫂王は応える。
「ほぼ、ありませんね。我が軍の前方にいる彼らが、我が軍の後方を攻めるためには、爛円山を登るか、東道を通って西道との分岐点に戻るかして、
改めて我々のいるこの西道に入り直さなければならない。前者の爛円山を大軍で登るというのは、ほぼ不可能ですし、わたしたちが気づかぬはずもありません。後者はあまりに時間がかかり過ぎる」
「………」
 櫂王の見解に、吉孔明は異存はなかった。
 しかし何かひっかかるものを感じて、吉孔明は黙った。



 それから半日後。
 ガクラータ軍と陽香軍はついに衝突する。
 辺りはまだ薄暗く、鳥たちが煩く鳴いている早朝に、戦いは始まった。
 前方で、煙りが立ち上がっている。
(報告より、数が少ない………六万ぐらいか?)
 吉孔明は、先陣をきった緯択軍四万を、高みから見ていた。陽香ではまだ実用には至っていない銃の乾いた音が、ここまで届いてくる。
 吉孔明が緯択王に指示したことは僅か。
 ひとつは、後方の皇子軍(斉軍)、櫂軍が苦戦しても、援護にまわらず、突破に専念すること。そしてもうひとつは、銃を恐れないことだった。
 吉孔明は前回ガクラータと戦ったとき、彼らの持つ火繩銃が、それほど脅威でないことを知っていた。重量があるため騎兵は銃を持たないし、点火・発砲にはかなりの時間がかかる。また射程はたった(50m)しかなく、命中精度が悪いために、10m先の停止した相手でも当たらないことが多い。極めつけは、数が少ないことだ。吉孔明にとって、現時点では銃兵よりも、機動力のある騎兵の方がよほど恐ろしい。だが兵たちは、彼らにとって銃は未知のものであるため、必要以上に恐れているのだ。
 ここから見ていると、どうやら吉孔明の指示は守られているらしく、兵たちが銃を相手に臆した様子は見られない。緯択軍は、じりじりとガクラータ軍の中央に食い込んでいる。そろそろ自分たち斉軍の出番だ。
 吉孔明はついに馬を走らせた。彼の指示によって、三万五千の斉軍が動く。斉軍は、更に二手に別れ、それぞれ緯択軍の両側にまわり込み、彼らの中央突破を助ける手筈になっていた。



*   *   *



 ばたばたと自軍の兵士たちが倒れている。矛で胸板を貫かれ、あるいは馬を斬られて落馬し、命を失う。砂ぼこりとともに、血の匂いが立ち上がり、罵声よりも多く、断末魔の悲鳴があがる。
「さすがは陽香。よく訓練されている」
 無表情に、レセンドは一人語つ。
 項までの、冷たい白銀の髪が乱れて頬に張り付いている。
 彼に動揺の色はない。何故なら彼には、陽香が罠に嵌まってゆく様が想像できたからである。陽香軍たちは、背後を突かれることなど、地理的な問題故にありえないと安心しきっているだろう。
 レセンドは、陽香軍が爛円山に到着するよりも早くに、爛円山に兵たちを隠していたのだ。それも、山の動物たちをを驚かせないようにする歩き方や、土煙を上げないようにする歩き方の教育を受けた者たちだ。結果、陽香軍たちは隠し兵たちに気づくことはなかった。
「………殿下。陽香のこの猛撃は、予想外でしたね」
「そうだな」
 側にいたテイトの指摘に、レセンドも頷いた。確かに想像以上に陽香はよく戦う。これでは、当初に見込んでいた程の圧勝にはならないだろう。
 だが思いどおりにならないものが、戦さというものだ。初めからこれくらいの誤差など承知だ。
 テイトが目を凝らすと、遠い爛円山の方で、土煙りが立っているのが、うっすらと見えた。テイトの胸は、この後の快勝を思って高ぶった。
「始まったようですね」



*   *   *



「後方に敵軍を確認しました!」
 退路を確保するために後方で待機していた櫂軍の元に、見張りが馬を走らせそう報告すると、軍は騒然となった。
「皇子はまさか、これを見通してらしたのか………っ!?」
 瞠目したまま、櫂王はそう言った。
 櫂軍は今回一万八千である。退路の確保という役割にしては、多すぎる人数だった。つまり、何事もなければ約二万の兵を無駄にし、緯択軍と斉軍にいらぬ負担をかけただけ、ということになっていた。
 しかし無駄にはならなかった。
「敵兵は二万、いやそれ以上です!」
「やってくれる………」
 冷や汗を流しながら、今更ながらに櫂王は敵国の王太子の英邁さを、恐ろしく感じていた。
 彼は爛円山に伏兵を潜ませることの難しさをよく知っている。だがレセンドはそれほどの数の兵を、地の利で勝っている我々を相手に、そうと悟らせずに配置してのけたのである。彼は如何なる方法を用いて、我らを欺いたというのだ。
 櫂王は瞳を半ば、伏せた。
 敵の伏兵と櫂軍の兵数では、劣るもののそれほど差はない。互角の戦いができるはずだ。こちらが罠にかかって驚いているのと同じく、敵も予想外に陽香の後方の軍が厚いことに驚いているだろう。………だが、櫂王は罠に嵌まったと知った時点で、その事実以上の嫌な予感がしていた。
 まだ、何かあるかもしれない。
 櫂王・泰義伯は、老いた己の身体に生気がなみなみと注がれるのを感じた。それは天からこれからも与えられるはずであったものを、一度に欲した結果であることを彼は自覚していた。
 そして戦いに身を投じた櫂王は、自分たちの背後を襲った隠し兵が、ガクラータ王国の精鋭部隊であることを知る。



*   *   *



 吉孔明皇子の鮮やかな緋色の兜目指して斬りかかってくる者を、護衛たちがなぎ払う。吉孔明の刀は血で穢れることはない。そんなことは君主のすることではない。しかしこの戦場において吉孔明は、どの将軍よりも勇ましく見えた。――レセンド王太子がそうであるように。
 王太子の護衛隊と皇子の護衛隊が、ほぼ同時に敵の挙げる旗に気がついた。そして若き元帥たちは、お互いの存在を誇示する旗を睨みあう。
 王太子旗は冴え冴えとした、蒼。白金の縫い取りが繊細でありながら威圧的だった。それに対する吉孔明の皇太子旗は、緋色の布地に金の縫い取り、烈しさを象徴するような鮮やかな旗であった。
 未だ即位していない彼らは、しかしそれぞれの事情で国主同然に国を背負う。その国主どうしが同じ戦場で、しかもこれほど至近距離で相見えるということは、どの国の戦をとっても希有なことであった。
 猛々しい戦場に、妙な緊張がある。
「あそこに吉孔明皇子がいるのか」
 自らが張った罠の成功を確信しながら、しかしレセンドは己の目前にある障害を無視できない。呟きはむしろ、逸る自分を抑えるためのものだった。彼は金縛りにあったかのように身動きせず、凝視する。
 彼を殺せば陽香は希望を失うであろう。
 今の段階では不可能だとは分かっている。最終的な勝利は確信していても、たった一度の戦いで敵を一掃できるとは流石にレセンドも思っていないし、そのような作戦は立てていない。全滅を覚悟すれば出来るであろうが、そんな無様なことをしてまで決着を早めてもしかたがないのだ。
 それでもレセンドは、吉孔明の死を望むのを止められなかった。その衝動を堪えるのに彼はかなりの忍耐力を要した。それほどまでに──吉孔明の死は魅力的だった。
 吉孔明が死ねば、陽香は再興しない。陽香が再興せず、ガクラータのものとなれば、春陽はよりどころを失う。そう考えるうちにレセンドは、吉孔明さえ死ねば、春陽の全てを奪い尽くせるとまで考えるようになった。 ──彼は知らない。春陽の、吉孔明への想いを。知っていれば、彼は自分を抑えることは出来なかったに違いない。
 そして、相手への殺気を必死に堪えているのはレセンドだけではなかった。吉孔明もまた、レセンドの存在に気づいた瞬間、己から噴き出した殺気を抑さえ付けていた。レセンドとは違うのは、相手に対して明確な憎悪があったこと。
 だが二人の青年の心などおかまいなしに、戦いは続いていた。気の弱いものなら気を失うだろう凄惨な光景が、当然のように広がる。血が飛び、肉が抉られる。
 始めに異変を知ったのはやはり、レセンドの方が先だった。
「………なんだと?」
 こちらの張った罠が陽香に漏れていたのか、とまず彼は思った。全くの無防備になってたはずの陽香の後方に、二万弱もの兵が待機していたという。彼には、自らの策が相手に知られていたとしか考えられなかった。
 だが、たかだか二万にも満たない数が相手なら確実に勝てると、彼は確信していた。レセンドが伏兵に選んだ軍隊は、ガクラータの中でも精鋭である。彼らに勝利するためには、その倍以上の数を集めなければならないだろう。しかも彼らは、数でも陽香に勝っているのだ。
 それでもレセンドは忌ま忌ましく舌打ちする。
「挟み撃ちはできなかったか………」
 陽香軍を取り囲んで逃げ道をなくすことが作戦の中心だったが、奇襲が失敗したので、完全に取り囲むことは出来ないだろう。それに、爛円山の方では圧勝しても、目の前で繰り広げられている本軍同士の戦いでは、陽香に押されている。確かにこの戦いでは総合的には勝てが、次回の交戦はかなり厳しいものとなるだろう。
 優位を信じている自軍の兵士たちの油断が目につく。また朝楚軍の戦闘能力の低さが露呈されてしまった。初めからレセンドはそれを承知していて、だからこそあの作戦を立てたのだが、上手く行かなかった。
「誰だ……見抜いた男は」



*   *   *



 負けた……と吉孔明は悟った。
 悟ったのと同時に、彼は軍を退却させることを選んだ。引き際を見誤ってはならない。
 軍が壊滅するほどの負け方ではない、と彼は判断する。この後いくらでも立て直すことが出来るだろう。───だが。
 ガクラータ王太子に初戦から負けた。その事実は吉孔明にかなりの打撃を与えた。春陽を手にした王太子には絶対負けぬと決意したのに。
 加えて吉孔明のもとに、彼を打ちのめす報告が届く。
 それは叔父でもある櫂王・泰義伯の戦死だった。
 ガクラータ王国の精鋭を相手に、あれほどまでに張り合えたのは櫂王の采配のお陰だと、ある生き残りの将はぽつりと言った。兵数にそれほど差がないにも関わらず、凄まじい勢いで仲間たちが死んでゆくのを見て混乱しはじめた兵士たちを、穏やかで知られた櫂王が一喝したという。
 ここで我らが崩れたら、麓で交戦中の本軍が挟まれる。そうなれば全てが終わりだぞ、と。その言葉に兵は悉く打たれ、奮い立った。櫂軍は半数の九千人もの死者を出したが、惨敗は免れた。もともと本軍同士の戦いでは、陽香の方が兵数も質も良かったのだ。
「そうか………死んだ、か………」
 皇子の中でただ一人生き残った自分は、否応無く皇帝の道を歩み始めた。
父、母ともに死んだ自分にとって、どんなに血の繋がりのある櫂王の存在が心強かったことか。
 また一人、心の支えが消失した。
「許すわけには………いかないな」
 身を襲う喪失と屈辱の中で、吉孔明は呟く。



 だが天は彼から次の雪辱の機会を奪った。ガクラータ本国から国王の名において、レセンド王太子に命令が下ったのだ。
 ────ランギス王国に叛意あり。至急、馳せ参じるべし。












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