終章





 その日、陽香は文字どおり花が舞った。
 群衆が歓声をあげる。
 人々は、国は、世界は、待ち望んでいた。
 新しい風が吹くのを。



[三の公主 凍てつく氷河]


 紀丹宮の最奥に縛されてから、幾日経っただろうか。
 数ヶ月もの間、身の回りの世話をしにくる物言わぬ女官の他に訪ねてくる人間はなく、食事や睡眠といった最低限のこと以外にすることもない。
 日がな窓のない部屋の壁にもたれかかり、ぼんやりと過ごしている。あの日断った髪も少しずつ伸び、肩甲骨に届く程となっている。艶を失いつつある毛束を手にとり、春陽は己が罪について思いを馳せる。
 ───かつてわたくしは愚かな恋をした。
 酷く穏やかな気持ちになれる日もあれば、狂おしい思いに駆られる日もあった。だがそれらも時間の感覚が薄れていくのに比例して、どうでもよいことになりつつあった。
 ただ姉さま方の幸いだけを祈りながら、この部屋の中で朽ち果ててしまうのも良いのかもしれない。
 眠りにも似た、取り留めのない――そして泥のような意識の中で、ゆるゆるとそう考えていた。
 だが、ある意味安寧でさえあった時間は唐突に打ち破られる。
 正確な月日はもはや分からなかったが、部屋の中がしんと冷えはじめ、差し入れられる食事に冬の匂いを感じれられるようになりはじめた頃のことだった。
 春陽のもとに礼服が届けられたのだ。陽孔明から皇太子位を譲られた緋楽公主が、もうすぐ登極するのだという。送り主は分からないが、誰かが現在の彼女の境遇を不憫に思ったのだろう。彼女が異母姉を慕っていたのは周知の事実である。春陽が戴冠式に出席することはもちろん不可能であるが、せめて衣装だけでも整えたかろうという心づくしだった。
 だが春陽はこの礼服に袖を通すつもりはなかった。気持ちは嬉しくあったが、その資格は己にはない。
 春陽に訪れた変化はこれだけではなかった。
 その翌日、いつもと同じように壁にもたれかかっていた春陽の耳に、沓が床を叩く音が届いた。部屋の外で誰かの気配がするのはよくあることだったので、春陽は意識の外に追い出そうとした。幽閉されて以来、そうやって彼女は自分の心を守ってきたのだった。
 だがその音は少しずつ近くなってくる。
 知らず、手に汗をかく。この靴音は女官たちの出す無機質なものではなかった。もっと猛々しく、それでいて繊細な。
 脳裏に浮かんだ姿に、心臓を貫かれるような衝撃を彼女は味わった。誰何の問いは必要なかった。たったそれだけの言葉で、相手が誰なのか彼女は悟ったのだった。
 ――あの別れの夜から、一年と半が過ぎた。
 離れていた期間の間に、いろいろなことがあり過ぎた。それでも身体の隅々に沁み込んだ彼の記憶は、簡単に浮かび上がる。
『春陽、私だ』
 果たして。
 扉の向こう側から掛けられた声は、今は陽孔明と名乗る異母兄のものだった。
 春陽は凍りつき、そのまま扉を凝視した。返事をしないままでいると、扉に鍵を差し込む音が聞え、竦む。今にも叫びだしそうに心は恐慌し、怯えていた。
『入るぞ』
 ――やめて。
 咽喉はひりつき、拒否の言葉さえ出てこない。
 とうとう扉が開き、両者は対面する。

(やめて、吉孔明さま……!)

 激情が迸った。
 ここに、恋焦がれた異母兄の姿がある。
 こころなしか窶れ、顔つきが精悍になった。それでも、最後に見た静かな眼差しは変わっていない。どこまでも――そう、どこまでもわたくしが愛した吉孔明さまがここにいる。
 春陽は、今まさに己は狂ってしまうのではないかと思った。それほどに心は騒いている。陽孔明も春陽を眼前にしてその場に縫いとめられたかのように身じろぎ一つできずにいた。そしてしばし、互いに言葉を失い見詰め合う。
 視線を交わしたところで、離れていた時間を埋めあうことなど出来るはずもなく、たとえ手を伸ばして触れ合ったとしても、何かをやり直せるわけもない。
 ――たとえ言葉を尽くしたところで、互いの心の変わり様を理解することなど出来ないのだ。
 時間は流れてしまった。蜜月の頃よりずっと早く、残酷に。
 めっきり痩せた春陽から僅かに目を逸らし、陽孔明はようやく口を開いた。
「……久方ぶりだ、春陽」
「兄、さ、ま」
 もう二度と会えぬと、あれが今生の別れになったのだと、一度は互いにその再会を諦めていた。
「なんと短く、長い時間であったことか」
 陽孔明は微笑もうとして口元を歪め、失敗した。
「………ただでさえ、わたしたちは隔てられていた。知らぬ間に心が変わってしまっても、不思議ではあるまいな」
「!?」
 瞠られた瞳。
 呼吸すら忘れ、唇は戦慄く。
 膝からは力が抜け、春陽は崩れおちそうになった。
 まるでそれを予期していたかのように陽孔明は手を貸し、抱きとめた。
「今日この日まで、お前には会うまいと心に決めていた───春陽」
 優しく陽孔明は春陽を呼ばわった。
 昔のような暖かなその声音に、春陽は縋った。
 ああ、戻ることが叶うのならば。
 禁忌の恋という罪に震えながら、それでも迷わずにこの方に包まれることが出来たあの日々に戻ることが。
「何もかもを、兄さまは、何もかもを………?」
 掠れた声は囁きにも似て。
 陽孔明は否定も肯定もしなかった。
 かの王太子との約定を彼女に知らせるつもりはない。彼女はあまりにも、いろいろのことに縛られ過ぎていた。これ以上、彼女を縛ってよいものは何もない。
 ほとんど不意打ちに、陽孔明は───吉孔明は。
「多くは聞かない。………春陽、君はわたしと生きることが出来るか」
 生きること。
 わたしを愛しているか、ではなく。
 わたしと死ねるか、でもなく。
 腕の中で華奢な少女は、身動きひとつしなかった。
 自分の胸に埋められた面を、頤を掴んで自らの正面に引き寄せた。
「………春陽」
 愛しげに哀しげに陽孔明はその名を呼んだ。
 




 そして互いに、悟らぬわけにはいかなかった。





 陽孔明は瞳を閉じる。
 ────急速に何かが自分だけを残して通り過ぎて行く。
 気づく訳にはいかなかった。
 認めてしまう訳にはいかなかった。
 春陽を倖せに出来るのは、自分ではないことに。
 自覚してしまえば、全てが手の届かぬ高みに飛び去ってしまうから。
 本当はとうに解っていたことだけれど。
 ある日を境に自分のことを兄と呼ぶようになった彼女に、思いを伝えることをどれほど逡巡したことだろう。微笑み、無防備にいる彼女が、異母妹でなければどれほど良いかと。
 或いはわたしたちが皇族でなければ。
 けれど、彼女がわたしと全く血が繋がりがなかったとしても、わたしは彼女を倖せに出来ただろうか。───否。仮定は無意味だ。仮定は、けっして今現在の真実を揺るがせることなど出来やしないのだから。
「ああ………」
 我知らず、嘆息していた。
 今度こそ本当に、わたしは春陽を諦めなければならないのだ。
 ぎゅっと春陽を抱き締める。彼女は目を伏せた。
 この期に及んでいまだ春陽を求める己の罪深さに、心が震えた。
 ─────これが最後だ。
 陽孔明は断腸の思いで、春陽の身体を剥ぎ取った。
 傷ついたように、呆然と………ただ呆然とその身体が床に崩れる。
「きっとお前がわたしを思うのは、兄妹としての愛情だったのだよ」
「いいえ、いいえ………っ!」
 その言葉に我に返った春陽は、聞き分けのない子供のように頭を振った。
 まさかこの心まで否定されるとは思わなかった。この想いまで疑われるとは。
「春陽。過ちだったのだと………忘れよう、全てを」
 言葉を紡ぐことすら、困難である春陽とは違い、陽孔明の瞳は静かすぎた。澄みきったその眼差しは、彼が春陽と恋に落ちる前までは、常にその瞳に宿していた──惑わぬ色。
「………迷ってはならないんだよ。お前もわたしも、そろそろ新しい人生を歩んでもいいはずだ」
 春陽と陽孔明には未来はない。まわりを不幸にしてまで恋を成就させたとしても、自分たちがそれを覚悟し納得しなければ、続かない。続いても、恋はいつしかただの執着に堕してしまうだろう。
「それに君はすでに王太子を選んでいる。わたしたちの恋は終わったんだ」
 君もとうに分かっているのだろう、と兄は言った。春陽は唇を噛み締め、ぼろぼろと涙を零しながら、────頷いた。
 すでに選んでしまっている自分を、春陽は知っていた。
 二度と覆せぬ程の覚悟だったのだ。その選択は。
 今更、選択しなかったときには戻れない。
 本当は分かっている。
「けれどそれを認めたくは………ございませんでした」
 春陽は陽孔明の瞳を見る。
「何故ならわたくしはまだ………」
「言うな。言えば、言葉が君を縛る」
 立ち戻ることが出来なくなる。
「終わったんだ」
 繰り返し、陽孔明は言った。
(そう………兄さまとの恋など、きっととうの昔に終わっていた) 
 恋はあのときに終わった。
 春陽が、恋人と国を裏切る二重の罪だと知りつつ、王太子を選んだときに。
 陽孔明が、刺客として海を渡った春陽の死を、その身に降りかかる義務により受け入れたときに。
 彼らの恋はそこで終わっていたのだ。
 あれから状況は変わった。ガクラータ王国と陽香は和解し、春陽は結局は命を落とさなかった。しかし、状況が好転したからといってやり直すことが出来るほどに軽い覚悟ではなかった。
 何もかも、もう今更だった。
「兄さま。それでも兄さまとの恋は、無駄ではなかったのですわ」
 それを過去として口にするのは、とても胸が痛かったけれども。
「何故、そう言う───何故、そう言ってくれる?」
「兄さまとの恋がなければ、きっと恋というものを知らずにいたわたくしはあのお方を、躊躇いなく殺していたでしょう」
 今となっては、レセンドの存在が、レセンドと春陽の絆が、国と国を結び付け、両国を平らかにする。
「兄さまとの恋がなければ、きっとわたくしは自分の中にある汚れを知らないまま、潔癖という名の傲慢を振りかざすだけでしたでしょう」
 過去においてのふたりの関係を無意味なことにしたくはなくて、言葉を重ねる。陽孔明の心に、罪としてそれが残らぬように。そうして語る内にその恋は己のなかで真実、過去となってゆく。
 だが不意に春陽の言葉は途切れた。
 これ以上は言葉にするまでもない。陽孔明は分かっているだろう。
 言葉を重ねすぎれば、陳腐になる。
「………そうか」
 随分、沈黙が続いた後、陽孔明はそう独白した。
「無駄ではなかった、のか………」
「兄さま。………吉孔明さま」
 その名を、“兄”ではなく恋人としてその名を呼ぶのはこれが最後。
 春陽のそんな心に、陽孔明は気づかない。
 気づかなくていい。
 恋は終われど、わたくしの想いはまだ褪せていないことなど。
 これは心にしまっておくべきことなの、だから………。
 陽孔明は表情を消し、かの王太子との約定を告げる。
「───今を以て、汝春陽の幽閉を解く。ただちにガクラータ国王太子の元にゆけ。これ天子・桓帝の玉命なり」




 この心の痛みが消える日など訪れるのだろうか。
 春陽が去った後、自室に戻った陽孔明は、長椅子に横たわりながら同じことを何度も自問する。
 格子戸からは燦然と太陽の光が降り注ぎ、緋楽の登極を天帝が祝福しているかのようである。遠く、笑いあう女官たちの声が聞えた。誰もがこれからの未来に思いを馳せている。
 ふいに涙がとめどなく溢れた。
 喪失の痛みに心が千切れそうになる。
 このままわたし春陽の幻影だけをもて生きていくのだろうか。―― しかし、それもいいだろう。
 皇太子の任を離れたわたしは、ようやく嘆きに身を浸すことが許される。
 心密かに春陽を思い、春陽の幸せだけを祈ることが許される。
 いくらそれが自己満足に過ぎぬといえど。
「陽孔明さま」
 蓮氏の声掛けに、はっとして陽孔明は振り向く。不覚にも、全く彼女の姿に気がつかなかった。
「蓮氏………っ!」
「いいえ、お気になさらずに。わたくしは知っているのですもの」
 陽孔明にとっては、春陽よりも幼く見える蓮夏姫は、それでも妻として彼の前に立っていた。初めてこの女性を見るような心地になりながら、陽孔明は彼女を凝視する。
 自分は春陽だけを見て生き、生活し、戦っていた。だが彼女はずっと自分の傍に居たのだ。
 ――春陽に対するように彼女を愛することはあるだろうか?
 自問する陽孔明に、そっと蓮氏は近づき、その頭を包み込むようにして抱いた。 




 レセンド王太子の瞳は驚きに見開かれた。
 選択を迫るため、陽孔明が春陽を訪ねることは知っていた。どのような選択を彼女がしようとも、陽孔明はそれを助けると。新帝となった緋楽もそれを許すのだと聞いていた。
 それでも、彼女が自分を再び選ぶ可能性など、微塵とも彼は信じてはいなかった。
 はじめて船上で出逢ったときのように誇らかな姿などではなく、今まで幽閉されていた春陽は窶れ、纏う衣服も粗末なものだった。こちらを見詰める眼差しも、あのときのような烈しさはない。
 これほど極上の女はこの世にいまいと思って抱いた夜から月日が過ぎ、春陽はただの女として目の前にいる。
 だが今このときほど彼女の細い肩を抱きしめたくなったことはないだろう。
「君は陽孔明殿を愛していたのではないのか」
 本人を目の前にして、何故彼の元に走らなかったのか。
 レセンドの言葉に、春陽は久方ぶりに微笑んだ。それは悲しくはあったけれど。
 貴方を選んだ覚悟の程を侮らないでほしい──春陽は穏やかに言った。
 けして引き返せぬのだと。
「わたくしは………殿下の側に」





[一の公主 其は苗床なる水面]


 楽官が奏でる音が荘厳と広間を包んでいた。
 世界がこの新しき帝の思いのままにあるかのごとく、楽はゆるやかに、急激に、彼女の動きに合わせて揺れ動いた。新帝が手を上げれば笙が高なり、立ち上がれば音は止み、座れば二胡が床を這う。途方もなく豪奢な金黄色の衣装を纏う新帝は、薄闇の中にあって一際きらきらしく、参列した者たちにあたかも神その人を見ているかのような錯覚すら与えた。
 立ち会った海千山千のしたたかな国賓たちも、思わず息を飲んで目の前の美しきものを見守る。
 昼になり、緋陽は二度目の即位式を行っていた。ただし、全く同じことを繰り返しているのではなく、見届け人たちに違いがあった。朝に行った即位式が百官を前にしての対内的なものとすれば、今行われている諸外国を招いての即位式は、対外的なもの、つまり世界に緋陽が皇帝なのだと宣言するためのものである。
 陽香から陽呼へと王朝が新しくなっても変わらず、この国は四成大陸の指導者的立場にあるということをはっきりするために、この即位式は重要であった。特にここ数年はガクラータからの侵攻により、国は疲弊している。その隙を狙おうという第二・第三の朝楚が出現しないためにも、威風を見せ付けなくてはならなかった。
 玉座に座り、参列する客人たちを見回した緋陽の視界の端に、一際目を引く団体が引っ掛かった。
 民族は違えど、黄色人種ばかりで占められる国賓たちの中で、彼らだけが透けるように薄い色素を持っている。当然、かなり衆目は集まっていた。
 ただ、目だっていたのはその奇異な姿形だけのせいではない。ここにいる誰ひとりとして、陽香と彼らの国との諍いを知らぬ者はいないのだ。
 一団の中心にいるのは、銀の髪と瞳を持つ青年である。
 皇帝はふっと微笑んだ。人々は、それがガクラータ王太子に向けられたものだとは気づかぬまま、厳しい烈女と見える緋陽の思わぬその艶やかな笑みに魅了された。さざなみのように溜息が伝播する。
 笑みだけではない。紡がれる声は涼やかで、歩く度に揺れる踝までの長い髪は絹のよう。彼女が皇帝として背を正せば正すほど、ふと垣間見せる女らしさが一層引き立っている。女を捨てようと努力している彼女が聞けば否定するだろうが、そんな彼女の魅力は寧ろこの先、外交の面で役立つだろう。
 まだ二十二歳。小娘と侮られても仕方のない陽香の新皇帝は、しかし相手を威圧するだけの眼差しと、誰もが惹かれる女性としての魅力の両方を持つがために、無視しがたい存在力を放っていた。
 終生、彼女がただの賢帝としてだけではなく、国民たちに慕われた所以である。


 本日の全ての行程を終え、やっと人心地ついたのは夜中のことであった。
 あの後も様々な儀式が次から次へと緋陽を待っていた。儀式が終わった後もまだ終わりではなく、秋の早い日没を迎えると、今度は夜が更けるまで祝賀会が続いたのだ。
「あの食わせ狸が」
 緋陽にしては上品と言えない台詞を吐いて、彼女は牀に倒れ込んだ。宴の間ずっと、大茗国の王弟に付きまとわれていたのだ。
(なにが、陛下のご即位を天帝も嘉したもう、よ)
 かの国が朝楚の先帝・螺栖と手を組んで、この国に刃向かおうとしていたことなど、赫夜を通じてこちらは知っているのだ。無論、あちらもそれは承知の上で、恐るべき面の皮の厚さでそんなことを嘯くのだろうが。
 大体、天帝の名を口にしているが、大茗が陽香(陽呼)と同じ思想を持つ国だとは終ぞ聞いたことがない。
 なんにしろ、今日はかなり疲れた。このまま眠ってしまいたいところだが、牀に入ってもなかなか寝付けないだろうことが分かっていた。
「父上」
 天井を見つめながらそう呟くのは、これで何度目のことになるだろうか。
兄から皇帝になれと言われた日から、それに応じる決心をつけてからも、緋陽は数え切れぬほど亡き父に問いかけた。
 そして今、皇帝になってさえも。
「父上、これから世界は変わりましょう」
 四成大陸随一の大国・陽呼という国。そして、アーマ大陸随一の大国・ガクラータ。そのどちらもが変わろうとしている。
 陽呼を統べるのはまだ若い自分。ガクラータを統べるのも、同じように若いレセンド。そして春陽の存在がある。敵国であった両国は、ただひとりの少女の存在ゆえに、人々には知らされない絆によって結ばれたのだ。世界に新しい息吹を齎すことが出来るだろうか。
 陽呼とガクラータだけではない。朝楚もまた、変わった。古い因習の塊であった螺栖女王から螺緤女王へと御宇は変わった。螺緤もまた、少女王とあだ名される通り、自分たちよりもさらに若い。その若さは侮りに繋がるものではなく、健全な精神を示すものであればいい。陽香に勝る良き廷臣を得、国を改革しはじめたと赫夜からも聞く。
 先の戦で、あまりにたくさんのものが傷ついた。だからこそせめて、戦いが終わった今、何もかもが幸せになればいい。世界が平らかになればいい。途方もなく、また希望的にすぎる考えとはいえ、緋陽は祈らずにはいられない。
 そのために払う犠牲に多さにもまた、気づいている。だからわたくしは己の全てをそれに捧げる。
 それはけして苦痛ではなく、倖せなのだ。


 この日、陽呼の建国と共にその高祖が誕生した。
 諱は緋陽。号して桓帝。
 窈窕の身にて男のなりをする、美しき女帝であった。




[二の公主 氾濫せし波濤]


 先ほど姉が直接、報告を届けに来てくれた。
 姉の信奉者である朝楚人たちの能力を見込んで、調べ物を頼んでいたのだ。
 ――調査の結果を告げながら、 心配げに顰められたその眉に、姉の優しさと己の衝撃を思う。わたくしの表情から、彼がわたくしにとってどのような人物であったのか、姉さまは知ったのだろう。
 なんとか、涙を流さずにはすんだ。
「どうしてあの娘は………」
 去ってゆく各国の行列を紀丹宮の露台から眺めながらふと思いついたことは、憎いはずだった春陽のこと。
 春陽は陽孔明さまを慕っていたのだという。異母兄妹でありながらのその関係に彼らが悩み、けれど決着のつかぬうちにふたりは戦によって引き裂かれた。
 ならば、かつてあの娘はわたくしに言った、あの王太子を愛しているという言葉は何だったのだろうか。
 赫夜には分からない。真相は本人である春陽以外には分からぬことだ。そして赫夜には、それを問い質すつもりは少しもなかった。
 今は何を聞いても言い訳にしか感じられないだろう。彼女に対する怒りが収まった訳ではないのだ。もしかすると、一生しこりは残るかもしれない。自分は姉のように広い心を持ってはいないのだから。
「妹君のことですか」
 始めの頃の慇懃な態度からは随分と崩れてきた礼淨が、軽く赫夜に言った。
 国を裏切ってまで敵国の王太子と熱烈な恋愛をしたという話がまことしやかに流れている。確かなことは赫夜からは聞かされていないので分からないが。
「ええ……。あの娘はガクラータ王太子と心を通わせていたわ。どうしてそんなことが出来たのかしら」
 赫夜は陽孔明のことは礼淨には告げなかった。それは、最近まで自分にもそれが明かされなかったのと同じ理由で、密やかな、大切に心の中にしまわねばならない類いのことなのだ。
「公主とて、敵対関係にありながら陛下と友情を交わしたのでは」
「けれど、陛下の志はわたくしと重なっていたわ。あの方は陽香と敵対していることを忌んでいた」
 だがガクラータ王太子はそうではない。
(本当は、全く理解できぬものでもないのだけれど)
 内心でこっそり赫夜はそう呟いた。
 恋とは禁忌というものに縛られぬもの。春陽がレセンド王太子や陽孔明さまに惹かれたのも、仕方のないことかもしれない。
 そう考えることが出来るようになったのも、自分が雄莱への想いを自覚し、尚且つ最近ようやくその想いを昇華させることが出来るだろうと思い始めたからだ。
 雄莱───彼と連絡をとることを、姉に頼んでいた。
 恐らく、彼と恋を結ぶことはけして許されないだろうし、自分もそうするつもりで彼に会おうとしていたのではない。
 きっと自分が雄莱に想う気持ちは恋であるけれど、彼の側で暮らす自分というものを、想像できない。寧ろ、わたしは彼がいなくても生きて行ける自分というものに夢見ているのかもしれなかった。
 彼は遠い存在であっていい。ただ心の中に棲んでいればいいのだ。
 わたくしはそう思っていた。
(雄莱………)
 わたくしの前に現れ、わたくしという存在を変え、そして流星の如く過ぎ去ってしまった人。
 赫夜はそこで表情を改めた。
 この感情から決別するためには、必要なことだった。
「礼淨」
 静かに、けれど無視しがたい強い口調で、彼女は呼ばわった。
 その声の調子に、礼淨は迂闊に返事をすることはせず、無言のままにゆっくり振り向いた。何かは分からないが、公主が自分を呼んだのは、深刻な話をするためなのだと理解したからである。
 彼女は静かな眼差しを向けた。
「礼淨………」
 もう一度、赫夜はその名を唇の乗せた。
 露台に立つ彼女の肩口までの髪は揺れている。
 皇帝の即位を祝うのに相応しい、数日前からずっと続く秋晴れが、穏やかな光を場違いに彼らの元に届けた。
「わたくしは逓雄莱の末期を知ったわ」
「………」
 そのとき礼淨の瞳は覚悟に染まった。
 罵倒されても、目の前で号泣されても、あるいは無言で切り捨てられても構わない。
 その覚悟は、雄莱を死に追いやったという罪ゆえではなかった。礼淨はそれが戦いというものだと思っているし、これからもそのやり方を変えるつもりもない。彼は自分の中の酷薄さと残忍さを自覚している。自分の意志の為ならば、手段を問わない己がいる。例えば、自分たちが革命までして祭りあげた螺緤新女王が、その任の重さに耐え切れず愚王となれば、先王と同じく、即座に死に追いやってしまえるほどに。
 だからその覚悟は、赫夜を哀しませた罪ゆえだった。
「謝りなさい。────わたくしに」
 雄莱に、ではなく。
 瞳を見開く。
 そして礼淨は不謹慎にも、内心では会心の笑みを浮かべていた。
 赫夜は心得ているのだ。雄莱の死は、礼淨の立場であれば最善であったことを。
 礼淨はそのとき将であった。彼には兵の命を減じずに、しかも短期間に、目標を遂げなければならなかったのだ。祖国のために、女王を倒そうとしていた彼は、計画までは女王の機嫌を損ねるわけにはいかなかったのだから。
 だから赫夜は雄莱にではなく、己に謝れという。将である礼淨の覚悟と同じように。
「何度でも謝ります。───貴女にならば。どのような罰でも受けるつもりです」
 礼淨がそう言った直後。
 赫夜は彼の顔面に、強烈な一撃を平手ではなく拳で見舞っていた。急のことで、彼はしばらく痛みと衝撃で口を開くことが出来なかった。しかし、辛うじてとはいえ呻き声ひとつあげず、しかも衝撃から耐えきった後すぐに、懐の絹布をさっと差し出した礼淨は立派だったといえよう。
 赫夜は、号泣していた。
 慟哭とさえ、言えたのかもしれない。彼女がこれほどまでに烈しい悲しみを現すのを、礼淨は初めて目にした。
「公主………」
 労りの声にも、けれど返ってくるのは嗚咽だけ。
 一向に受け取られない絹布をしばし見つめた礼淨は、結局それを放り出すと、彼女を抱き締めた。



*     *     *



 年月は流れ流れゆく。
 炯帝の血をひく三姉妹の描き出す軌跡はどれも鮮やかで眩しい。
 奇数なる運命も、それは当然であるかのように思わせる。


 ───緋楽。
 彼女は緋陽となり、桓帝となった。物腰の穏やかさを裏切る、烈しいまでの陽香の安寧への希求と、それを為すための自戒。それらが彼女を希代の名君とならしめた。
 高祖・桓帝が奮った手腕についての逸話は数え切れぬほどであるが、その私生活は後世にほとんど伝わっていない。公主時代には芸術を愛したといわれるが、その在位中に公事以外で彼女が遊びに興じたという記載は、たった一文でさえ残されていない。

 ───赫夜。
 大国の公主でありながら、異国である朝楚の臣に下った。螺緤女王の友であり、忠実な臣下であり、ときに参謀であった。朝楚に渡って以来、兵法を学んだ彼女は、女性の身で刃を帯び、馬を駆け、軍を率いて朝楚を守った。
 赫夜には稀に貴なる存在感があった。兵たちが異国の女将軍を受け入れたのは、当然の成り行きでさえあったかもしれない。颯爽と戦場に立つ女将軍の背後には、その国で得た夫が控え、彼女たちは大陸に名を馳せる両将軍となる。

 ───春陽。
 元は敵国であったガクラータ王国の王太子に嫁ぐ。そして国王レセンド五世として夫が即位する際、王妃にと望まれる。そのために第二夫人の実家である侯爵家や、黄色人種であることへの偏見から反対する臣下たちと戦うことを余儀なくされた。しかしレセンドが手をつくした結果、彼女はついに建国以来初の、黄色い肌を持つ王妃となった。
 烈冷王とあだなされる国王とともに、王妃・春陽は属国を解放し、国内に巣喰う異国に対する差別と、奢りを払拭しようとした。それは彼らの子供に受け継がれてゆく。


 緋陽が希代の名君に成り仰せ、枷から解き放たれた赫夜が自由に生き、 春陽が幸せに包まれたとき、この話は終わる。








(傾城の花・終わり)








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