断章:天への反問 (前)
吾が夜に夢至り、抱くは虚無
抗うこと敵わず、さりとて受けいること能わず
その訪いに震う
吾はただ傍観者であるのみ
* * *
平生とは違う午だった。
夏の日中だというのに、虫の音ひとつしない。沈黙だけが少女と少年を包んでいた。ただ、高い壁によって四角に切り取られた空から、夏の強い日差しが燦燦と降り注いでいる。少女が目を伏せると、睫が頬にくっきりと濃い影を残した。
少女と少年のどちらの額からも汗が滴り落ちている。
常のように、さんざん遊び回った後の心地よい汗ではなかった。炎天下の下で涼も取らず、ふたりはただ沈黙のままに、長い時間見詰め合っている。
少年の抱える悩みを、少女には薄々だが察せられた。かつてならば、少年はそれを少女に容易く吐露しただろう。少年にとって少女は、姉であり、幼馴染であり、掛け替えのない戦友だった。
しかし今、少年は逡巡を覚え、硬く唇を引き結んでいる。まだ十を数えたばかりではあるが、彼はその身に立場を負う。たとえ相手が少女であってさえも、胸の内を口にすることを憚るのだろう。
少女は桃珠といい、名門である泰家の姫である。少年は後嗣ではないものの正嫡の皇子であり、名を考龍という。彼らは自分たちの立場を十分に理解していた。
───妾(わらわ)たちとて、いつまでも物事の分からぬ子供のままではない。
近頃、考龍の瞳は利発さを映すようになった。自分もまた、否応なく少女から女性になるのだ。自分の肩が円みを帯び、胸が膨らんでいくことを無視することはもう出来ない。異性同士が遊ぶことの許されるぎりぎりの年齢に、彼女たちは達っしていた。
だからこそ桃珠は常に、わざとのように幼く振る舞っていた。
駆け回ること。馬に乗ることに憧れること。薄着で人前に出ること。皇子である考龍に遠慮なく接すること。感情のままに大きな口を開けて笑い、声を出して泣くこと。
それらは子供だけが許されること、なのだから。
けれど同時に桃珠はもう分かっている。
こうしてふたりきりで遊ぶことが許されるのは、自分たちがまだ子供だからという理由だけではない。いつか添うことを望まれている間柄だからこそ、特別に猶予が延ばされただけのこと。考龍の妻になることを拒み続けている桃珠は、早晩、彼と引き離されることになるだろう。
城壁に護られた自分たちの狭い箱庭が、そしてそこに流れる時間が、何もかもから隔絶されたように感ずるのもまた、錯覚だということを彼女は気がつかずにはいられなかった。
それを証しだてするかのように、この空間の中にいてさえ少年は外の苦しみを忘れられずにいる。
時の流れはふたりを押し流してゆく。
「殿下………どうか」
このようなときでさえも、もはや彼を呼び捨てにすることは出来ぬ。そのことに小さな痛みを覚えながら、それでも桃珠は必死に彼を護ろうとした。
「どうか、全てを抱え込まないでくださいませ。妾は何時もお傍を離れませぬ」
「桃珠……」
考龍は耐え切れぬように瞳を伏せた。そして独白のように口を開く。それは圧し殺した悲鳴に似た───。
「まさか、先の皇后陛下を手に掛けたのが母上であったなど」
抑揚のない台詞は、見ようのよっては穏やかなふうにもとれる。しかし激情を寸での所で抑えていることが、握り締めた拳から窺い知れた。
桃珠は溜め息をついた。
案の定、彼は知ってしまったのだ。母親である栄芙明の罪を。
先の皇后・勣氏が廃后されたのは七年前。不貞や厭勝を為したという咎である。
当時、昭儀の位にいた栄氏が、皇后である勣氏を妬み、陥れた。その結果、勣氏は廃后された。それだけではない。皇帝の命によって市井に戻された勣氏の消息を執念深く追跡した彼女は、惨い方法で殺してしまったのだ。
七年経った今、事実はかき消された。勣氏と成り代わって皇后となった栄氏の怒りを恐れ、人々は一様に口を噤み、禁句となったのだという。当時幼かった考龍は、だから何も知らされなかった。桃珠の方は父親から真実を聞かされていたが、流石に誰も考龍に注進する者はいなかったのだ。しかし、おとなしすぎるところはあるが充分に聡い考龍は、自力でそれを突き止めてしまった。
「桃珠。わたしはどうしたらいいのだろう」
正しきことを申し上げるのですと勧めることは、桃珠には出来ない。考龍の母親は美しく、しかし恐ろしい女性だった。反抗したならば、実子とはいえ考龍はに殺されるやもしれない。
桃珠は辛く眉を寄せた。
(考龍が救いを求めているのに、妾に持つべき言葉はない)
彼は母親を恐れることしか出来ぬことを哀しんでいる。もし母親への情を捨てれば、その哀しみは軽くなるのだろうけれど。
「殿下の罪ではございませんのに………」
何とか口にした言葉は、気休めにもならない。
その優しさゆえに、考龍は苦しむのだから。
だが、考龍の吐き出した言葉はそれに留まらなかった。
「ああ桃珠。きっとわたしは至尊の位に即く。わたしの望むと望まぬとに限らず、そうなってしまう。夢に見てしまった。天はわたしに、あの暗き道を往けというのか――」
「殿……下……」
何か言おうとするのだが、掠れた声で彼を呼ぶことしかできない。
他の者がそれを聞いたならば、戯言と一笑に付したかもしれない。だが桃珠にはそうすることが出来なかった。なぜなら彼女は考龍が天より理不尽に賜った力について知っていたからだ。
天帝。あなたさまは、何故こうも考龍からいろいろなものを奪っていく――。
胸の痛みに耐えかね、桃珠は考龍を抱きしめた。考龍からこれ以上、何かが失われてゆくのを阻むように。
(嗚呼、父上…・・・)
瞳を閉じる。恐らく静かに慟哭しているだろう考龍の涙を見ないでいてあげるために。
(妾は父上のおっしゃるとおり、殿下の妃になりますわ)
泰桃珠は、このときはじめて考龍皇子の妻になることを決意したのだった。
南中した太陽が、変わらずふたりを照らし続けている。
栄氏の生んだ皇子とはいえ、考龍はその皇子時代を特異なほどに静かに過ごした。
彼が泰桃珠――泰氏を娶ったことも政治的な大局からすると些細なことに過ぎなかった。史書にはただ、『栄皇后芙明が第三子・考龍に正妻立つ。これ泰義延の一女なり。後に武妃と冊立せり』と記されるのみで、彼女の実名は後世で明らかではない。
泰氏は静かに考龍を見守り、過ごしていた。
夫と妻となったからといって大きく何かが変わったわけではなかった。時に義務として――あるいは互いに慰めあうようにして体を重ねはしたが、それ以外は姉と弟のような関係が続いていた。
子供も生まれた。男児であり、面差しが父親と似ていたため、泰氏は殊のほか嬉しかった。考龍と相談し、吉孔明と名づけた。
ただ穏やかで静かな日々がしばらく続いた。だが、破局は訪れた。来るべきときが来てしまったのだ。
───妾はあの日を生涯忘れまい。
考龍の長兄・陽藍皇太子が、実母である栄皇后によって処刑されたという報が栄屯を切り裂いた。静かな動揺が波のように広がっていく中、考龍は彼を縛っていた何もかもを投げ捨て、泰氏に叫んだ。
許さぬ。
兄上を殺した母上をけして許さぬと。
血の繋がりゆえに栄皇后に抗うことのできなかった考龍が、初めてそう言った。
それは次兄の太令皇子が皇太子位を放棄する以前のことであり、当然そのときの考龍は、栄皇后を罰する権利を持たなかった。しかし彼は母后を討つと覚悟を決めたのである。
繊細で傷つきやすい青年であった考龍の涙を泰氏が見たのは、それが最後だった。
考龍は自分を擁立しようという数少ない味方を引き連れ、革命を起こした。付き従う臣下の中には、泰氏の父親である義延や兄の義伯もいた。いつもは穏やかな父や兄の厳しい眼差しは、考龍の横顔と重なった。
泰氏は壊れていってしまうものを考えずにはいられなかった。もうこれ以上、考龍から何かが失われることを防ごうとして、彼の妻になったというのに。
そして母親を捕らえた考龍は立太子し、陽龍となる。
号して炯帝。のちに諡して聖国尊王と呼ばれる陽香王朝の最後の皇帝が誕生したのだった。
そして、彼が皇帝という生き物になるさまを、瞬きもせず泰氏は見守った。
ただ優しく穏やかだった考龍から、一切の弱さも己に許さぬ陽龍へと変わった彼。彼はあたかも、生きながらにして生まれ変わり、ふたつの生を生きたかのようであった。
それを変貌というのか。否、違う。
その切り替えはけして羽化ではない。脱皮ではない。
彼は全く別の物に入れ替わったのだ。
(哀しい人)
妾は、そんなあなたを見守り続ける。
* * *
陽龍が青春耶と出会ったのは、即位から初めて迎えた冬のことだった。
ひとたびの邂逅だけで、陽龍は何かに憑かれたかのように彼女に惹かれた。周囲の反対を押し切り皇后として迎え、深く彼女を愛したのだ。
初めて春耶を紹介されたとき、彼女の纏う異様とも神々しくとも思える不思議な雰囲気に、泰氏は言葉が出なかった。
陽龍に愛する女性が出来たことを喜びながら、しかし泰氏は一抹の不安を覚えずにはいられなかった。青氏の黒曜石の瞳は、ただ甘やかに、ただ穏やかに恋を語るには勁すぎる。峻烈な彼の人生を、ますます険しくさせる存在ではないかと危ぶんだのである。
何故あの方だったのか。あの方でなければならなかったのか。相応しい女性ならば、他にいくらでもいた。
そう思う反面、出逢うべくして出逢った。そんなふうにも感ぜられた。運命のように抗いがたく、陽龍は青氏を愛する。運命という言葉は彼にひどく近しいものであり、ゆえに彼が最も嫌悪するものであったはずというのに。
幸せで平凡な出会いではないことが、泰氏には哀しかった。
泰氏の予感は半分は当たった。陽龍はその残り半生、絶望を見据えながら生きることを強いられた。その全ての責を女性との出会いに科することは乱暴なことではあるが、確かに女性がそれには関係していたのだ。
しかし青氏は陽龍を幸せにした。安寧ではなくとも、常に不安と哀しみを、そして絶望を抱えていたとしても、それでも陽龍は女性と共に生きることに幸せを感じていたのだ。
* * *
陽龍の即位後、開輪三年、泰氏は第二子を懐妊した。
もともと月のものが遅れがちであったため、後宮の医師だけでなく泰氏自身、自分が妊娠していることに気づくのが遅れた。誰よりも皇帝の寵を受けているのが青氏である以上、いつまでも懐妊の兆しのない彼女の体調を誰もが注目していたが、すでに一男を成している泰氏にはあまり関心を向けていなかったというせいでもある。
はじめにそれを指摘したのは他でもない皇帝だった。一体、何の話かと目を丸くした泰氏に、陽龍は受胎告知の夢を見たと告げたのだった。
陽龍を男として愛していたわけではなかったが、子供を孕んだことを純粋に喜んだ泰氏は、寝物語に夢の内容を聞かせてほしいとねだった。
「蒼みがかった闇があった」
泰氏を腕に抱きながら、陽龍はゆっくりと瞳を閉じる。かつては姉と慕い、自分よりも大きな身体をしていた年上の女は、今こんなにもなよやかで小さい。皇帝とその寵妃ではなく、ただの考龍と桃珠として在った時代はもう遠く過ぎ去ってしまった。
それでも形を変えて、桃珠は自分の何よりの味方として傍にいてくれる。――おそらく自分は幸せなのだろう。
そのようなことを頭の端に考えながら、陽龍はゆるゆると夢の内容を反芻する。
「蒼みがかった闇があった」
鳥肌がたつほどの衝撃があった。
「恐ろしいまでの静寂。しかしこれから何か起こるかもしれぬという騒々しい予感をも秘めて」
それはどのようなものだろう。
泰氏は息を詰めて聞き、想像する。
「………それで」
「ついで眸を開くことの出来ぬほどの烈しい光の塊」
そこで陽龍は再び瞳を開いた。訝しげな泰氏の顔が間近にある。
「光の塊?」
頷き、あの攻撃的なまでに目映い映像を心に繰り返す。
こちらの存在ごとかき消されそうなほど圧倒的な───、
緋。
「暁の夢、それだけであった。なのに何故か余は、それが受胎告知の夢だと分かった」
闇の深淵。
一瞬の、深まりすぎた静寂。
光の本流。
息も出来ぬほどの、強い、強い力。
その輝きの鋭さゆえに身を切り裂かれるような痛みを覚えながら、何故か安堵をも余に齎したのだ。
あれは何だったのだろう。
あの力は。
「ゆえに………」
陽龍の言葉が力なく掠れ、後を泰氏が引き取った。
「緋楽と」
陽龍のように我が娘もまた、なにがしかの運命を負っているのではないかと、微かに不安を覚えながら。
泰氏は陽龍に身を寄せて、瞳を伏せた。
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